B5版、31頁に、16人の同人が2~3篇ずつ作品を載せている。
「あの崖」林美佐子。
あなたとイチョウの並木道を歩き、その果てに在る崖を覗きこむとテレビやマネキンが投棄されていた。
一人のテーブルで
コーヒーがこぼれて
テーブルの端は崖でした
すごい崖ですね
イヤどこにでもある崖だよ
投棄のテレビにメロドラマが映るよ
マネキンがしなを作るよ
どこにでも、誰にでも崖はあって、いつのまにか世間からは投棄されているわけだ。最終2行は「マネキンを私だとでもおっしゃいますか/崖の底で私はあなたを待つ」。いつもながらに林の作品には悪意が渦巻いている。それでいて少し居心地が悪いユーモア感もただよっていて、独得の肌触りの作品となっている。
「残り火」美津島チタル。
線香花火が燃えていて、座敷わらしが遊んでいるのだ。「今日、嫌なことがありました」と告げると、線香花火は落ち、座敷わらしは黙って丸くなる。最終部分、
座敷わらしを強く抱きしめると
ぱちんと弾けて消えてしまった
眼を閉じると
線香花火が瞼の裏を
ぱちぱちぱち
他人には窺い知れない微かな気持ちの揺れを可視的に捉えている。この切なさは誰でもが共有できるのではないだろうか。
「鎌八幡」冨上芳秀。
作者が文学散歩として訪れた寺に鎌八幡があったのだ。鎌八幡は、真田幸村が榎の大木に鎌を打ちつけて勝利祈願したことから始まるという。そして今は悪縁断絶の祈願になっているとのこと。新しい出会い・ご縁を願うのではなく、今の縁から逃げたいのだ。そのために打ちつけられた「夥しい鎌は苦悶し、叫んでいる」のだ。そしてそんな鎌を打ちつけられて、
付きまとわれ、痛めつけられ、苦しみ悶えながら、なお未練が残る
の情念の苦悩を鎌八幡の榎は傷つきながら引き受けて立っているの
であった。
今の生き様から逃れたいという願い、それは自分の今の存在を否定することでもある。そこまで追い詰められた者のすさまじい情念である。
「あの崖」林美佐子。
あなたとイチョウの並木道を歩き、その果てに在る崖を覗きこむとテレビやマネキンが投棄されていた。
一人のテーブルで
コーヒーがこぼれて
テーブルの端は崖でした
すごい崖ですね
イヤどこにでもある崖だよ
投棄のテレビにメロドラマが映るよ
マネキンがしなを作るよ
どこにでも、誰にでも崖はあって、いつのまにか世間からは投棄されているわけだ。最終2行は「マネキンを私だとでもおっしゃいますか/崖の底で私はあなたを待つ」。いつもながらに林の作品には悪意が渦巻いている。それでいて少し居心地が悪いユーモア感もただよっていて、独得の肌触りの作品となっている。
「残り火」美津島チタル。
線香花火が燃えていて、座敷わらしが遊んでいるのだ。「今日、嫌なことがありました」と告げると、線香花火は落ち、座敷わらしは黙って丸くなる。最終部分、
座敷わらしを強く抱きしめると
ぱちんと弾けて消えてしまった
眼を閉じると
線香花火が瞼の裏を
ぱちぱちぱち
他人には窺い知れない微かな気持ちの揺れを可視的に捉えている。この切なさは誰でもが共有できるのではないだろうか。
「鎌八幡」冨上芳秀。
作者が文学散歩として訪れた寺に鎌八幡があったのだ。鎌八幡は、真田幸村が榎の大木に鎌を打ちつけて勝利祈願したことから始まるという。そして今は悪縁断絶の祈願になっているとのこと。新しい出会い・ご縁を願うのではなく、今の縁から逃げたいのだ。そのために打ちつけられた「夥しい鎌は苦悶し、叫んでいる」のだ。そしてそんな鎌を打ちつけられて、
付きまとわれ、痛めつけられ、苦しみ悶えながら、なお未練が残る
の情念の苦悩を鎌八幡の榎は傷つきながら引き受けて立っているの
であった。
今の生き様から逃れたいという願い、それは自分の今の存在を否定することでもある。そこまで追い詰められた者のすさまじい情念である。
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