はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

同級会

2013-11-10 08:52:19 | その他
 高校時代の同級会が伊豆北川温泉で行われるので参加してきます。

当初の予定では、今日は天城の万二郎、万三郎を歩いて同級会に出席。
翌日は熱海の十国峠で、まだ貰い損ねている「駿河一国33観音番外札所 東光寺」のご朱印を受けて
函南駅に出ようと計画していました。
ところが10日の今日は荒れ模様の天候とか、残念ながら初日の予定は中止して今はノンビリしています。
明日も雨が残るようなら、久しぶりに会う友人と朝酒でも楽しもうと思っています。

 新聞に「富士山の夏山シーズン延期」が伝えられていました。
少し気になる点もあるが、以前ブログで「延長すべき」と書いた私としては賛成です。
気になる点については、またいつか紹介します。


 

駿河百地蔵4回目-4

2013-11-09 20:41:32 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              50番目(34番) 金剛寺
 法伝寺を打って日本平の北西側から静岡の町の中に戻る。次の金剛寺は静岡駅の南にある八幡山の近くに
あり、途中には済生会病院、NTT、ツインメッセ、郵便局など高い建物があるので目標には困らない。
案の定、今回は迷う事なく金剛寺に到着できた。
金剛寺の山門は、自然の地形を利用したチョットした城壁のような感じがしたが、階段を登り境内に入ると
予想に反して本堂は新しい近代的建物だった。

 
                   金剛寺山門                               金剛寺本堂
     金剛寺の地図

 境内には見る物が多くあり、豊川稲荷を祀ってあると思われる鳥居や社、その前には「天保四年」と刻まれた
手水鉢もある。
境内左手には六地蔵、地蔵堂、子安地蔵が並んでいて、六地蔵は中央には元禄十二年の年号の入った地蔵尊が
立っている。この地蔵は古く砂岩のような材質だが痛みは無く、彫りもハッキリしている。きっと雨風の掛からない
所で大事にお詣りされてきたのだろう。この地蔵がが百地蔵なのだろうかわからないが、先程の法伝寺の地蔵の
説明を適用するなら、このお地蔵さんは宝珠に錫杖を持っているので人間を地獄から救ってくれる地蔵尊だ。
考えてみればお地蔵さんは、この形の物が多いので、人間の最大の望みは、地獄から逃れる事なのだろう。
 横に並んだ六地蔵は、わらべ地蔵のような小僧の形の地蔵尊だった。だが顔はひねた大人の顔で可愛げはない。
そう云えば、この小僧の地獄界の地蔵尊が持つ錫杖は、本物の金物の錫杖だった。これもあまり見た事がない。

 地蔵堂の中を見ると、これまたチョット変わった3頭身の錫杖を持つ地蔵尊で安置されている、古そうな感じ
だが年号は見えない。ガラス戸の付いた地蔵堂の中に祀られているから、こちらが百地蔵なのか?
地蔵尊の後ろに、台座のような石に、地蔵像が浮き彫りされているのが少し見えている。手前の地蔵像が邪魔で
三体しか見えないが六地蔵を彫ってあるようだ。何の台座なのだろう。

    
                六地蔵                           3頭身の地蔵像

              51番目(33番) 神龍院
 金剛寺前の通りは久能街道で、駿府と家康の廟所のあった久能山を結んでいる。次の神龍院はこの街道を
200mも北に行った八幡山の麓にある。
山門の「駿河一国百地蔵第丗三番」の標札を見ながら、年配の女性が「これは何番かね?」「23番だよー」等と
話をしていた。私が「33番ですよ」と言うと「でも、はたち(廿十)と同じ字じゃーないの」と言う。
「はたちの時は上からの線は2本だけど、これは3本あるから三ですよ」「へー初めて知ったよ」「今まで気に
なっていたけど、これでスッキリした」
と感謝された。

 観音堂は本堂左にあり、堂内には左手で子供を抱き、右手で錫杖を持った、彩色された子安地蔵尊と、石の
六地蔵が祀られていた。その六地蔵の中で唯一前垂れの無い地蔵は、両手で宝珠を抱えている。
気になって法伝寺の地蔵の写真で確認したが、この手の形の像は無い。と言うことは地蔵像の持ち物や手の形は
厳格に決まっているのではなく、神社の鳥居と同じように、ある程度自由にデザインできるのだろう。
私の書いた法伝寺での地蔵の持ち物の記述は、参考にしておいてください。
 特に目に付く物は無かった寺だったが、寺伝によると神龍院の開基は、徳川と武田の激戦の地となった遠州の
高天神城を築城した今川了俊と伝えられている。また神龍院の寺号は、徳川家康の葬儀一切を取り仕切った
僧の神竜院梵舜が、同寺に滞在したことで改めている。と中々由緒がある。
 更に地蔵尊についてもこんな記述があった。
子安地蔵尊は、もとは八幡神社の門前にあったが、明治時代の廃仏毀釈により、地蔵は神竜院に移された。この
地蔵は石造りだったが首が取れるなどして大きく破損したため、昭和33年に新たに木製の立像が造られ、古い像は
地蔵堂の下に埋められた。また、六地蔵も、かつては八幡神社の門前に並んでいたものを神龍院に移している。

 
                  神龍院本堂                           子安地蔵と六地蔵
      神龍院の地図

 旧静岡市内の平野部には賎機山、谷津山とこの八幡山の三つの山がある。どの山も市街地から容易に登る事が
出来き、早朝ウォークなどで親しまれているようだ。
私は賎機山と谷津山は何度か歩いているが、この八幡山は歩いた事がない。理由は低くて狭く他の山との関連が
ない事によるが、今日はせっかく麓まで来たのだから歩く事にした。
この次の寺に行くのに都合の良い道は、八幡山の南端から登り北端に下る道だが、地図にはそんな道は無い。
でも大丈夫。市民の運動に利用されているような所なら、きっと縦断できる道はあるだろう。

 八幡山の登り口に「八幡山城跡入口」の案内が立っていた。八幡山城跡とは聞いた事はなかったが、地形的に
城があっても当然と思える場所だ。山頂にどんな説明があるか楽しみだ。
登り道の脇には、今を盛りとばかり彼岸花が咲いている。歩いたのは彼岸の中日の9月23日。そして今日は11月
9日。寺や石仏なら時季は分からないが、花などの自然を話題にすると時季が狂ってしまう。早く書かなければ。

 山頂の展望台までは神龍院から数分で着いてしまった。木陰で涼しい風が吹き抜けていて、気温も寺では37℃
あったのが、ここでは31℃に下がっている。時間は少し早いが昼飯にしてしまった。
眺めは北から東側の眺めは良く、条件さえよければ富士山も眺める事が出来るだろう。南の海の方角は樹木で
見えない。せめて視線の位置ぐらいは、木の枝を切ってくれても良いと思うが、中々そうもいかないようだ。

 
               遊歩道の彼岸花                         八幡山展望台

 平坦な尾根を北に行くと期待していた八幡山城跡の案内板があった。
「応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、駿府防衛のために、周辺の要所要所に城塞を築いた。
八幡山城もその一つである。文明8年(1476)今川義忠が遠州において横地残党に討たれると、今川氏の跡目を
狙う小鹿派と竜王丸派の紛争が勃発した。この時、 鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。
この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
 新九郎は八幡山城が重要地点であった事から城を修築して、自ら駿府の警護に当たっていた。
長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城へ移った。
その後武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、城塞として使用した。
武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、家康が関東へ移った後、廃城になったと思われる。」

 これで理解できれば貴方は今川の歴史通だ。
「今川義忠が遠州塩買坂で討たれると、義忠の嫡男竜王丸(氏親)と従兄弟の小鹿範満との間で相続争いが起き
鎌倉の太田道灌は小鹿の味方として八幡城に布陣した。一方義忠の妻の兄の伊勢新九郎(後の北条早雲)は
竜王丸を後押し、幼かった竜王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行させることで決着をつけた。
だが龍王丸が成人しても小鹿は家督を譲らなかったため、龍王丸派と小鹿派と間で跡目争いが勃発した。
この時も早雲が竜王丸を支援し、小鹿範満を今川館で討ち取った。」

この位の説明がなければ理解はできないし、歴史の興味が湧いてこない。
尤も私が遠州塩買坂も義忠の墓や花倉城跡も見ているので、知ったか振りをしたいだけかもしれないが。

八幡山の北の麓に八幡神社があった。この神社は以前は大相撲の高見山の部屋が合宿したとTVのニュースで
報じられた事もあったが、その証拠のように境内に土俵があった。

 
                 八幡山城跡                            八幡神社

駿河百地蔵4回目-3

2013-11-08 11:16:36 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              47番目(68番) 円福寺
 法蔵寺の山門の前の露地を何気なく歩き、出合った太い車道で方向を見失ってしまった。
その車道を間違って小鹿通りと思い込んだことが間違いの元で、ここで5分以上ロスしてしまった。
次の円福寺は日本平の高台の入口にあり、法蔵寺から歩いるこの道は、昔は湿地帯だったと思われる地点だ。
現在は当然そんな面影は皆無で、途中にはJRの東静岡駅もでき、周囲にはマンション等のビルが建っていた。

 円福寺の境内に入り百地蔵を探すが、百地蔵どころか地蔵その物が見当たらない。代わりにちょっと変わった
物が有ったので紹介します。
写真の錦の着物を被せてあるのは自然石です。何か分からないが、周りには不動尊のお札や御詠歌が書いて
あるのを見ると、お不動さんなのでしょうか。
次は良く見かける如意輪観音ですが、石仏だと思惟相の頬に当てた手が、頬杖のように見えてしまう。
どこかの地区では、この姿から歯痛の神さんとして祀られているとか、何となく分かりますよね。
最後は穴の開いた自然石を紐で吊るした供え物。焼津日本坂峠の穴地蔵など、時々見かける事があるが、
何故穴の開いた石をお供えするのか分からない。


              円福寺本堂           不動尊?       如意輪観音       穴あき石
      円福寺の地図

 境内を物色していると、庫裏から袈裟姿の住職が出てきたので百地蔵の話を聞いてみた。
「地蔵は何処にもあるから百地蔵じゃないの。うちは梅花観音霊場だよ」と百地蔵の事は知らない様子だった。
こりゃー駄目だ。ここは百地蔵は無しとしよう。

              48番目(72番) 大慈悲院
 今日はツイテいないのか、また道を見失ってしまった。円福寺・大慈悲院は距離は1kmもなく、道も簡単で
ハッキリしていた。なのに出合った所に目的の東名高速のガードが無かった。例により道に迷ったら高い方から
探す癖が出て、上り坂になっている東に向かった。しかしガードは現れない。そのうち下の方に県立運動場の
グラウンドが見えてきた。こりゃ幾らなんでも東に来過ぎだとUターンして下り始めた。
そして先程出てきた道を通り過ぎ、少し行くと東名のガードがあった。アー!良かった。
 ガードを潜り東名の側道を西に下る。今度は太目の道に出たら美術館があり------- 待てよ、県立美術館が
こんな場所に有る分けが無い。美術館は運動場より更に東側にあるはずだ。しかし印刷してきた地図には間違い
なく「静岡美術館」と載っている。
太い道に合流したが矢張り美術館は無い。
だが待てよ、ここは見た事がある場所だ。確かこの道は日本平に行く道で、この先に動物園がある筈だ。
しかし地図には動物園は載っていない。全然納得できないが、ともかくもう少し先まで行ってみようと歩き出す。
何の事はなくすぐ動物園駐車場入口になった。なんか訳が分からないが、その先には大慈悲院の入口もあった。
大慈悲院が動物園前と分かっていれば迷うことは無かったのに、と自分に腹が立つ。
今回は地図の範囲をケチったため、動物園の文字が印刷されなかった事が原因だが、静岡美術館の表示は
何なのだろう。私立の美術館があるのだろうか? しかし看板もそれらしき建物も無かった。

