瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

兆  162号  (2015/05)  高知

2014-05-21 21:54:58 | 「か行」で始まる詩誌
 林嗣夫が詩誌の後記にあたる部分で、入沢康夫の「詩の構造についての覚え書き」に触れながら「詩への思い」を書いている。大変に共感できる一文であったので紹介しておきたい。
 詩作品をA、自分の私的な日常や感懐を書こうとするもの、B、詩の構造を自覚して言葉によって作品を構築していくもの、と便宜的にまず分類している。
 そのうえで、Aの困難は「どのようにしてその「私」を越え出るところまでもっていくか、というところにある。一種の抽象化が必要である。そうしないと、作品は自分の近辺に閉じられてしまって、多くの読者に届かない。」としている。
 まったく同感である。あまりに個人的な作品は、そのままでは他人には抽象的すぎてわからないのだ。普遍化するためには個人から離れるための抽象化が必要であり、それによってはじめて抽象的ではなくなると私(瀬崎)も考えている。
 一方、Bの困難は「一言でいえば、リアリティーということになる。」としている。Aに比してBでは「なぜそのように書くのか分かりにくい場合がある。これはBが、「感じる」(身体性)を置き去りにして、「考える」が走りすぎる傾向にあるところからくるのだと思う。」そして、「言葉だけで設計された非私詩的な構造物に、その根拠となる「私」をすまわせなくてはならない、ということではないだろうか。」としている。これも大いにうなずける意見であった。
 普段からぼんやりと考えていたことをすっきりと整理してもらったという気持ちになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする