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詩集「DEATHか裸(ら)」 福田拓也 (2022/03) コトニ社

2022-04-26 18:39:42 | 詩集
149頁に32編を載せる。巻末に穂坂和志の解説がある。

「ハウスダスト」。半島の街や新疆ウイグルを猥雑にさまよい、話者は今は核汚染の首都圏で「死体のように生きている」。

   その人と
   合体した空の風
   となり
   奇妙な体となってぼくたちは
   風景よりも大きく
   ふくれあがる

”合体”と言われても、通常のような男女の性的な営みは想起されずに、文字通りに融合した肉体という異形のものが立ち上がってくる。これは他には類をみない暴走のホラー詩なのだが、それを現出させることによって対峙しようとしている世界があるわけだ。ぼくたちは「複数の絡み合った/奇妙な肉体」として進もうとしている。

いくつかの作品では、詩集タイトルにも見られるような当て字が乱舞もする。たとえば「死の声」では、「子割れた火等と死手/火等玉として/慕苦は都内をサ魔酔う」と書かれて、ルビを追えばその読みは「こわれたひととして/ひとだまとして/ぼくはとないをさまよう」となる。ここには、読みとして伝えてくる言葉の意味と、見るものとして伝えてくる文字の意味とが、重なりあって提示されている。

「鏡山」。ぼくが歩いている鏡山では、絶えず変化して見えるさまざまな顔はぼくの顔が無限に反映されているだけなのだ。そこにいるぼくは、他者のぼくにかこまれているのだろうか。そして聞こえてくる声はわからない言葉で語っているようなのだ。「沈黙そのもの」のぼくなのだが、「ささやきによってぼくは語られそしてぼくは生まれる」のだ。

   (略)
   いくつかの星座が
   ぼくの身体に刻された文字を形作るが
   その文字群は
   どこの言語にもない文字であり
   しかも絶えず消え去っては
   また変貌して現われる
   決して完結しない星座

見えるもの、聞こえるもの、溢れるほどのそれらに囲まれていながらすべてが自分を疎外しているような感覚がここにはある。一つ前の作品「草、草、草!」でも、大学の講師控え室に向かった話者は「誰かの肉体を借りているだけ」の存在のものとして「無数の断片的なイメージ」になっていた。拠るべきものを求めて彷徨っている話者の姿が強く伝わってくる。

表紙カバーには作品の一部などが型押しであしらわれ、裏カバーには解説の一部が一面に印字されている。溢れるような言葉が圧倒的な勢いで迫ってくる詩集であった。
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