 大慈悲院の山門にはバッチリ駿河百地蔵の標識が張ってあった。境内左にある地蔵堂の入口には厄除地蔵の
表示もあるが、何故か狸の置物が入口に置いてある。赤い褌を締めた相撲取りのような狸と、あと一つは狸の
顔を浮き彫りにした、傘立らしき壺がある。アレーその横には貧乏徳利も置いてある。住職の趣味なのか?
地蔵堂の中の厄除地蔵尊は、半開きになった厨子から半跏像の姿を見せていた。
境内に「陸軍用地」と彫られた石杭が埋めてある。昔ここは陸軍用地だったのか? そんな事はないと思うが
境内には聞く人がいなかった。


                    大慈悲院山門         狸の置物      厄除地蔵       陸軍用地?
      大慈悲院の地図

              49番目(45番) 法伝寺
 今度は道に迷わないよう慎重に歩こうと思ったのも束の間で、東名の取付道路の脇から近道になりそうな
道があると、性懲りも無く入ってしまった。しかし今回は大丈夫で、出た場所は寺の近くだった。
このように少しでも近道になると気分が良く、儲かったような気がするのだから、これからも迷子になる
事はなくならないだろう。

 法伝寺はまだ新しく、本院は静岡市内にあり、ここは別院になっていた。当然駿河百地蔵の表示も無く、
それらしき地蔵尊も見当たらなかった。代わりに量産型だが少し値が張りそうな六地蔵が安置されていた。
その六地蔵の前に、六地蔵の意味がわかりやすく刻まれた碑があったので紹介します。

「お地蔵様は、お釈迦様が亡くなられた後、弥勒菩薩様が現れるまで法を継いだ菩薩です。天上道、人間道、
修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの迷いの道から、私達衆生をお導き下さるのが六地蔵様です」

  一 天上界     大堅固 地蔵尊 (両手で柄香炉)
  二 人間界     大清浄 地蔵尊 (両手で数珠)
  三 修羅界     清浄無垢地蔵尊 (合掌)
  四 畜生界     大光明 地蔵尊 (両手で幢幡(はた))
  五 餓鬼界     大徳清浄地蔵尊 (宝珠 施無畏印)
  六 地獄界     大定智慧地蔵尊 (宝珠 錫杖)


(括弧内の地蔵尊の持ち物は私が追加しておきましたが、経典により持ち物は違うそうです)

 
              法伝寺本堂                              六地蔵
      法伝寺の地図

 他に見る物も無く、早々に次に向かった。

駿河百地蔵4回目-2

2013-11-06 17:37:14 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              44番目(39番) 横田地蔵堂(地蔵さん)
 横田地蔵堂は清水寺を出て、静岡鉄道の線路を清水方面に向かい国道1号線と出合う手前にあった。
一見すると煙草屋の店先のような感じで危うく見落とすところだった。建物には「横田町三区公民館」の看板が
掲げてあり、公共施設と共存しているようだ。
ガラス戸越しに中の地蔵像を見ると、まだ新しい石造の座像で、左手に錫杖を、右手には宝珠を持っていると
思われるが、赤い前垂れで隠れていて見る事ができない。

 この赤い前垂れの起源には色々の説があるようだが、こんな説も面白いと感じた。
「賽の河原には幼くして死んだ我子を供養しようと、多くの地蔵像が祀られた。祀られた地蔵が増えてくると、
お参りに来た両親が、どれが我が子の地蔵か分かりにくくなってしまった。そこで目印に子供が使っていた
前垂れを掛けるようになった」
 そうかあの前掛けは目印だったのか。

 横田地蔵像をよく見ると台座に「駿河一国第二十二番」と刻まれている。ここは39番なのに何故だ。
百地蔵のHPによれば「昭和25年に建立した時の誤り」だそうです。私もそそっかしいが上には上がいるものだ。
HPには他にも気になる事が書かれていた。
「江戸時代この地は駿府の町の東端とされ、東見付が設置された。一方川越町に設けられた西見付は、正面に
富士山の見える場所が選ばれたのに対して、東見付は、女富士とか小富士と呼ばれる藤枝の高根山が正面に
見える場所に設けられたという」

藤枝の高根山には何度か登っているが、あの山が女富士とか小富士と呼ばれていたとは知らなかった。山の形を
確認したかったが、今では建物の影になっていて見る事が出来ない。ここから約20km離れているが、高根山は
標高871mあり計算上はその山影は見る事が出来るが、もっと手前の丸子富士の間違いではないかと疑問を感じた。

 もう一つ気になる話もあった。
「徳川家康が17歳で初陣の時、華陽院に住んでいた祖母の源応尼は、華陽院の地蔵に家康の無事を祈願した。
その話を聞いた家康が、地蔵の御影を所望したけれども御影がなかったため、源応尼は小さな地蔵を家康に贈った。
家康はそれを常に陣中で襟元にかけており、襟掛地蔵と呼ばれるようになった。後にその地蔵を祀るため、
(横田)地蔵院が創建された」

アレー! 前回華陽院では新しい百地蔵しか見当たらなかったので、渋々それを百地蔵としたが、実際はそんな
言い伝えがあったのか。それならそうと案内板に書いてくれなければ ----------
それにそんな話があるのなら、華陽院では襟掛地蔵を家康の出世にあやかって「出世地蔵」と名付けて携帯の
ストラップでも売り出せば売れるかもな。
しかし現在この地蔵堂を回向しているのは、何故か静岡の山奥にあった足久保の新光明寺です。本来なら
華陽院で回向する筈なのだが、地蔵院が零落して無住になったので、襟掛地蔵は華陽院に移されたという。

     
                  横田地蔵堂                     横田地蔵
      横田地蔵堂の地図

              45番目(36番) 長泉寺
 横田地蔵堂から静鉄の線路沿いに柚木駅まで行き、そこから谷津山の麓に向かった所に長泉寺はあった。
谷津山を背に建っている寺の本堂の屋根は、陸屋根のようで寺の面影はない。地蔵像は寺の入口の祠の中に
安置されていたので、多分これが百地蔵だろうと勝手に決めつけ、早々に退出してしまった。
ところが後で本堂の写真を見ると、本堂の横には「厄除延命招福」の扁額が掛かっているのが見えた。
若しかしてこの建物の中に、本命の百地蔵が安置されていたのかもしれない。
横田地蔵堂で百地蔵の番号違いをそそっかしいと笑ったのに、自分はこの様だ。

