たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

タケミカヅチ

2018-10-16 09:51:47 |  出雲の神話

<因佐神社 いなさじんじゃ>

 

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アメノホヒ、アメノワカヒコの裏切りにより、
天上界の神々が地上界を平定できないまま
長い時間が過ぎて行きました。
業を煮やしたタカミムスビは再び神々を集め、
次なる使者は誰がよいか相談することにします。
そして最終的に、タケミカヅチとアメノトリフネ
(日本書紀ではフツヌシとタケミカヅチ)を
葦原中つ国に向かわせることに決めたのです。

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以前、<関東の国譲り>というタイトルの記事の中で、

「タケミカヅチは後から記紀に加えられた神であり、

もともと国譲りにはフツヌシしか登場しない」と書きました。

改めて考えてみますと、タケミカヅチという名称自体が、

先に使者となったアメノホヒ、アメノワカヒコのように、

天孫族との関わりを示す「アメ」の名を持つわけでもなく、

アメノトリフネやフツヌシのように、

「乗り物」や「武器」を神格化した存在でもありません。

 

ちなみに、『古事記』ではタケミカヅチを

建布都神(たけふつのかみ)とも記し、

フツヌシと同神であるかのように語っています。

一説には、同じ「剣の神霊」を守護神とする部族同氏が、

公平に扱われるよう配慮したという話もありますが、

もし二神が同じ神だとするならば、なぜわざわざ物語の中に、

タケミカヅチという名前を入れる必要があったのでしょうか……。


一言主と雄略天皇

2018-10-15 09:04:52 |  出雲の神話

<葛城・一言主神社 ひとことぬしじんじゃ>

 

再び話は脱線しますが、出雲とも絡む出来事のため、

葛城の一言主神と雄略天皇とのやり取りについて、

もう少し詳しく見てくことにしましょう。

一言主神と雄略天皇の一件が初めて描かれるのは、

712年に編纂された『古事記の下つ巻の中』においてです。

ここでは、「葛城山へ鹿狩りに行った雄略天皇一行が、

まったく同じ格好をした一言主神の一行と出会い、

その神威に恐れ入って自らの武器や衣服を献上した」

といった内容が書かれておりました。

 

また、720年編纂の『日本書紀』では、

「一言主神に出会った雄略天皇は、

共に狩りをして楽しんだ」と内容が変わり、

797年編纂の『続日本紀』ともなると、

「狩りの獲物を争ったことで、

雄略天皇の怒りに触れた一言主神は土佐国に流された」

という具合に、物語のニュアンスが大幅に変化します。

そして、822年に編纂された

『日本霊異記』の中での一言主神は、

役行者に使役されるほど地位が低下してしまうのだとか……。

 

一説によれば、これらの一言主神の立ち位置の変化は、

賀茂氏(および葛城氏)の没落とも

関係するなどと言われておりますが、

個人的には、雄略天皇と一言主神という

「国津神」の影響を強く受けた両者が「葛城」で出会い、

その後一言主神が「土佐」に流されたという逸話には、

非常に意味深な伏線を感じるのです。 (~Wikipedia参照)


ドッペルゲンガー

2018-10-14 09:59:35 |  出雲の神話

<葛城・一言主神社 ひとことぬしじんじゃ>

 

アメノワカヒコの友人であり、

シタテルヒメの兄でもあったアジスキタカヒコネは、

天上で行われたアメノワカヒコの葬儀に出向いた際、

死んだはずのアメノワカヒコと間違えられ、

怒りをあらわにしました。 このときアジスキタカヒコネが、

喪屋を壊すほど激怒した背景には、

いったいどんな理由があったのでしょうか……。

 

この話を読んで思い出したのは、

大和葛城を舞台にして描かれた

一言主神と雄略天皇の一件です。

史書によって、多少ニュアンスが異なるものの、

雄略天皇が自分にそっくりの姿形をした神に出会い、

諸々のやり取りをする部分は各文献ともに共通しています。

(ちなみに続日本紀の記述では、一言主神と狩りをした雄略天皇が、

一言主神の態度に腹を立て、神を土佐国へと追いやったのだとか……)

 

