トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」に近い、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学の続きです。
前回は、ヤズルカヤ遺跡の岩山の壁面に彫られた神々のレリーフの内、大ギャラリーのものを紹介しましたが、今回は、小ギャラリーの紹介です。
「ヤズルカヤ遺跡」の小ギャラリー入口の風景です。
左右の石段が合流した先が小ギャラリーの入口で、切り立った二つの岩山の狭い間の通路を進んで行きます。
前回も掲載した遺跡の再現平面図で、案内板にあったものを加工編集したものです。
建物1が門、建物2が王の葬祭殿、Aのエリアが大ギャラリーで、Bのエリアが今回紹介する小ギャラリーです。
岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けており、(8)~(11)の順で見ていきます。
入口の階段左手にあったレリーフ(8)です。
長い尾をまっすぐに上げ、仁王立ちになった守り神の顔は、野獣のようにも見えます。
この奥の小ギャラリーに戦いの神「シャルマ」のレリーフがあり、前回紹介した大ギャラリーのレリーフ(5)にもパンサー(豹)の上に立つシャルマ神の像があることからシャルマ神にちなんだパンサー(豹)を守り神としたものと考えられます。
この後、見学する「ハットゥシャシュ遺跡」の城門にもライオン像、スフィンクス像などが門の脇に見られ、聖なる動物を守り神とする信仰があったことがうかがわれます。
しかし、それらの守り神は、門の両脇にあり、左に一体だけあるこの守り神には不自然さを感じます。
「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」によると、「厄除けの2体の怪物に守られた岩の狭い通路を通って、「付属」の部屋に達する」として第二の小ギャラリーの説明が始まっており、右手にも1体あったのかも知れません。
又、このレリーフの写真をよく見ると、風化が見られず、レプリカをコンクリートで貼り付けた形跡にも見えます。
ひどく風化したレリーフを保護する目的でレプリカに変えるなら右にも付けるはずで、片方しかない守り神にはやはり疑問は残ります。
ガイドさんを先頭に狭い岩の通路を進んで行く風景です。
右側の岩壁に削られような跡が見られ、人為的に広げられた通路と思われます。
小ギャラリーで、ツアーの一同がガイドさんの説明を聞いている風景です。
右手(東側)の壁にレリーフ「12神の行進」(9)があり、その先に二つの不思議な穴が見えます。
高く切り立った左右の岩壁の間には、人がすれ違う程度の幅で、ロープが張られており、すぐ先は、行き止まりです。
周囲を岩壁で囲まれたこの地形は、ほとんど天然のものと思われますが、不思議に気持ちが落ち着く空間でした。
右手(東側)の岩壁に「12人の黄泉の国の神々が行進するレリーフ」(9)(地球の歩き方-ダイヤモンド社)と案内されたレリーフがありました。
写真右上は、レリーフの一部を拡大したもので、トンガリ帽子をかぶり、三日月型の剣をかかげて進んで行く姿からは「黄泉の国」のイメージは浮かんできません。
三千年以上の歳月を経たレリーフですが、くっきりと像が残っていることに驚きます。
大ギャラリーの男神の列の最後尾にも同じような姿をした12神が並んでいましたが、関連はあったのでしょうか。
写真左は、回廊左手(西側)奥にある「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」とされるレリーフ(10)で、写真右は、そのレリーフの線画で、案内板にあったものです。
「シャルマ神」と、「トゥドハリヤ4世」は、共に大ギャラリーでも登場し、主神「テシュプ」と、配偶神「へバト(アリンナ)」の子神「シャルマ(戦いの神)」とあり、この三神はハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤ四世を表すとされていました。
トゥドハリヤ四世を表すとされるシャルマ神に抱きかかえられているこのレリーフの意味を考えると、シャルマ神を守護神として崇め、加護を願うものだったのかも知れません。
写真左は、回廊左手(西側)にある「剣の神ネルガル」とされるレリーフ(11)です。
この遺跡のレリーフでは最も大きな像で、写真では上の三角帽子の部分が欠けています。