 
                  長泉寺                       地蔵像
      長泉寺の地図

              46番目(35番) 法蔵寺(東海道の謎)

 法蔵寺は長泉寺から柚木駅まで戻り、国1と東海道線と新幹線を渡った所にある西豊田小学校の西側にあった。
法蔵寺の山門の手前に巨樹が何本も見える神社があったので寄ってみた。「軍人社」という神社で、日本武尊が
東征の際、戦勝祈願した伝説があるこの地に、坂上田村麻呂の蝦夷平定を記念して、平安時代に創建したと
伝えられている。何故軍人社かというと、祭神が「武甕槌命(タケミカズチノミコト)」「経津主命(フツヌシノミコト)」で、
どちらも軍神であることから軍神社と呼ばれるようになったとある。

 大きな楠木が何本もある広い境内は、かっては相当権力があった事をうかがわさせる。
本殿横に砲弾を形どった「戦勝記念」の碑があるが、文字が小さく読むことができない。日露か日清だろうが
砲弾の上には、鷹が羽根を広げて乗っている。如何にもタカ派が喜びそうな戦勝記念碑だった。

      
                 軍人社                            戦勝記念碑

 法蔵寺の境内の地蔵像や庚申塔、墓石には、案内板が付いているで見やすく理解もしやすくて助かった。
まず目に付いた「狐ヶ崎地蔵尊」には、またもや気なる記述があった。
「狐ヶ崎とは、寺の正面に見える谷津山南麓の曲金1丁目地先のこと、谷津山の尾崎で突出しているので
「狐の鼻」のような地形。往古「狐ヶ崎の渡し」として史話に残っている。」

これだけの案内で疑問が二つもあった。
先ず狐ヶ崎の場所だが、現在狐ヶ崎という地名は無いが、その名称は残っていて、静鉄の狐ヶ崎駅や
狐ヶ崎郵便局。かって狐ヶ崎遊園地のあった場所もあるが、いずれの場所も清水区だ。
ではこの法蔵寺の場所は、というと駿河区曲金に属している。ではどちらが昔の狐ヶ崎か?
この案内板の表記が正しいとするなら、清水区にある狐ヶ崎は、谷津山南麓とは5km以上離れていて、
とても谷津山の地形が地名になる場所とは思えない。
では何故清水区に狐ヶ崎の名前が付いたのか?それは狐が化かしたのではなく、静岡鉄道が化かしたのです。
静岡・清水間に鉄道路線を敷設した静鉄は、乗客誘致のため中間地に遊園地を造り、その遊園地の名前を
近くにあった字名から「狐ヶ崎遊園地」として、駅の名前を狐ヶ崎としてしまった。
その名前がいつしか定着してしまい、狐ヶ崎は清水区になってしまったのだろう。

 もう一つの疑問の「狐ヶ崎の渡し」は、納得できた部分と、できない部分が残った。
東海道の江尻(清水)から駿府(静岡)の間の街道は、現在の国道1号線の走っている平地ではなく、南側にある
日本平の高台に通っている。これは平地部分には巴川という昭和49年の七夕豪雨で氾濫した川が流れている
ため、堤防の整備されていない江戸時代には、川の周辺は湿地帯で通年を通して歩けなかったと想像できる。
そして日本平の高台が終わり平地になると街道は、北にある谷津山の麓に湿地帯を横断して移動する。
それは直進すると湿地帯が続くので、それを避けるため、湿地帯を横断して谷津山の南麓に移ったと理解できる。
だがここから先の街道の道順が分からなくなる。普通なら谷津山の麓まで来たら、そのまま山の麓を進み、
谷津山の西端近くにある東見付に出ればよいと思うのだが、東海道はここから理解できない方向に進む。
 日本平側から谷津山側に移った街道は、谷津山の麓にある護国神社辺りから、また向きを南に取り、先程
まで歩いていた日本平の道を延長したような所の道に出る。その道が法蔵寺前の東海道だ。
更に東海道は暫く行くと、またもや向きを北にとり駿府の東見付に進んで行く。

 東海道を歩いた時、この谷津山の南麓から法蔵寺前に移動する理由がどうしても理解できなかった。
そこでヒントになると思った「狐ヶ崎の渡し」だが、この渡しだ何処と何処を渡していたか分からない。
法蔵寺と谷津山か、それとも日本平の高台の終りと谷津山なのか。いやそれなら日本平の高台から寺まで直接
渡せば簡単だが、谷津山に関係ないのに、渡しの名前が狐ヶ崎という谷津山の地形の名前を使うの変だ。
さらにに致命的なのは、谷津山の麓の近くには「長沼の一里塚」跡がある事だ。
では「渡し」とは船の渡しではなく、何かを渡る所、と考えたが分からない。

 現在法蔵寺のある場所の地名は「曲金」と一風変わった地名だが、この地名は東海道がクランク状に折れ曲がって
いるので付いた地名かと思ったが「曲金付近一帯は、奈良時代の土地を碁盤の目のように区画した条里制の遺構が
あり、このため直角に曲がった金尺のように、水田が区割りされていることから付いた地名」
とあった。
こうなると訳が分からなく、ネットで「狐ヶ崎の渡し」検索したが案内板の云う史話はヒットしなかった。

 江尻・駿府間の街道は、まだ話足りないが、少しは先を急がないと今年中に終わらなくなってしまう。
そうだ地蔵尊の話を忘れていた。この狐ヶ崎地蔵尊は「旅人が身支度を整えて道中の無事を祈った」そうです。


     
                 法蔵寺山門                    狐ヶ崎地蔵尊

 次に「千日地蔵尊」があった。案内板には「この地方に悪病が蔓延したとき、一人の修行者が穴を掘り、その中に
入り読経祈願をして幾数日。やがて竹筒を通して聞こえてきた読経の声と鐘の音が聞こえなくなり入定された。
この祈願と犠牲が佛天に通じ、蔓延していた厄病が悉く退散した」
そうです。
千日の名前は「修験者の菩提を弔うため、地蔵尊を安置して、村人が千日参詣の願をかけてお詣りをした」
からだそうです。