恐らく、自分の分身と出会うということは「死」

もしくは「権威の喪失」を意味したのでしょう。

自らの和魂に出会った大国主神が、この先の展開を悟ったように、

アジスキタカヒコネも自分の分身と出会ったことで、

自らが背負う因果を垣間見たのかもしれません。

もしかすると、気性の激しさで知られる雄略天皇も、

自分の分身に出会い平常心を失ってしまったのでしょうか……。


出雲と美濃

2018-10-13 09:55:53 |  出雲の神話

<三澤神社 みさわじんじゃ>

 

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アメノワカヒコの死を悼んだアジスキタカヒコネは、
アメノワカヒコの妻・シタテルヒメの元へ弔問に訪れます。
しかし、その姿が生前のアメノワカヒコと瓜二つだったことから、
シタテルヒメは「アメノワカヒコが生き返った」と思い込み、
アジスキタカヒコネにすがり付いてきたのです。
すると、アジスキタカヒコネは、
「私を穢れた死者と間違えるのか」と激怒し、
身につけていた剣で喪屋を切り倒してしまいました。
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この場面では、大国主神の子であるアジスキタカヒコネが、

アメノワカヒコの死を弔うために天に昇った際、

アメノワカヒコの妻であるシタテルヒメに、

亡き夫と間違われたことに憤慨する様子が描かれています。

なぜ憤慨したのかはさておき、そこで唐突に登場するのが、

出雲から遠く離れた「美濃」の名称です。

何でも、怒ったアジスキタカヒコネが剣で切り倒した喪屋は、

地上の美濃国に落ちて「喪山」と呼ばれるようになったのだとか。

 

実は美濃(および飛騨)という国は、

「イズモ」のひとつだった形跡があるにも関わらず、

阿波の国と同様、記紀にはほとんど登場しない空白の地なのです。

アメノワカヒコ、そしてアジスキタカヒコネという

気性の激しい二神が、「美濃」と関連するのは、

果たして偶然なのでしょうか……。

突如として示される「出雲」と「美濃」のつながりは、

アメノワカヒコの特異な経歴と、

そしてその周囲にいる神々の出自を

密かに暗示しているのかもしれません。


それぞれの事情

2018-10-12 09:51:34 |  出雲の神話

<阿須伎神社 あすきじんじゃ>

 

最初の使者であるアメノホヒが天上界から派遣されたとき、

大国主神はアメノホヒに、自分がいなくなったあとの

「イズモ(スサノオの荒魂)の鎮めを任せようとした」

と考えても不自然ではないような気がします。

恐らく、天津神たちはそのことを知っていたがゆえに、

大国主神との折衝に当たっていたアメノホヒに対しては、

寛大な処置に留めたのかもしれません。

 

一方で、同じように出雲に帰順したアメノワカヒコに、

なぜあのような厳しい処罰を下したかと想像すると、

それはアメノワカヒコが大国主神亡きあと、

自らがイズモの王となり地上界を支配することに、

野心を燃やしていたからなのでしょう。

さらには、天の矢を用いて神々に歯向かうほど、

その敵対心は天津神にとって

大きな脅威だったのだと思われます。

 

ちなみに、出雲近辺の神社を訪れると、

いわゆる反逆者であるアメノワカヒコを、

主祭神とともに祀っている様子を目にします。

もしかすると、出雲の人たちにとってのアメノワカヒコは、

記紀で描かれているような裏切り者ではなく、

理不尽な手段で土地を奪おうとした天津神から、

大切な国を守った英雄だったのかもしれません。


時代のうねり

2018-10-11 09:48:01 |  出雲の神話

<能義神社 のきじんじゃ>

 

国譲りの直前、三輪山の神からの啓示(恫喝)により、

自らの和魂をヤマトへと鎮めた大国主神は、

アメノホヒが地上界に送り込まれてきた時点で、

「時が来た」ということを悟ったのかもしれません。

そのときすでに、出雲包囲網とも呼べる「時代のうねり」が、

大国主神の周囲を取り巻いていた可能性もあります。

恐らく、国譲りを迫ったアメノホヒに対し、

大国主神はある条件を提示したのでしょう。

それは、大国主神自身の「荒魂」に関する問題であり、

日本という国を守るための重要案件だったはずです。

 

