9月23日お昼過ぎ、大山寺、大神山神社への参道下の駐車場へ着きました。
少し曇って大山の 山頂がよく見えませんでした。
広い駐車場から階段を上がると参道です。
階段の左側に草原が広がっていました。
階段を登る途中に案内板がありました。
「博労座」とあり、大規模な牛馬市があったことが書かれています。
階段を上り、参道の入り口に「大山自然歴史館」がありました。
参道脇にあった大山寺、大神山神社周辺の地図です。
下の赤く塗られた場所が「大山自然歴史館」、その少し下に「博労座」と書かれています。
「大山自然歴史館」に入ると「大山牛馬市展」開催中の案内板がありました。
写真は、館内の「大山牛馬市展」のメインパネルです。
説明書きを転記します。
■市の様子
市に参加するものは、まず入場料を支払う
(横手道にある石の鳥居に番所があった)
↓
売買が成立し手数料を支払う
(現在の八橋警察署大山寺駐在所あたりに中番所があった)
↓
売り手と買い手双方拍手を打ち、飲食をして売買終了
特に春の祭り(旧4月24日)には神輿行事もあり、非常に賑わった。当時のエピソードとして「大山の大糞流し」がある。例年梅雨の前触れの大雨が降り、牛馬の糞を流すというものであった。
市では露天商の出店があった。ただし、商人の把握・場所割りは大山寺領の大庄屋の任務であった。
■大山関係の年表から抜粋したものです。
1726(享保11年)博労座に牛馬市がおかれる
1884(明治17年)博労座牛馬市の取引が12000頭にのぼる
1937(昭和12年)博労座牛馬市廃止
メインパネルの左上にあった昔の牛馬市の様子を撮った写真です。
帽子に着物姿の男たちが牛を引いています。
説明書きを転記します。
■牛馬
大山牛馬市に来る牛馬は、出雲、伯耆、隠岐からが全体の8割、備中・美作・因幡からが残りの2割であった。隠岐からの牛は、淀江沖で海中に追い落とし陸揚げしていた。したがって、最初に陸地に着いた牛が真っ先に売れ、残りを大山にあげていたようである。
■博労(ばくろう)
博労とは牛馬の取引の仲介者であり、数十人の追子(おいこ)を抱えていたといわれる。
その取引は袖中取引で、博労は袖の中で相手の手の指を握って値ぶみをする。例えば、指1本握れば1、全部握って5、親指を握れば6、3本の指を折れば7、1本を折れば9という具合である。単位はその時の情勢次第であった。
中には悪徳博労もいたようで、中間利益を独占したり、手数料や酒食を要求するなどしていた。
「博労は手の裏をかく」「ばくち、ばくろう、ばではてる」「ばくち、ばくろう、ばか、ばばあ」などは、そういった博労を風刺したものである。
牛の飼育関連グッズが展示されていました。
「はなぐり」
鼻の両穴の間を貫通する穴を開け、この器具を鼻先に取り付けて牛を扱っていたようです。
「餌筒」
竹筒に餌や、薬を入れて牛の口に差し込み、強制的に食べさせる道具のようです。
「金櫛」
ギザギザ部分で牛の毛並みを整えてやる器具のようです。
牛の飼育関連グッズ展示の続きです。
「鼻さし」
鼻の両穴の間にハナグリを通す穴を作る道具のようです。
材料は、鹿の角に見えます。
「靴」
ワラで作った牛のわらじだそうです。
歌川広重(1797-1858)の作と伝えられる「大山博労座牛馬市図」が展示されていました。
江戸時代の末期、牛馬市の賑わう様子が描かれています。
説明文にある「日本三大牛馬市」には複数の説があり、「大山博労座」の他、広島の「久井の牛馬市」、福島「白河の馬市」、大分の杵築「若宮の市」の四市場の組合せの違いですが、「大山博労座」だけはどの説にも含まれています。
2007/4/18掲載の真庭市蒜山「茅部神社」の日本一の大鳥居と桜並木で大山道の宿場町郷原が牛市場の往来で賑わっていたことなどをご紹介しています。
「大山博労座牛馬市図」の一部を拡大したものです。
上の鳥居に通じる参道の左で牛馬市に人や馬・牛があふれかえっている様子がよくわかります。
参道を陣傘をかぶった武士と思われる行列が描かれています。
大山の大智明権現は、牛馬の守護神として鳥取県・島根県・岡山県・広島県に及ぶ広い地域で信仰されていたようで、日本三大牛馬市の一つ、広島県久井の牛馬市でも大山信仰があったようです。
久井(三原市)の牛馬市は、平安時代中期の963(応和3年)に牛馬市が創設され、江戸時代に始まった大山博労座と比較し、はるかに長い歴史があるようです。
「田植歌にみられる大山信仰のひろがり」という展示資料の中に広島県東城町、岡山県哲西町に伝わる田植歌の歌詞がありました。