 新しい六地蔵もあったが、その前にある石仏は六地蔵ならぬ三地蔵が浮き彫りになっていた。風雨に晒され、
大分薄くなってきているが自然の趣はある。このまま屋外に置くか、祠をを造るか、毎日見る分にはその変化は
見えないが50年位の単位で見れば、明らかに風化しているのだろう。
それにしても量産型の六地蔵は屋根の下に安置されている場合が多いが、これは大事にされているためか、
それとも風化が早いため保護をしているのか --------

 
                千日地蔵尊                         六地蔵と三地蔵

 法蔵寺の百地蔵は狐ヶ崎地蔵でも千日地蔵でも三地蔵でも、ましてや新しい六地蔵でもない。
ここの百地蔵は延命地蔵で観音堂の中に祀られている木製の立像だという。
観音堂の中を覗くと、高さが40cm位の小振りだが彩色の鮮やかな地蔵尊が祀られていた。案内板には
「壽命を守護されることを讃迎して、広く駿河一国に亘って信仰されている」とあるだけだった。
写真を写したが、赤い幟が写り込んでいて見にくい写真になってしまった。

            
              法蔵寺の観音堂                     延命地蔵尊

駿河百地蔵4回目-1

2013-11-05 09:19:12 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              41番目(43番) 宝泰寺
  

 百地蔵の4回目は先ず静岡駅を出発し、東海道線沿いの北側を草薙方面に進む。そして東静岡駅付近で東海
道線を渡り、今度は線路の南側を行く。草薙に入ったら日本平の山裾を静岡に向かって、所謂静岡市の駅南地
区の寺を廻り、静岡駅で再度駅の北側に出る。今度は朝と逆方向の西に向かい、前回廻らなかった寺に寄って
浅間神社に出る。次に谷津山を目指して山の北側を歩く。最後はまた線路を渡り日本平の山裾の寺に寄ってから
草薙駅に帰る。アー! 書くだけで疲れてしまう。よくこんなコースを考え付くものだと自分でも感心してしまった。
ただ、今回はの距離は予定では30km程度なので、前回より10km以上も少ない。それは良いのだが廻る地蔵の
数が30ヶ所もある。1ヶ所10分とすると、これだけで5時間掛かってしまう。エー5時間かー!
30kmなら少なく見ても6時間。合わせて11時間。何とかなるといえば何とかなる時間だが、途中で迷ったりすると
前回と同じように最後は暗くなってしまう。それは避けたいので極力札所での時間を少なくしなければ。

 静岡駅を出る時は小雨が降っていて、傘をさしての出発になってしまった。天気予報は晴で降水確率は30%。
そのうち止むだろう。
 最初の寺は静岡駅前にある松坂屋近くの宝泰寺。それを何を勘違いしたのか、新静岡駅の方まで歩いて行って
しまった。無駄な時間は使いたくないと思っていながら、5分も掛からず行ける所を15分も掛かってしまった。

 ようやく宝泰寺の前に来て驚いた。イエ宝泰寺に驚いたのではなく、寺の前にあったレストランに。
まるでヨーロッパの中世の城のような建物だった。静岡では長く仕事をしていたが、駅前にこんな建物があるなんて
初めて知った。

 
                  レストラン                    宝泰寺の山門
      宝泰寺の地図

 宝泰寺は江戸時代朝鮮通信使の休憩所に充てられた寺で、通信使に「東海一綺麗なお寺」褒められたらしい。
今も公園のように整備されている境内の所々に、わらべ地蔵が置かれているが、これは百地蔵ではない。
他に蔵像は無いかと境内を見回すと、池の中に観音像と地蔵像が乗ったアーチがあった。それと古い六地蔵も。
ヨシ!これを百地蔵として次に行こう。

 
                     アーチの上の地蔵像                     六地蔵

              42番目(42番) 華陽院(家康の祖母)
 42番目にお詣りする華陽院は百地蔵の順路でも42番だった。しかも「死に」番で悪い事がなければよいのだが。
 不吉な予感にかかわらず雨は止み、華陽院も静岡鉄道日吉駅の南側にあって迷わず辿り着く事が出来た。
 華陽院は徳川家康の母方の祖母、源応尼の菩提寺で、竹千代(家康)が人質で駿府に暮らすとき、養育係として
岡崎から来て華陽院の近くに住んでいた。竹千代は人質として寂しい生活を余儀なくされていたが、祖母源応尼の
親身の愛情を注がれ心を和ませられたという。 源応尼は永禄3年に駿府で亡くなるが、その時に家康は義元の
上洛軍として桶狭間に向かっていた。その直後に今川義元が桶狭間で戦死すると、家康は戦場から自国の岡崎に
帰国し独立したため、敵国となった駿府に戻ることが出来ず、祖母の葬儀にも参加できなかった。
源応尼が亡くなってから50年後、家康は法要を営み、源応尼の法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」から、寺の
名を「玉桂山華陽院府中寺」と改めている。それが現在の華陽院である。

 境内の中に新しい量産型の六地蔵があったが、とても百地蔵とは思えない。だが他には地蔵像は見当たらず
百地蔵の板も無い。HPにもこの寺こについて何の記述も無いので、この新しい六地蔵は百地蔵とするしかないな。
墓地の中には家康の祖母の源応尼の墓があり、その常夜燈の笠には葵の御紋が彫られていた。
また、その墓の隣には家康の五女市姫の墓もあった。

 
                     華陽院                                源応尼と市姫の墓
      華陽院の地図

              43番目(37番) 清水寺(宗派)
 清水寺は谷津山の西の袂にあり、過去何回も来ていたので迷わずに到着。
清水寺という寺号は人気があり京都の「音羽山清水寺」を筆頭に各地にあるようだ。静岡県内にも、ここと藤枝に
あるが、どちらも京都と同じ「音羽山清水寺」だ。それなら宗派も同じだろうと思うのだが、藤枝と静岡は真言宗で
京都は法相宗と余り聞いた事のない宗派だった。
静岡の清水寺が京都と同じ名前した理由として、静岡市が建てた案内板には 「開山第1世道因大僧正が京都
清水寺から招かれ、故郷を偲んで名付けた」
とある。なのに法相宗ではなく真言宗だ。
それが百地蔵のHPには「開山は京都の仁和寺から招かれた尊寿院道因大僧正。山号と寺号は、ここの風景が
京都の清水寺に似ていた事から名付けられた」
となっている。因みに仁和寺は真言宗だ。
サーどちらが正しいのでしょうか、住職に聞いてみたいですね。