もしかすると大国主神は、

荒ぶる神・スサノオの御魂を宿す

自らの処遇を少しでも間違えたなら、

地上界だけでなく、天上界にまで被害が及ぶことを、

気づいていたのだと思われます。

出雲に留めた自らの「荒魂」は、

言うなればスサノオの息吹そのものです。

大国主神がすぐには国譲りに応じられなかったのも、

決して自分の保身のためではなく、

スサノオの化身でもある自らの扱い次第では、

地上界に災いが蔓延し、国土が荒廃する様子が

目に見えていたからなのかもしれません。


二人のアメ

2018-10-10 09:43:21 |  出雲の神話

<能義神社 のきじんじゃ>

 

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アメノワカヒコの態度を不信に思った神々たちは、
使いの「キジ」に様子を見てくるよう命じます。
しかし、アメノワカヒコの放った矢によりキジは射られ、
その矢は天上界にいる神々のもとまで到達しました。

神々たちは、ますますアメノワカヒコの態度を訝しみ、
「アメノワカヒコに邪心があるなら当たれ」と、
その矢に「呪術」を施して送り返したところ、
矢はアメノワカヒコの胸を射抜いたのです。

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ここで気になるのは、同じように天上界を裏切ったにも関わらず、

特にお咎めもなく、のちの出雲国造家の地位を得たアメノホヒと、

天津神たちの矢に射られて亡くなったアメノワカヒコとの差です。

記紀の記述を読んでも、記紀の編纂者たちは、

アメノホヒの一件より、アメノワカヒコの裏切りに関する部分に、

より詳細な説明を加えているのが見て取れます。

 

恐らく、早々に大国主神側に寝返ってしまった

アメノワカヒコとは逆に、アメノホヒのほうは、

ギリギリまで大国主神との交渉を続けたのでしょう。

もしかすると、アメノホヒが天上界に戻らなかった3年間は、

大国主神が抱える「ある問題」を解決すべく、

奔走していた時間だったのかもしれません。

 

大国主神がすぐにアメノホヒの要求を呑めなかった理由とは、

いったいどのような内容だったのでしょうか……。


使者の本心

2018-10-09 09:39:49 |  出雲の神話

<阿須伎神社 あすきじんじゃ>

 

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アメノホヒが天上界に戻らないため、
天照太御神(およびタカミムスビ)は再び神々と話し合い、
二番目の使者である「アメノワカヒコ」に弓と矢を与え、
地上へと送り出しました。しかし、アメノワカヒコは、
大国主神の娘・シタテルヒメを娶っただけでなく、
大国主神の後継者として地上界の主となる野心を抱き、
八年たっても任務を遂行しようとしなかったのです。

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次に地上界に送り込まれたアメノワカヒコという神も、

やはり天の意向を無視して地上界に留まり続けます。

アメノホヒのみならず、二番目の使者である

アメノワカヒコまでもが出雲側についた背景には、

いったいどんな理由が隠されているのでしょうか……。

 

「出雲があまりにも住み心地がよかったから」

「大国主神の人柄が素晴らしかったから」など、

様々な推測が成されておりますが、

そのような私的かつ短絡的な理由で、

彼らが天上界を裏切ったとも思えません。

 

恐らく、天津神の元へと戻らなかった(戻れなかった)のは、

地上に漂うスサノオの霊威を感じ取ったからなのでしょう。

もしかすると、アメノホヒもアメノワカヒコも、

もともとはスサノオを信奉する人々であり、

天孫族(皇室)とは別の部族だった可能性もあります。


天上界の思惑

2018-10-08 09:09:52 |  出雲の神話

<出雲大社 いずもたいしゃ>

 

***** 出雲の神話2 *****

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大国主神が地上界を治めるようになったころ、
天上界では天照太御神(およびタカミムスビ)が、
「地上界は私の御子であるアメノオシホミミに
統治させよう」という方針を固めていました。
そして、八百万の神々を集めて、
「まずは地上界の荒ぶる神々を平定したいが、
誰かを派遣したらよいか?」と尋ねたところ、
「アメノホヒがよい」という答えが返ってきます。

