111頁に12編を収める。
作品「ほととぎす」は、「ほととぎす鳴くやさ月のあやめぐさあやめもしらぬ恋もするかな 読人しらず」を作品の頭に置いている。そして死ぬ人のたましいをくわえて飛び去ろうとする鳥や、わたしをかきいだく夢のなかでやってきた人がいる。あなたを待ちわびるわたしをあやかしの世界がとりかこんでいるようなのだ。
わたしはどうなってもこうなってもあやめぐさの
根のように深く深く思いつめ待ちつづけこわれてしまった
わたしには何の望みもありません 思いがとどまっているだけです
なにも見えず聞こえずただ運ばれていくだけの破れたたましいです
このように本詩集では古の物語を契機にして新しい独自の絵巻物を描き上げていく。
その次の「花」では小野小町の歌五首を作品中に取り入れているし、他の作品では和泉式部、西行法師、俊成卿などの歌もあらわれる。それぞれが描がいた世界をどのように捉え、どのように踏まえてそこに新たな世界を構築するかに挑んでいる。
それらの作品の話者はときに古の歌や句の作者がのりうつった者であり、またそれらの歌や句の世界の住人であったりする。そして作者はそれらの話者を自分の世界構築のために作品の裏から自在に繰っているのである。ときにはひょっこり顔を覗かせて芭蕉の句を引用したあとに「あきれるくらい/うまいねえ」などと言わしめている。
最後に置かれた「春夏秋冬」はそれぞれが4連の17行詩の4編から成る。各作品のはじめの2連は連歌、うしろの2連は連句となっており、各連の冒頭音をつなげればタイトルとなる。作品「のむべし」の前半、連歌部分の2連を引用する。
除け者の毛もの物の怪花の闇
病み上がりです木瓜でよろしく
四苦あれど菜種畑に筵敷く
詩句に由なしカエルの嫌味
胸元の薄き香りや夏衣装
少年老いて氷菓したたる
樽酒をぜんぶ燗する柳多留
タルタルソースはだか往生
1行目、4行目の「やみ」は脚韻を踏み、それは2連目の頭韻にもなっている。さらに2行目、3行目の脚韻「しく」は3行目、4行目の頭韻になっている。よくぞここまで遊んだなあ(!)というほどに凝っている。
たしかに連歌、連句は知的な遊び事の面を持っており、作者は方策を楽しんで世界を作っている。方策に自らを閉じ込めることによって新しく生まれてくるものを探り当てようとしている。そのようにして書かれた作品は読み手にとっても大変に緊張感に富んだものとなっている。作品はその緊張感の先にあるものを見せているのだ。
「あとがき」で作者は、「〈うた〉は人の心が言葉の形で外に出たものだ」ということから「いったい人は言葉の根拠に何を求めるのか。自分の心にか。ではその心の根拠は何なのだ」との認識を新たに問い直している。
現世から離れた世界に我が身をふわりと置いて、ひとときを過ごしてきたかのような詩集だった。
作品「ほととぎす」は、「ほととぎす鳴くやさ月のあやめぐさあやめもしらぬ恋もするかな 読人しらず」を作品の頭に置いている。そして死ぬ人のたましいをくわえて飛び去ろうとする鳥や、わたしをかきいだく夢のなかでやってきた人がいる。あなたを待ちわびるわたしをあやかしの世界がとりかこんでいるようなのだ。
わたしはどうなってもこうなってもあやめぐさの
根のように深く深く思いつめ待ちつづけこわれてしまった
わたしには何の望みもありません 思いがとどまっているだけです
なにも見えず聞こえずただ運ばれていくだけの破れたたましいです
このように本詩集では古の物語を契機にして新しい独自の絵巻物を描き上げていく。
その次の「花」では小野小町の歌五首を作品中に取り入れているし、他の作品では和泉式部、西行法師、俊成卿などの歌もあらわれる。それぞれが描がいた世界をどのように捉え、どのように踏まえてそこに新たな世界を構築するかに挑んでいる。
それらの作品の話者はときに古の歌や句の作者がのりうつった者であり、またそれらの歌や句の世界の住人であったりする。そして作者はそれらの話者を自分の世界構築のために作品の裏から自在に繰っているのである。ときにはひょっこり顔を覗かせて芭蕉の句を引用したあとに「あきれるくらい/うまいねえ」などと言わしめている。
最後に置かれた「春夏秋冬」はそれぞれが4連の17行詩の4編から成る。各作品のはじめの2連は連歌、うしろの2連は連句となっており、各連の冒頭音をつなげればタイトルとなる。作品「のむべし」の前半、連歌部分の2連を引用する。
除け者の毛もの物の怪花の闇
病み上がりです木瓜でよろしく
四苦あれど菜種畑に筵敷く
詩句に由なしカエルの嫌味
胸元の薄き香りや夏衣装
少年老いて氷菓したたる
樽酒をぜんぶ燗する柳多留
タルタルソースはだか往生
1行目、4行目の「やみ」は脚韻を踏み、それは2連目の頭韻にもなっている。さらに2行目、3行目の脚韻「しく」は3行目、4行目の頭韻になっている。よくぞここまで遊んだなあ(!)というほどに凝っている。
たしかに連歌、連句は知的な遊び事の面を持っており、作者は方策を楽しんで世界を作っている。方策に自らを閉じ込めることによって新しく生まれてくるものを探り当てようとしている。そのようにして書かれた作品は読み手にとっても大変に緊張感に富んだものとなっている。作品はその緊張感の先にあるものを見せているのだ。
「あとがき」で作者は、「〈うた〉は人の心が言葉の形で外に出たものだ」ということから「いったい人は言葉の根拠に何を求めるのか。自分の心にか。ではその心の根拠は何なのだ」との認識を新たに問い直している。
現世から離れた世界に我が身をふわりと置いて、ひとときを過ごしてきたかのような詩集だった。
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