 さらに清水寺の宗派について、こんな説がウィキペディアに載っていた。
「9代今川氏当主氏輝は、わずか14歳と若年であったため、母親の寿桂尼が補佐役となった。その後、氏輝が
24歳で死亡したときに、清水寺の開創を遺命したとされる。
「今川記」によれば、氏輝は臨済宗を信仰していたのに何故遺命が真言宗なったのか謎であるが、寿桂尼が
京都出身であり、観音信仰を持っていたからである可能性がある」

そういえば清水寺は、今川時代に選定された「駿河一国33観音霊場」の札所だった。

 清水寺には前回廻った国分寺に安置されていた、丈六の鉄製釈迦像の頭部が祀られているはずだ。
これは武田軍が駿府に攻めてきた時に、胴体部分を武器にするために鋳潰し、頭部だけを池に投げ捨てた
ものを、清水寺に祀ったといわれている。見てみたいが露地に置いて有る分けもないので、諦めるしかないな。

 ところで百地蔵はというと、寺に入った石段下の右側にあった。この地蔵は正徳3年(1713)に建立され、左手に
宝珠をもち、右手はかつて錫杖を持っていた様な手の形だった。
「石地蔵」と呼ばれて、今でも参拝されている地蔵だが、何のご利益があるのか分からなかった。

 
                     清水寺                                地蔵像
      清水寺の地図

駿河百地蔵3回目-12

2013-11-03 12:04:36 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              37番目(52番) 富春院(義元の墓)
 臨済寺から浅間神社までの1km余りの所に3ヶ所の百地蔵があるので何とも効率が良い。少し暗くなってきたが
この3軒は回る事が出来るだろう。
 最初の富春院の、寺には珍しい朱塗りの門を潜ると、本堂右の小さな地蔵堂の柱に百地蔵の板も張られていた。
地蔵堂の中を覗くと、石仏の下の方は見えるが、上の方は幕が掛かっていて見えない。
この地蔵は「墨崎延命地蔵尊」と呼ばれていて、今川義元が陣中で熱病に苦しんでいると、夢枕に地蔵尊が現れた。
そこで地蔵尊を彫らせて祀ったところ、にわかに病気が癒えたという。その後、この地蔵は臨済寺近くの墨崎に
雨ざらしのまま祀られていたが、それを富春院に移して地蔵堂に安置したという。
戦前までは、病気の回復に御利益があるとして、多くの参詣者が訪れたという。

 この富春院は今川義元に縁があるようで、かってこの寺の北側に天澤寺という寺があった。この寺は桶狭間で
敗死した今川義元の菩提を弔うため、今川氏真の命によって開いた寺だといわれている。
義元の亡骸は、家臣が戦場から持ち帰り、その墓の上に天澤寺の本堂を建て、義元の木像を本尊として祀った。
だが後に同寺は衰退し木像を臨済寺に移し寺は解体され、さらに明治になり墓も臨済寺に移して同寺は廃絶した。

 この話は江戸時代に書かれた「安倍紀行」には
「義元の遺骸を駿府に葬送し、天澤寺を建立する。しかるに天澤寺は御廟院なのに、近頃まで無住で伽藍も打壊れて、
今は跡形もない。ただ御廟塔に少しの覆堂があるだけだ。盛者必衰の世の中は、かくも浅ましきものなりと思うと、
盛るも衰るも、ただ夢幻の世の中なり」
と記されている。
 江戸時代には今川義元を祀った寺は既に寂れていた。今川氏により栄えた駿府の町は、徳川家康の登場により
さらに栄えていったが、住民は前人の事は忘れ去り見捨ててしまっている。
これが静岡県の県民性? そんな事はないと思うが淋しい気がする。何処からか鐘の音でも聞こえてこないかな。

 この今川義元の墓についてウィキペディアには「臨済寺には、今川氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川
当主の位牌が安置されている。」
と書かれている。
 だが、今寄ってきた、臨済寺の山門の前に建つ静岡市の案内板には
「境内墓地の最上段には、今川氏輝公と雪斎長老の墓がある。」と書いてあるだけで、義元の墓については触れて
いない。一体義元の遺体はどうなってしまったのだろう。まさに「盛者必衰の理をあらはす」か。

 
                  富春院本堂                        墨崎延命地蔵堂
      富春院の地図

              38番目(53番) 松源院

 松源寺の子安地蔵は、庫裏の裏側から入り。墓地の入り口の所にある地蔵堂に祀られているとあったが、
庫裏にはすでに明かりが点いている。そんな中庫裏の横を通るのは何となく憚れてしう。
ウーン どうしよう。やっぱり止めよう。

           
                               松源寺本堂
                  松源寺の地図

              39番目(54番) 安西寺

 安西寺の名前の安西を、前回話をした安倍川の西側だとすると、寺の場所は説明が付かなくなる。
安西寺の後ろは賎機山があり、安倍川がどう流れようが、寺の西に安倍川が流れる事はない。
ナーニ分かれば簡単な事で、かつての安西寺は現在の中町交差点の西側にあり、室町時代以前には、中町の
辺りを流れていた安倍川の西側にあったことから、「安西寺」と名付けられたらしい。
その安西寺が賎機山の麓に移転したのは、明治30年に賎機山の山崩れで、ここにあった安西寺の末寺が大破し、
間もなく安西寺も火災で焼失した。そこで安西寺と末寺を合併し、安西寺を現在地に再興した。

 
                 安西寺本堂                            安西寺地蔵堂
       安西寺の地図

 安西寺の地蔵尊は寺伝によれば、奈良時代に聖武天皇の病気平癒を祈願して、行基が駿河国足久保の楠で
七観音を作ったところ、天皇の病気が回復した。そのお礼として、行基が唐木で作ったのがこの地蔵という。
だが別の説では、この地蔵は平安時代に駿河守に任命された国守が、護持仏として運んできたものともいう。
 マーどちらにしても賎機山の麓に来た地蔵尊は、火災で焦げた傷を布に巻かれて厨子に納められ、日限地蔵と
して人々の信仰を集めるとともに、延命子安地蔵として安産祈願の対象にもなっている。