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ここで登場するアメノホヒという神こそが、

出雲国造家、つまり現在の出雲大社の

宮司家(千家家)の祖先だと言われています。

この謎多き出雲国造家については、

改めて項目を設けるつもりでおりますが、

大国主神をお祀りする出雲国造家が、

「天津神」の系譜だったという記述は、

出雲そして出雲大社という存在を考える上で、

重要なキーワードのひとつです。

 

ちなみに、この後アメノホヒは、

「大国主神に媚びへつらって、

三年たっても役目を果たさなかった」 と、

記紀神話には書かれております。

一方で、出雲国造家に伝わる

『出雲国造神賀詞』という奏上文の中では、

「アメノホヒは自分の子・天の夷鳥にフツヌシを副え、

地上界に跋扈する荒ぶる神々を成敗した」

という記述が残されていました。

 

どちらが正しいのかはともかく、

出雲国造家という古い家系には、

一筋縄では解けない深い史実が

潜んでいるのは確かなのでしょう。


意図的な一文

2018-10-07 09:40:11 |  出雲の神話

<大神神社 おおみわじんじゃ>

 

大国主神は自らの分身である大物主神の要求に従い、

御魂の半分(和魂)を三輪山に移すことに決めました。

少彦名神が去ったのち、大国主神の前に突然現れ、

「三輪山」を暗示させる言葉を述べただけで、

唐突にいなくなってしまう大物主という神ですが、

前後の文脈を考えれば、この三輪山の件に関しては、

のちの「ヤマト時代」につなげる伏線であり、

「三輪山の神の正体」を暗示する意味で、

意図的に挿入されたような印象を受けます。

 

また、古事記の記述に注目しますと、

大物主神は「御諸山に祀れ」とだけ伝え、

自らの素性を明かしてはいないことも気になります。

つまり、大物主神は「大国主神の和魂」ではなく、

何らかの比喩的な神名である可能性も高いのでしょう。

神代におけるすべての歴史を俯瞰した編纂者は、

神武天皇の即位地となる三輪山の一帯が、

元々は「国津神(イズモ族)の支配地」であり、

さらに「三輪山には恫喝する神がいた」という事実を、

「三輪山に祀る」という一文に総括したのかもしれません。


恫喝の歴史

2018-10-06 09:37:04 |  出雲の神話

<大和神社 おおやまとじんじゃ>

 

「国譲り」の物語を前に、話が少々脱線しますが、

皇女である倭姫命が八咫鏡の鎮座地を求めて、

近畿一円を旅することになったきっかけは、

三輪山の神(大物主神)が時の天皇を恫喝したからでした。

天皇は「三輪山に三種の神器を置くべきではない」と判断し、

まず、年上の皇女である豊鍬入姫命と渟名城入姫命に、

天照太御神の御魂と倭大国魂神の御魂をそれぞれ託します。

 

ちなみに、倭大国魂神という神様は、

大国主神(大物主神)と同神だという説がありますが、

日本書紀の「大田田根子命に大物主神を祀らせ、

市磯長尾市に倭大国魂神を祀らせれば天下は平らぐ」

という、大物主神の啓示からもわかるように、

倭大国魂神と大物主神は別の神である可能性が大です。

 

恐らく、倭大国魂神は大和のイズモ神であり、

大国主神との関連は深いものの、

三輪山の「大物主神」とは異なる存在なのでしょう。

もしかすると、当時の記紀の編纂者たちは、

三輪山に鎮座する神の正体、そして三輪の神による

数々の「恫喝の歴史」を知っていたのかもしれません。


大物主の御魂

2018-10-05 09:34:32 |  出雲の神話

<出雲大社 いずもたいしゃ>

 

少彦名神が大国主神のもとを去る場面で、

日本書紀の筆者は「何か深い訳があるのだろう」

というニュアンスの文言を織り込んでいます。

「深い訳」とはいったい何だったのか……、

なぜ国造りの半ばで少彦名神はいなくなったのか……、

個人的には非常に引っかかりを覚える部分です。

 

ちなみにその後、大物主神が大国主神に対し、

「自らの御魂を祀れ」と、半ば脅しとも

受け取れるような台詞を口にしたことから、

大国主神は自らの御魂の「半分」を

三輪山に祀ることに決めました。

 

三輪山という土地には、複雑怪奇な側面があり、

ここでは詳しく触れることは控えますが、

言えるのは、記紀の時代から中世にいたるまで、

三輪山の神が常に、時の権力者を

恫喝していたという事実です。

 

