武産通信

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植芝盛平伝

2013年06月11日 | Weblog
 植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら

 宮本武蔵は故人であるが故に、その非凡な武道の奥義というものが、おそらく平凡な現代人には事実として受けとれまい。そこで、私は宮本武蔵そのまんまの、しかも或る点に於ては、武蔵よりももっと優れていると思われる今の人、植芝守高(盛平)氏について少しばかりを語りたい。

 植芝氏は今、東京牛込に道場を持って居られる。ニ三年前までは隠れた人士で同氏の驚くべき真の武道なるものが、世の中に在るという事さえ知られてなかった。まことの人物は世に現れ難く、無用な人間が天下をとって邪道を教えるのが此の世の中である。そもそも王道なるものは、国の内外古今を問わず世の中に実現されたことがなく、常に覇道が天下を左右している。末法の世とはよくもいわれた言葉である。
 昭和五年早春、植芝氏が陸軍大学で仕合をされたことは、少数の人が知っている。大兵五、六段の柔道家が何ぼ出て来ても、子猫が弄ばれるように破れてしまった。三人の剛の者が頸や手をからめとって、さてそれから仕合というのに、これもまるで紙でも吹きとばすように吹き飛ばされてしまった。剣道の何段でも御座れ、来る者も来る者も、第一剣が当らない上に、ばったりとへこたれて打っ倒されてしまった。
 講道館の代表的な若者どもも、天狗の前の赤ん坊見たようで、とても問題にはならぬ。一体講道館は何を教えているかと問うに、加納治五郎さんは『講道館のは武道ではない。単に体育だ』といわれたそうである。それほど植芝氏に驚嘆して居られるわけ。
 アメリカ一流の拳闘家でコンガム氏が欧州武者修行に廻って、到るところに勝利を得、剛力大兵六尺四寸(約193cm)の体躯を、僅か五尺二寸(約157cm)しかない植芝氏の前に現して、何小僧と突かかって来たが、あべこべに赤ん坊でも弄ばれるように、中空にふり廻されるやら、へたばされるやらで、てんで問題にはならず、驚嘆も驚嘆も、度はずれの驚嘆をして退却した。 
 そういう事で、世間が、やっと植芝氏の人となりを知り、まるで人間以上の武道家、剣道家だとして敬意を表するようになった。初め植芝氏は、これも世に隠れた武田某(惣角)を師とされたのであるが、師と別れた時には、まだ武道神域に達せぬ頃であった。然るに植芝氏はその後、夢によってその奥義を教えられたという。しかも剣道の奥義で、柔道でも、相撲でも、拳闘でも何でも御座れ、円融無碍、まことに神ながらの技を演ぜられる。

 一日、私は植芝氏を訪うて三つの質問を発した。

文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)
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