 お堂に入ると、お礼参りの人々が奉納した夥しい数の小さなお地蔵さんで、隙間なく並んでいた。
何かこの形式は水子供養のようだが、ここは日限地蔵尊。この小さな地蔵は水子ではなく、願いが叶った人が
奉納したお地蔵さんだが、暗くなった堂内は薄気味悪い感じがした。

 
                夥しい数の地蔵                            安西寺の看板

 4回目の地蔵巡りで浅間神社まで来たついでに、安西寺にも寄ってみた。寺の前の大きな看板には「水子供養」
文字も見える。やはり奉納されていた小さな地蔵は水子供養のためのものか?
地蔵堂の前にはテントが張られ、小さな地蔵も売られていた。今日は9月24日で、ここの地蔵尊の縁日は毎月24日と
なっていたので丁度縁日なのだろう。

 
               縁日の地蔵堂                             昼間の地蔵堂の中

              40番目(50番) 国分寺(国分寺跡)
 安西寺を出て麻機街道を右折するとすぐ浅間神社の石鳥居に出たが、すでに薄暗くなってきている。
仕方ない、今日は浅間神社をお参りするのは止めにして次回にしよう。

             
                                  浅間神社

 次の百地蔵は「御器屋(ごきや)町地蔵堂」の予定だが、この地蔵堂の場所がネット上では分からなかった。
御器屋町も今では、その地名は消滅してしまっていて地図にはない。
場所だけは浅間神社南側の麻機街道の終点辺りだと分かったが、それ以上の知識は無かった。
暗くなってしまった今、場所も分からないのに探すのは無理だと、諦めて次の国分寺に向かう事にした。

 国分寺は浅間神社の石鳥居を潜り、東西に走る長谷通りを少し東に行った静岡高校の近くにあるはずだ。
行き過ぎないように先ず最初の露地を入り静岡高校に向かう。残念!寺は無く高校まで来てしまった。
次の路地は覗き込んでみたが寺らしき建物は見えないのでパス。次に静岡高校の建物が終わりになった所の路地
を入る。しかし寺は無い。仕方なく歩いてきた人に聞くと「この道を入り最初の路地を左に曲がる」と言う。
その通り歩いたが国分寺は無く、また長谷通りに出てしまった。だがその角にあった石柱に「国分寺」の表示がある。
この辺りに国分寺はあるのは間違いないのだが----- 探すより聞く方が早いと、今度は女子高生に聞いてみた。
「分かりにくいから案内します」と親切にも寺の前まで連れてってくれた。そこはさっき覗き込み、寺らしき建物は無い
と省略した露地だった。そしてその国分寺は寺というより庵で、三方を民家に囲まれて建っていた。

 国分寺の名はかっては「竜池山 泉動院 国分寺」と云い、名前だけ見ると素人の私では、泉が湧き出る池に龍が
棲んでいて、その龍が動くとさざ波がたつ大池があった。となるが、実際は泉動院とは「千燈院」「仙幢院」と記され
それは国分寺の別名だともいわれている。

 駿河の国分寺は、この長谷通りにある国分寺と、駿河区大谷で発掘された片山廃寺跡がそうだという説がある。
ただこの狭い国分寺の境内の隅には、安永6年(1777)に寄進された石塔に「日本六拾六國於國分寺立之」とあり、
江戸時代には当寺が「国分寺」であるとしている。

 現在の国分寺の山号は「龍頭山」になっているが、この名前には言い伝えがあり
「永禄11年(1568)駿府に侵攻した武田信玄が国分寺を焼き払い。その際に、鉄製の丈六の本尊は鋳潰され、
残った頭部は池に捨てられたという。 慶長15(1610)徳川家康が国分寺を再興し、本尊には池から掘り出された
丈六仏の頭部と薬師如来が祀られた。ここ山号は寺の後ろに大池があったことに因み「龍池山」とされていた」
 
ではこの頭部だけの本尊が、今の国分寺の本尊かというと、それは違って、今は別の「経読地蔵」が本尊だという。

 
                   国分寺                             国分寺石塔

 国分寺の本尊の経読地蔵にも嘘か本当か、こんな言い伝えがあった
「徳川家康が手洗いに利用していた鉢の辺りから、夜な夜な経を読む声が聞こえ、不審に思って掘り返したところ、
台座の裏に水鉢が彫られている地蔵尊像が現れた。そこで浅間神社にお堂を建てて安置した。
明治になって現在地に移されたが、その後も「経読地蔵」が経を読む声を聞いた人がいるという」


 
                  経読地蔵                             駿府城巽櫓

 着物を羽織った経読地蔵の台座は見る事が出来なかった。

駿府公園の中を通り駅に向かった。久し振りの夜の駿府公園だったが、昔と違ってアベックの姿は見えなかった。

駿河百地蔵3回目-11

2013-11-02 10:41:52 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              36番目(51番) 臨済寺(地名)
 円光院からは賎機山の東の山裾を通る麻機街道で南に向かうと、臨済寺、富春院、松源院、安西寺と続き、
山裾から少し離れた場所に国分寺と旧御器屋町地蔵堂がある。
このうち山裾のにある4寺は道順にあるので、何としても今日中に回りたいと思っている。今日回らないと次回も
同じ道を歩かなければならなくなる。

 麻機街道を歩いていると「麻機」と付いた小学校、郵便局、幼稚園などが目に付いたが、麻機の地名は地図上
には載っていない。代わりに北、南、東と一文字の地名が散らばっていた。
古い私の知識では、麻機沼のあるこの辺りの地名は、麻機と思っていたが、どうやらそうではなかったようで、
ウィキペディアによれば「明治22年に南村、浅畑新田、北村、東村等が合併して麻機村が発足」とある処を見ると
当時は麻機沼を中心に東、南、北の集落があったようだ。
それが昭和9年に麻機村が静岡市に編入されたとき東南北の地区名はどうなったのか、そこが分からなかった。
地名は名付けた当初は自分たちを中心にして、東、南、北でも良かったろうが、地域が広がると何処に対しての東
なのか北なのか分からなくなる。この地区も主たる地名の麻機を頭に付けて、麻機東、麻機北、麻機南にすれば
一目瞭然で分かりやすいと思うのだが。