写真右は、レリーフの線画で、両肩と、両足のひざに顔のあるライオンが見られ、ガイドさんの説明によると足元は剣を表すようです。
「ネルガル」は、メソポタミアの神話で、冥界の王とされ、ヒッタイトにも受け継がれていたようです。
前回の大ギャラリーの諸資料で、記事では聖地ヤズルカヤは、ハットゥシリ3世と、その息子トゥドハリヤ4世の代に造られたとされていましたが、ガイドブック「地球の歩き方」(地球の歩き方編集室 著、ダイヤモンド社 )では「~トウタルヤ4世の息子にしてヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世が父トウタルヤ4世(トゥドハリヤ4世)を祀るために造った~」あり、資料により違う説が採用されているようです。
大ギャラリーの右の列最後尾のトゥドハリヤ四世のレリーフや、小ギャラリーのシャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世のレリーフを生前に自身が造らせたとしたら不自然にも思われます。
シュピルリウマ2世が亡くなった父トゥドハリヤ4世のため、冥界の王「ネルガル」を崇め、シャルマ神の加護を受けるよう冥福を祈ったのかも知れません。
鉄器時代のさきがけとなったヒッタイト時代、鉄器時代の始まりは、ヒッタイト帝国の滅亡から始まったとされますが、製鉄は、ヒッタイト以前に始まったとされています。
鉄器、しかも高度な鋼鉄製にまつわる興味深い歴史がこのレリーフにあったようです。
■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの磨崖に彫られた「短剣神」この浮彫りと同じ様式化した獅子を装飾している鋼鉄製の刃をもった斧が、ウガリット※から出土しているので、この短剣の刃も鉄であったと思われる。これはヒッタイト帝国とウガリットの密接な関係を示す史料でもある。
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※地中海東岸の町、現在のシリア領。
「12神の行進」のレリーフの奥にある不思議な二つの穴です。
写真下段は、大きさを確認するため、左の穴に手先を添えて撮ったものです。
確か、ガイドさんの説明は、お供えのための場所だったように記憶しています。
当時、祭祀には動物のいけにえが捧げられたようで、そのための穴と考えれば不自然な大きさとは思われません。
大ギャラリー左手奥を妻が撮った写真で、逆光によるものだったのでしょうか、数ヶ所に青く光る模様が写っていました。
左の岩壁に一つの穴が見え、その左に「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」の像、更に左に「冥界の王ネルガル」のレリーフが見えます。
遺跡の平面図に描かれていた小ギャラリーの穴がを見ると、この穴の向いに上の写真の二つの穴があることが分かります。
お供えは、目の前にすることが普遍的と考えると、岩壁の両側にお供えの穴が向かい合っていると考えるのは不自然に思われます。
右手に12人の黄泉の国の神々と、左手に冥界の王「ネルガル」のレリーフが迎えるこの小ギャラリーがトゥドハリヤ4世の祭礼と、その後の祭祀の場所と考えると、この穴がトゥドハリヤ4世の埋葬の穴だったと考えるられなくもありません。
狭い岩の通路を過ぎて小ギャラリーを出た風景です。
前の広場には「王の葬祭殿」の建物跡が見られます。
ヤズルカヤ遺跡の駐車場北側に並ぶ土産物屋の風景です。
二列に並んだ小さな小屋にたくさんのお土産が陳列され、ツアーの人たちが見て歩いています。
写真中段は、トルコ名物の魔除け「青い目玉(ナザール・ボンジュウ)」が並ぶ風景で、トルコ各地で見られました。
写真下段は、石の置き物のお土産で、「ヤズルカヤ遺跡」や、「ハットゥシャシュ遺跡」などヒッタイトにちなむ遺物のコピーのようです。
写真上段は、「ハットゥシャシュ遺跡」の最も高いスフィンクス門から北東方向を見下ろした風景です。
眼下には城塞や、神殿跡が見られ、写真右端の山の中腹にはヤズルカヤ遺跡のある岩山も遠望できます。
写真下段は、ヤズルカヤ遺跡付近を拡大した風景で、向かって右にいくつかの岩山が集まっている場所です。
ヒッタイトの祭祀文化は、メソポタミアなど、周辺民族の信仰を広く受け継ぎ、帝国滅亡後は古代ギリシアへも大きな影響をもたらしたとされています。
