41番目 ~ 70番目 地蔵 歩行月日2013/09/23
歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分 到着時間:17時05分
歩 数: 48、000歩 GPS距離:35.8km
行程表
静岡駅
0:15> 41番
0:07> 42番
0:07> 43番
0:07> 44番
0:13> 45番
0:15> 46番
0:33> 47番
0:32> 48番
0:13> 49番
0:42> 50番
0:05> 51番
0:50> 52番
0:16> 53番
0:10> 54番
0:05> 55番
0:13> 56番
0:08> 57番
0:20> 58番
0:43> 59番
0:10> 60番
0:08> 61番
0:17> 62番
0:25> 63番 ~
0:10>~ 69番
0:45> 70番
0:25> 草薙駅
44番目(39番) 横田地蔵堂(地蔵さん)
横田地蔵堂は清水寺を出て、静岡鉄道の線路を清水方面に向かい国道1号線と出合う手前にあった。
一見すると煙草屋の店先のような感じで危うく見落とすところだった。建物には
「横田町三区公民館」の看板が
掲げてあり、公共施設と共存しているようだ。
ガラス戸越しに中の地蔵像を見ると、まだ新しい石造の座像で、左手に錫杖を、右手には宝珠を持っていると
思われるが、赤い前垂れで隠れていて見る事ができない。
この赤い前垂れの起源には色々の説があるようだが、こんな説も面白いと感じた。
「賽の河原には幼くして死んだ我子を供養しようと、多くの地蔵像が祀られた。祀られた地蔵が増えてくると、
お参りに来た両親が、どれが我が子の地蔵か分かりにくくなってしまった。そこで目印に子供が使っていた
前垂れを掛けるようになった」 そうかあの前掛けは目印だったのか。
横田地蔵像をよく見ると台座に
「駿河一国第二十二番」と刻まれている。ここは39番なのに何故だ。
百地蔵のHPによれば
「昭和25年に建立した時の誤り」だそうです。私もそそっかしいが上には上がいるものだ。
HPには他にも気になる事が書かれていた。
「江戸時代この地は駿府の町の東端とされ、東見付が設置された。一方川越町に設けられた西見付は、正面に
富士山の見える場所が選ばれたのに対して、東見付は、女富士とか小富士と呼ばれる藤枝の高根山が正面に
見える場所に設けられたという」
藤枝の高根山には何度か登っているが、あの山が女富士とか小富士と呼ばれていたとは知らなかった。山の形を
確認したかったが、今では建物の影になっていて見る事が出来ない。ここから約20km離れているが、高根山は
標高871mあり計算上はその山影は見る事が出来るが、もっと手前の丸子富士の間違いではないかと疑問を感じた。
もう一つ気になる話もあった。
「徳川家康が17歳で初陣の時、華陽院に住んでいた祖母の源応尼は、華陽院の地蔵に家康の無事を祈願した。
その話を聞いた家康が、地蔵の御影を所望したけれども御影がなかったため、源応尼は小さな地蔵を家康に贈った。
家康はそれを常に陣中で襟元にかけており、襟掛地蔵と呼ばれるようになった。後にその地蔵を祀るため、
(横田)地蔵院が創建された」
アレー! 前回華陽院では新しい百地蔵しか見当たらなかったので、渋々それを百地蔵としたが、実際はそんな
言い伝えがあったのか。それならそうと案内板に書いてくれなければ ----------
それにそんな話があるのなら、華陽院では襟掛地蔵を家康の出世にあやかって
「出世地蔵」と名付けて携帯の
ストラップでも売り出せば売れるかもな。
しかし現在この地蔵堂を回向しているのは、何故か静岡の山奥にあった足久保の新光明寺です。本来なら
華陽院で回向する筈なのだが、地蔵院が零落して無住になったので、襟掛地蔵は華陽院に移されたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/5c/a4354578b87970bd4c3a639b8f6d77d7.jpg)