冷静に考えても、自らの御魂が目の前に現れ、

要求を突きつけるという流れも不自然ですし、

「出雲」近辺の地名を散りばめた出雲神話に、

突如奈良の三輪山が登場するのも不可解です。

果たして本当に、大国主神を恫喝したのは、

大国主神の和魂だったのでしょうか……。


出雲と三輪山

2018-10-04 09:30:55 |  出雲の神話

<出雲市多伎町>

 

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少彦名神という協力者を失い、
途方に暮れていた大国主神のもとに、
海上を照らしながら近寄ってくる神がありました。
その神は、「私は汝(大国主神)の幸魂・奇魂である。
私の御魂を祀ったなら、国造りを後押ししよう」と告げたのです。
この神は現在、大物主神という名で奈良の三輪山に鎮座しています。

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日本書紀(および古事記)のこれらの記述が元となり、

三輪山=出雲系の神と広く認知されるようになりました。

しかし、いくら神話とは言っても、

唐突に自分の分身が現れるという流れは、

非常に不可解にも感じます。

 

ちなみに、出雲国造家に伝わる『出雲国造神賀詞』には、

大国主神は国譲りをしたのち、自らの御魂を三輪山へ、

自分の子であるアジスキタカヒコネの御魂を葛城へ、

同じく事代主神の御魂を雲梯(橿原)へ、

そしてカヤナルミの御魂を飛鳥へと住まわせ、

天皇の守り神として奉ったという部分があるそうです。

 

これらの内容を踏まえると、三輪山(およびその周辺)に、

天津神に平定された「イズモの首長たち」

の御魂が祀られているのは確かでしょう。

少彦名神が何らかの理由でいなくなったのち、

大国主神は天孫族への「国譲り」の時期、

そして「ヤマト」の時代が迫っていることを悟り、

三輪山に自らの魂を移すことを決めたのでしょうか……。


不協和音

2018-10-03 09:27:59 |  出雲の神話

<粟嶋神社 あわしまじんじゃ>

 

実は、出雲の周辺国に残る風土記の中には、

「大国主神と少彦名神がライバル関係にあった」

とも受け取れる記述が残っていました。

例えば、『播磨国風土記』を読みますと、

ニ神が旅の途中で我慢比べをした という記述がありますし、

また、瀕死の状態の少彦名神を、

大国主神が温泉の湯をかけて蘇生させたという

『伊予国風土記』の逸話も何やら複雑な背景を匂わせます。

 

いずれも、瀬戸内海沿岸の伝承ということを踏まえれば、

出雲や山陰地方以外にも大国主神の勢力が及んでいた、

あるいは大国主神と少彦名神に暗示される

首長と参謀のコンビで、各国の国造りが

行われていたことがわかります。

そして、ときに両者の間には相克が生じ、

不協和音も流れていたのかもしれません。

もしかすると、「少彦名神が常世に渡った」という部分は、

二神の決別を示唆しているのでしょうか……。


国造りの現実

2018-10-02 09:25:37 |  出雲の神話

<粟嶋神社 あわしまじんじゃ>

 

国津神を守護するカミムスビから生まれ、

波頭を越えてやってきた少彦名神は、

言うなれば「国津神系の渡来族」とも言える存在です。

ニニギや神武天皇などの「天孫族」とはもちろん、

スサノオや大国主神などの「地祇(くにつかみ)」 とも、

異なる役目を担っていたのかもしれません。

この後、少彦名神は国造りの半ばで去ってしまいますが、

日本書紀ではその場面をこのように記していました。

 

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「我々の国は理想通りに完成しているだろうか」
と問う大国主神に対し、少彦名神は
「良くなったところもあるし、そうでないところもある」
と答え、熊野の御碕から(あるいは、粟の茎に弾かれて)
常世の国へと渡ってしまいました。

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大国主神と少彦名神とは、時折意見をぶつけ合いながらも、

大きな目的のために力を合わせたと神話には書かれています。

ただし、「良くなったところもあるが、そうでないところもある」

という言葉に、意味深なニュアンスを感じるのも確かです。

果たして国造りは、本当に順調に進んでいたのでしょうか……。