メソポタミアに発した文明は、アナトリアのヒッタイト王国へ伝わり、更にエーゲ海を渡りギリシア、ローマへと続いていったようです。
前回は、ヤズルカヤ遺跡の岩山の壁面に彫られた神々のレリーフの内、大ギャラリーのものを紹介しましたが、今回は、小ギャラリーの紹介です。
「ヤズルカヤ遺跡」の小ギャラリー入口の風景です。
左右の石段が合流した先が小ギャラリーの入口で、切り立った二つの岩山の狭い間の通路を進んで行きます。
前回も掲載した遺跡の再現平面図で、案内板にあったものを加工編集したものです。
建物1が門、建物2が王の葬祭殿、Aのエリアが大ギャラリーで、Bのエリアが今回紹介する小ギャラリーです。
岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けており、(8)~(11)の順で見ていきます。
入口の階段左手にあったレリーフ(8)です。
長い尾をまっすぐに上げ、仁王立ちになった守り神の顔は、野獣のようにも見えます。
この奥の小ギャラリーに戦いの神「シャルマ」のレリーフがあり、前回紹介した大ギャラリーのレリーフ(5)にもパンサー(豹)の上に立つシャルマ神の像があることからシャルマ神にちなんだパンサー(豹)を守り神としたものと考えられます。
この後、見学する「ハットゥシャシュ遺跡」の城門にもライオン像、スフィンクス像などが門の脇に見られ、聖なる動物を守り神とする信仰があったことがうかがわれます。
しかし、それらの守り神は、門の両脇にあり、左に一体だけあるこの守り神には不自然さを感じます。
「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」によると、「厄除けの2体の怪物に守られた岩の狭い通路を通って、「付属」の部屋に達する」として第二の小ギャラリーの説明が始まっており、右手にも1体あったのかも知れません。
又、このレリーフの写真をよく見ると、風化が見られず、レプリカをコンクリートで貼り付けた形跡にも見えます。
ひどく風化したレリーフを保護する目的でレプリカに変えるなら右にも付けるはずで、片方しかない守り神にはやはり疑問は残ります。
ガイドさんを先頭に狭い岩の通路を進んで行く風景です。
右側の岩壁に削られような跡が見られ、人為的に広げられた通路と思われます。
小ギャラリーで、ツアーの一同がガイドさんの説明を聞いている風景です。
右手(東側)の壁にレリーフ「12神の行進」(9)があり、その先に二つの不思議な穴が見えます。
高く切り立った左右の岩壁の間には、人がすれ違う程度の幅で、ロープが張られており、すぐ先は、行き止まりです。
周囲を岩壁で囲まれたこの地形は、ほとんど天然のものと思われますが、不思議に気持ちが落ち着く空間でした。
右手(東側)の岩壁に「12人の黄泉の国の神々が行進するレリーフ」(9)(地球の歩き方-ダイヤモンド社)と案内されたレリーフがありました。
写真右上は、レリーフの一部を拡大したもので、トンガリ帽子をかぶり、三日月型の剣をかかげて進んで行く姿からは「黄泉の国」のイメージは浮かんできません。
三千年以上の歳月を経たレリーフですが、くっきりと像が残っていることに驚きます。
大ギャラリーの男神の列の最後尾にも同じような姿をした12神が並んでいましたが、関連はあったのでしょうか。
写真左は、回廊左手(西側)奥にある「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」とされるレリーフ(10)で、写真右は、そのレリーフの線画で、案内板にあったものです。
「シャルマ神」と、「トゥドハリヤ4世」は、共に大ギャラリーでも登場し、主神「テシュプ」と、配偶神「へバト(アリンナ)」の子神「シャルマ(戦いの神)」とあり、この三神はハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤ四世を表すとされていました。
トゥドハリヤ四世を表すとされるシャルマ神に抱きかかえられているこのレリーフの意味を考えると、シャルマ神を守護神として崇め、加護を願うものだったのかも知れません。
写真左は、回廊左手(西側)にある「剣の神ネルガル」とされるレリーフ(11)です。
この遺跡のレリーフでは最も大きな像で、写真では上の三角帽子の部分が欠けています。
写真右は、レリーフの線画で、両肩と、両足のひざに顔のあるライオンが見られ、ガイドさんの説明によると足元は剣を表すようです。
