瀬崎祐の本棚

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詩集「異譚集Ⅱ」  樋口武二  (2014/05)  書肆山住

2014-05-28 17:26:49 | 詩集
 115頁に26編を収める。
 前詩集「異譚集」に続いて、この詩集もそれこそ虚と実のあわいを漂いながらの作品で、寓話性の高い作品を大変に愉しませてもらった。
 「狐の嫁入り」という作品では、「こういう日暮れ時には 歪んだ時間の襞から 野原の一本道に、いろんなものが出てくるのだ」と書かれる。こうして出てくる「いろんなもの」がそのままこの詩集の作品のように思える。闇のなかの提灯の明かりは狐なのか、人なのか、魔なのかもわからず、時間も超越されてしまうのだ。

    ひとは去っても 思いだけは、ゆらゆらと揺れながら 野
   原の辻で人を待ちつづけている 対岸の光は 深い闇に溶け
   ていって もはや 何も見えないのであった

 「朝のまぼろし」では、「漣が来ると 誰かがふれまわっている/いつものことだ」という。漣だというのに、それは「少しの不安と昂揚が/ひとひたと押し寄せて」くるようなものなのだ。思わぬ方角から突然にやってきた漣は、

   ひたひたと大地を濡らし
   低い土地に水をあふれさせ
   やがて、ゆっくりと曳いていくのである
   たぶん、わたしの心も
   日常も そして明日さえも
   水にぬれて、たわみ、悲鳴をあげるのだ
   きっと

 作品が虚の世界での物語を伴っている。元来は実の世界のことを語るためのものとしてあるのだろうが、あまりに物語が素晴らしく錯綜しはじめると、作者の意図も越えたところで世界を構築しはじめてしまうこともあるだろう。
 そうなると、作者はもう話者を呼び戻すこともできなくなってしまう。たとえば「招かれて」で不気味な同窓会に出かけてしまい次第に引き返せなくなる私や、「川を流れて」で薄情者だと呪詛の言葉をかけられている私、などだ。
 しかし、本当に怖ろしい目に会っているのは、そんな話者を作り出してしまった作者ではないだろうか。
コメント
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