瀬崎祐の本棚

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詩集「生の練習」 前田利夫 (2022/04) モノクローム・プロジェクト

2022-04-22 18:35:49 | 詩集
第2詩集。109頁に22編を収める。

「朝」には、今日もこれから始まる生を感じる幻影が端正に描かれている。遠くの水仙が呼吸をしているあわが水の中をのぼっていき、赤い空が野一面をおおっているのは「世界が/こころやさしい人の/手を放した」からだろうと思えるのだ。

   脂ぎった手で窓をあけると
   言葉の破片が流れていく
   それは やがてローム層のように
   誰も知らない遠くで
   積もっていくのだろう

詩は、気持ちの奥にあったものを言葉にして取り出そうとするものだと思うのだが、本詩集の作品ではそれが大変に素直におこなわれている。寓話のような設定で展開される作品もあるのだが、その寓意も飾り物ではなく、こういう表現でしか気持ちが表せないといった素直さが感じられる。

「中二階」では、その窓を外から眺めている私と、その部屋の窓辺で私がやってくるのを待っている私が登場する。どちらが本当の私でどちらが私の妄想の私なのか。主体の在り様が溶けあう作品だった。(私事になるが、私(瀬崎)も「泳ぐ男」という似たような構造の作品を書いたことがある)

「蒼い思考」は6章からなる作品。夜の公園のベンチ、雨のなかの塔、亡くなった父の羽毛ふとん、などが私の脳裏に絡みつくようにあらわれてきている。そのあらわれるものの脈絡の無さと、それなのにどこかを引きずるような繋がり具合が面白い。

   たびたび その部屋にある
   漆塗りの仏弾に線香をあげると
   父がすぐうしろに座っている感覚が
   からだ一面にひろがり
   ほそい芯で灯っている胸に
   父の視線が突き刺さってくる
   夕暮れのような視線
   心拍が激しく血液を流れて
   私のからだは 殻におおわれた

これらを繋げているのは、作者がこれまで生きてきた日々から生じた言葉であるだろう。他の人には語れなかった唯一の物語がここに生まれてきているわけだ。だから作品最後は、「私は寝返りをうった// 白い羽毛ふとんのなかで」。

作品は3部に分けられているのだが、Ⅲでは寓意がとりはらわれて作者がそのまま話者となってあらわれてきていた。やはり潔く素直な作者だった。それは強さから来ているのだろう。
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