「ネルガル」は、メソポタミアの神話で、冥界の王とされ、ヒッタイトにも受け継がれていたようです。
前回の大ギャラリーの諸資料で、記事では聖地ヤズルカヤは、ハットゥシリ3世と、その息子トゥドハリヤ4世の代に造られたとされていましたが、ガイドブック「地球の歩き方」(地球の歩き方編集室 著、ダイヤモンド社 )では「~トウタルヤ4世の息子にしてヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世が父トウタルヤ4世(トゥドハリヤ4世)を祀るために造った~」あり、資料により違う説が採用されているようです。
大ギャラリーの右の列最後尾のトゥドハリヤ四世のレリーフや、小ギャラリーのシャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世のレリーフを生前に自身が造らせたとしたら不自然にも思われます。
シュピルリウマ2世が亡くなった父トゥドハリヤ4世のため、冥界の王「ネルガル」を崇め、シャルマ神の加護を受けるよう冥福を祈ったのかも知れません。
鉄器時代のさきがけとなったヒッタイト時代、鉄器時代の始まりは、ヒッタイト帝国の滅亡から始まったとされますが、製鉄は、ヒッタイト以前に始まったとされています。
鉄器、しかも高度な鋼鉄製にまつわる興味深い歴史がこのレリーフにあったようです。
■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの磨崖に彫られた「短剣神」この浮彫りと同じ様式化した獅子を装飾している鋼鉄製の刃をもった斧が、ウガリット※から出土しているので、この短剣の刃も鉄であったと思われる。これはヒッタイト帝国とウガリットの密接な関係を示す史料でもある。
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※地中海東岸の町、現在のシリア領。
「12神の行進」のレリーフの奥にある不思議な二つの穴です。
写真下段は、大きさを確認するため、左の穴に手先を添えて撮ったものです。
確か、ガイドさんの説明は、お供えのための場所だったように記憶しています。
当時、祭祀には動物のいけにえが捧げられたようで、そのための穴と考えれば不自然な大きさとは思われません。
大ギャラリー左手奥を妻が撮った写真で、逆光によるものだったのでしょうか、数ヶ所に青く光る模様が写っていました。
左の岩壁に一つの穴が見え、その左に「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」の像、更に左に「冥界の王ネルガル」のレリーフが見えます。
遺跡の平面図に描かれていた小ギャラリーの穴がを見ると、この穴の向いに上の写真の二つの穴があることが分かります。
お供えは、目の前にすることが普遍的と考えると、岩壁の両側にお供えの穴が向かい合っていると考えるのは不自然に思われます。
右手に12人の黄泉の国の神々と、左手に冥界の王「ネルガル」のレリーフが迎えるこの小ギャラリーがトゥドハリヤ4世の祭礼と、その後の祭祀の場所と考えると、この穴がトゥドハリヤ4世の埋葬の穴だったと考えるられなくもありません。
狭い岩の通路を過ぎて小ギャラリーを出た風景です。
前の広場には「王の葬祭殿」の建物跡が見られます。
ヤズルカヤ遺跡の駐車場北側に並ぶ土産物屋の風景です。
二列に並んだ小さな小屋にたくさんのお土産が陳列され、ツアーの人たちが見て歩いています。
写真中段は、トルコ名物の魔除け「青い目玉(ナザール・ボンジュウ)」が並ぶ風景で、トルコ各地で見られました。
写真下段は、石の置き物のお土産で、「ヤズルカヤ遺跡」や、「ハットゥシャシュ遺跡」などヒッタイトにちなむ遺物のコピーのようです。
写真上段は、「ハットゥシャシュ遺跡」の最も高いスフィンクス門から北東方向を見下ろした風景です。
眼下には城塞や、神殿跡が見られ、写真右端の山の中腹にはヤズルカヤ遺跡のある岩山も遠望できます。
写真下段は、ヤズルカヤ遺跡付近を拡大した風景で、向かって右にいくつかの岩山が集まっている場所です。
ヒッタイトの祭祀文化は、メソポタミアなど、周辺民族の信仰を広く受け継ぎ、帝国滅亡後は古代ギリシアへも大きな影響をもたらしたとされています。
メソポタミアに発した文明は、アナトリアのヒッタイト王国へ伝わり、更にエーゲ海を渡りギリシア、ローマへと続いていったようです。