農耕や、牛馬と、大山信仰が民衆に深く根付いていたことが分かります。
少し曇って大山の 山頂がよく見えませんでした。
広い駐車場から階段を上がると参道です。
階段の左側に草原が広がっていました。
階段を登る途中に案内板がありました。
「博労座」とあり、大規模な牛馬市があったことが書かれています。
階段を上り、参道の入り口に「大山自然歴史館」がありました。
参道脇にあった大山寺、大神山神社周辺の地図です。
下の赤く塗られた場所が「大山自然歴史館」、その少し下に「博労座」と書かれています。
「大山自然歴史館」に入ると「大山牛馬市展」開催中の案内板がありました。
写真は、館内の「大山牛馬市展」のメインパネルです。
説明書きを転記します。
■市の様子
市に参加するものは、まず入場料を支払う
(横手道にある石の鳥居に番所があった)
↓
売買が成立し手数料を支払う
(現在の八橋警察署大山寺駐在所あたりに中番所があった)
↓
売り手と買い手双方拍手を打ち、飲食をして売買終了
特に春の祭り(旧4月24日)には神輿行事もあり、非常に賑わった。当時のエピソードとして「大山の大糞流し」がある。例年梅雨の前触れの大雨が降り、牛馬の糞を流すというものであった。
市では露天商の出店があった。ただし、商人の把握・場所割りは大山寺領の大庄屋の任務であった。
■大山関係の年表から抜粋したものです。
1726(享保11年)博労座に牛馬市がおかれる
1884(明治17年)博労座牛馬市の取引が12000頭にのぼる
1937(昭和12年)博労座牛馬市廃止
メインパネルの左上にあった昔の牛馬市の様子を撮った写真です。
帽子に着物姿の男たちが牛を引いています。
説明書きを転記します。
■牛馬
大山牛馬市に来る牛馬は、出雲、伯耆、隠岐からが全体の8割、備中・美作・因幡からが残りの2割であった。隠岐からの牛は、淀江沖で海中に追い落とし陸揚げしていた。したがって、最初に陸地に着いた牛が真っ先に売れ、残りを大山にあげていたようである。
■博労(ばくろう)
博労とは牛馬の取引の仲介者であり、数十人の追子(おいこ)を抱えていたといわれる。
その取引は袖中取引で、博労は袖の中で相手の手の指を握って値ぶみをする。例えば、指1本握れば1、全部握って5、親指を握れば6、3本の指を折れば7、1本を折れば9という具合である。単位はその時の情勢次第であった。
中には悪徳博労もいたようで、中間利益を独占したり、手数料や酒食を要求するなどしていた。
「博労は手の裏をかく」「ばくち、ばくろう、ばではてる」「ばくち、ばくろう、ばか、ばばあ」などは、そういった博労を風刺したものである。
牛の飼育関連グッズが展示されていました。
「はなぐり」
鼻の両穴の間を貫通する穴を開け、この器具を鼻先に取り付けて牛を扱っていたようです。
「餌筒」
竹筒に餌や、薬を入れて牛の口に差し込み、強制的に食べさせる道具のようです。
「金櫛」
ギザギザ部分で牛の毛並みを整えてやる器具のようです。
牛の飼育関連グッズ展示の続きです。
「鼻さし」
鼻の両穴の間にハナグリを通す穴を作る道具のようです。
材料は、鹿の角に見えます。
「靴」
ワラで作った牛のわらじだそうです。
歌川広重(1797-1858)の作と伝えられる「大山博労座牛馬市図」が展示されていました。
江戸時代の末期、牛馬市の賑わう様子が描かれています。
説明文にある「日本三大牛馬市」には複数の説があり、「大山博労座」の他、広島の「久井の牛馬市」、福島「白河の馬市」、大分の杵築「若宮の市」の四市場の組合せの違いですが、「大山博労座」だけはどの説にも含まれています。
2007/4/18掲載の真庭市蒜山「茅部神社」の日本一の大鳥居と桜並木で大山道の宿場町郷原が牛市場の往来で賑わっていたことなどをご紹介しています。
「大山博労座牛馬市図」の一部を拡大したものです。
上の鳥居に通じる参道の左で牛馬市に人や馬・牛があふれかえっている様子がよくわかります。
参道を陣傘をかぶった武士と思われる行列が描かれています。
大山の大智明権現は、牛馬の守護神として鳥取県・島根県・岡山県・広島県に及ぶ広い地域で信仰されていたようで、日本三大牛馬市の一つ、広島県久井の牛馬市でも大山信仰があったようです。
久井(三原市)の牛馬市は、平安時代中期の963(応和3年)に牛馬市が創設され、江戸時代に始まった大山博労座と比較し、はるかに長い歴史があるようです。
「田植歌にみられる大山信仰のひろがり」という展示資料の中に広島県東城町、岡山県哲西町に伝わる田植歌の歌詞がありました。
農耕や、牛馬と、大山信仰が民衆に深く根付いていたことが分かります。