武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

戦前の合気道(4)

2009年03月22日 | Weblog
 合気道開祖植芝盛平の戦前の弟子である田中万川師範は「大先生が木剣の素振りを始められると、その気合で足がすくんで近づくことが出来なかった」と話されていた。
 気合は相手の心に動揺を与えるにあり、気合一声をもって相手を一飲みにする。気合の一声は音感のヒビキとなり、波となって感応し、山彦となってかえり咲く如くなすのである。そして、気合によって相手を我がものの自由となし、気合によって体内にヒビキを与え正道なる道を開くのである。また、気合一声により先々の空の頂点に恵みを与え、気合によって相手の呼吸に合することを得る。但し、気合は呼吸のみだれぬよう注意することが肝要である。
 相手と接する瞬間に一切の煩悩を断絶し、捨身となり得る唯一の方法が気合である。裂帛一声の掛声、大喝一声わが精神を統一し、凛々たる勇気が湧いてきて力は実力を倍加するという。
 開祖に24年間仕えられた岩間の斉藤守弘師範が「気合がない、呼吸力(ちから)がないでは、情けない」と言われたのを思い出す。

 中国の兵法家、孫子曰く「百たび戦いて百たび勝つは、善の善なるものにあらざるなり、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」と。 

 気合術とは、自己の精神で相手の精神を制圧する以心撃心(心をもって心をうつ)を実行する手段をいうのである。詳しくいえば、全精神、全精力を一点に集中して、いわゆる無念無想の境地でよく虚実を察し、阿吽の呼吸を合わせて、絶対勝の信念のもとに敵の心身を制圧して殺活自在の境地に到る言動が、即ち気合術である。
 人がある目的をもってこれを完徹するために全力を傾倒する時の、凄い意気込み、精神気迫がいわゆる気合で、これを実行に移すことが気合術である。気合とは、元来、武術所産の言葉であり、いかなる武術もその根幹は気合であり、秘伝も奥儀も気合抜きでは考えられず、すべてが気合の術に尽きる。

<閑話休題>

 正木段之進は美濃大垣の武士で、幼少より剣技に優れたり。一夜寝間の戸を鼠が噛む、目覚めて追えば逃げ、寝ればまた来りて噛む。追うこと四、五回にして段之進思う「わが気合満たずして彼の鼠に徹せざるが故なり」さらばぞと起き直り、坐を正して一心に気を集めて鼠の方を向きて気力を構える。鼠ついに来たらず。その後、鼠の出る度にかくの如くす。後には、梁を渡る鼠に気を込めてこれを睨めば、鼠落ちるに到れり。今に到るもその門人、気を練ることを稽古し、うち二、三の者はよく鼠を落す者ありという。即ち、敵人に対しても立合うより先に気をもって制すること肝要なり。 (橘南難「東遊記」)

資料:田中万川「合氣道神髄」/小西康裕「空手入門」魚住書店
写真:植芝盛平「武道」昭和13年
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