 今日歩いてきた中に、安西の地蔵堂があった。これに対し、これから向かう所には安東という地名もある。
この場合の「安」とは安倍川の事だと誰でも気づくと思うが、地図で見ると安西も安東も安倍川の西を流れている。
では「安」は何を指しているのか。
右側の古い時代の安倍川の見取り図を見てください。かって安倍川は今の静岡の街中を流れていて、安西は
安倍川の西にあったのは間違いないようです。矢張り「安」は安倍川指していたようです。

 
                    現在の安倍川の流れ                昔の安倍川の流れ

 麻機の地名ではもう一つ興味を引くものがある。アッそうだ!その前に麻機の読みは「アサバタ」と読みます。
静岡市の人なら大概の人は読めるでしょうが、初めて見る人は戸惑うかもしれませんので紹介しておきます。
この麻機以外にも静岡には「賎機(しずはた)」という地名もありましたが、今は山の名前や学校、郵便局に名前を
残すだけのようです。今日はその賎機山の裾を東西に歩いて来ました。
さらに「服織(はとり)」という地名もありましたが、これも学校や郵便局に名前が付いているだけです。

 この麻機・賎機・服織の地名を並べると何か気づきませんか? 
そう麻や機、服、織など繊維に関係ある言葉ばかりです。実は静岡の北部のこの辺りには、渡来人の一団が住み
賎機山を中心に麻、木綿、絹の栽培や機織をしていたそうです。
その証拠というか、服織には「建穂(たきょう)神社」という、かっては「馬鳴(まなり)大明神」と称した神社があります。
この馬鳴明神の馬鳴とは、養蚕を営んでいた人たちが祀った「馬鳴菩薩」と同義語らしいのです。
馬鳴菩薩は右手に桑の枝、 左手に蚕の繭玉(絹糸)を持って白馬に跨っていたらしいですが、そのお札をネットで
見付けたのでコピーしておきます。

      
       馬鳴菩薩(コピー)                            牧ヶ谷古墳

 さらにこの服織を流れている藁科川の対岸には牧ヶ谷古墳群がある。その古墳は養蚕や機織などの技術を持った
渡来人の秦一族の物ではないかとの説もあります。
くどいついでにもう一つ。静岡の名前は明治以前は府中とか駿府と呼んでいました。それが明治維新に改名する際
賤機山から「賤ヶ丘」が候補に挙がったが「賤」「いやしい」に通じる事から「静岡」になったそうです。
こうなると気になるのが何故「賎」なのかと言うことで、これは麻機では麻の織物、服織では絹の織物、そして賎機は
いやしい人の着る織物、すなわち木綿の織物を織っていたとされています。

 色々受け売りを書いてきたが、地名は安易に捨てるべきではないと思う。麻機、賎機、服織は最早地名には無く
学校や郵便局等にその名を残すだけになってしまった。いつのその名が無くなってもおかしくない状態だ。
「はとり」は確かに今もその地区は「はとり」だ。だが字は「服織」から「羽鳥」と変わってしまい、文字からは過去を
想像することは出来なくなってしまった。
難しい漢字だから平がなに、難読だから安易な読める字に変更することが本当に思いやりなのだろうか。

   
          秋葉山常夜灯                          ブーゲンビリア

 円光院から臨済寺に1は時間25分も掛かってしまい、時間も5時半近くなってしまった。辺りは薄暗く臨済寺の
山門も閉まっていて中に入ることは出来ない。
仕方がない山門の写真を写して次に行こうと思ったとき、郵便配達の人が通用門らしき入口から中に入って行った。
その門は開いたままの状態だったので私もついつい中に入る。
写真を2枚写した処でお坊さんに出会ってしまった。軽く会釈をすると相手も会釈して通り過ぎた。
アー良かった。いい歳をして馬鹿な事をやり過ぎだ。反省しながら臨済寺を後にした。
臨済寺については気になっていた事があるが、それは次回臨済寺の境内に入った時の話としよう。

 
               臨済寺山門                               臨済寺本堂
      臨済寺の地図

ミカン狩りウオーク案内&駿河百地蔵

2013-11-01 10:55:03 | その他
 昨年紹介したJA清水の「ミカン狩りウォーク」の案内が来ました。
昨年のこのウォークは、現地でミカン食べ放題、土産のミカン一袋付きでしたが、今年はどうでしょう。
案内にはその点は何も書いてないので少々心配です。

 

アグリウオーキング2013 開催決定!
世界文化遺産の富士山が見えるビューポイントを含む、およそ3時間のコースです。清水の農地を歩いてみませんか?

開催日時 11月16日(土) 雨天決行   参 加 費:無 料
受付時間 スタート/8:30~10:00  ゴール/14:00まで  
受付場所 JAしみず本店 西側駐車場

距  離 約12km  所要時間/約3時間30分(中級者向き)
コース
JA清水本店→原畑総内ビューポイント→茶業センタ→高山ビューポイント→JAグリーンセンタ→JA清水本店
特 典
 ①スタンプラリー押印で、粗品をプレゼント!
 ②先着500人に、オリジナル缶バッチと清水のお茶ボトル缶を配布
主 催 JAしみず    TEL 054-367-3214(開発課)
その他  事前のお申し込みは不要です。当日、直接受付へお越しください)

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 昨日(10月31日)駿河百地蔵尊の最終回を歩いてきました。
番外は「高野山大師教会支部日限地蔵」となっていましたが、場所を特定できず諦めました。
代りに函南町桑原の仏の里美術館に展示されている地蔵菩薩像を、勝手に番外奥の院と決めて歩いてきました。
これで2ヶ所の不明な所はあったものの駿河百地蔵も結願です。

 一方ブログの駿河百地蔵は遅々として進まず、まだ35番目が終わったような有様です。
残りは65ヶ所もあり、1日1ヶ所としても2ヶ月以上は必要となり、今年中に終わりそうもありません。
それも困るので、今年中にはブログの百地蔵も結願したいと思っています。