横田地蔵堂 横田地蔵
横田地蔵堂の地図
45番目(36番) 長泉寺
横田地蔵堂から静鉄の線路沿いに柚木駅まで行き、そこから谷津山の麓に向かった所に長泉寺はあった。
谷津山を背に建っている寺の本堂の屋根は、陸屋根のようで寺の面影はない。地蔵像は寺の入口の祠の中に
安置されていたので、多分これが百地蔵だろうと勝手に決めつけ、早々に退出してしまった。
ところが後で本堂の写真を見ると、本堂の横には
「厄除延命招福」の扁額が掛かっているのが見えた。
若しかしてこの建物の中に、本命の百地蔵が安置されていたのかもしれない。
横田地蔵堂で百地蔵の番号違いをそそっかしいと笑ったのに、自分はこの様だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/9b/36ecc95890d69cab7d4437158ae3b5ce.jpg)
長泉寺 地蔵像
長泉寺の地図
46番目(35番) 法蔵寺(東海道の謎)
法蔵寺は長泉寺から柚木駅まで戻り、国1と東海道線と新幹線を渡った所にある西豊田小学校の西側にあった。
法蔵寺の山門の手前に巨樹が何本も見える神社があったので寄ってみた。
「軍人社」という神社で、日本武尊が
東征の際、戦勝祈願した伝説があるこの地に、坂上田村麻呂の蝦夷平定を記念して、平安時代に創建したと
伝えられている。何故軍人社かというと、祭神が
「武甕槌命(タケミカズチノミコト)」と
「経津主命(フツヌシノミコト)」で、
どちらも軍神であることから軍神社と呼ばれるようになったとある。
大きな楠木が何本もある広い境内は、かっては相当権力があった事をうかがわさせる。
本殿横に砲弾を形どった
「戦勝記念」の碑があるが、文字が小さく読むことができない。日露か日清だろうが
砲弾の上には、鷹が羽根を広げて乗っている。如何にもタカ派が喜びそうな戦勝記念碑だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/28/1fc0089f85749f23d0fa1af768e34134.jpg)
軍人社 戦勝記念碑
法蔵寺の境内の地蔵像や庚申塔、墓石には、案内板が付いているで見やすく理解もしやすくて助かった。
まず目に付いた
「狐ヶ崎地蔵尊」には、またもや気なる記述があった。
「狐ヶ崎とは、寺の正面に見える谷津山南麓の曲金1丁目地先のこと、谷津山の尾崎で突出しているので
「狐の鼻」のような地形。往古「狐ヶ崎の渡し」として史話に残っている。」
これだけの案内で疑問が二つもあった。
先ず狐ヶ崎の場所だが、現在狐ヶ崎という地名は無いが、その名称は残っていて、静鉄の狐ヶ崎駅や
狐ヶ崎郵便局。かって狐ヶ崎遊園地のあった場所もあるが、いずれの場所も清水区だ。
ではこの法蔵寺の場所は、というと駿河区曲金に属している。ではどちらが昔の狐ヶ崎か?
この案内板の表記が正しいとするなら、清水区にある狐ヶ崎は、谷津山南麓とは5km以上離れていて、
とても谷津山の地形が地名になる場所とは思えない。
では何故清水区に狐ヶ崎の名前が付いたのか?それは狐が化かしたのではなく、静岡鉄道が化かしたのです。
静岡・清水間に鉄道路線を敷設した静鉄は、乗客誘致のため中間地に遊園地を造り、その遊園地の名前を
近くにあった字名から
「狐ヶ崎遊園地」として、駅の名前を狐ヶ崎としてしまった。
その名前がいつしか定着してしまい、狐ヶ崎は清水区になってしまったのだろう。
もう一つの疑問の
「狐ヶ崎の渡し」は、納得できた部分と、できない部分が残った。
東海道の江尻(清水)から駿府(静岡)の間の街道は、現在の国道1号線の走っている平地ではなく、南側にある
日本平の高台に通っている。これは平地部分には巴川という昭和49年の七夕豪雨で氾濫した川が流れている
ため、堤防の整備されていない江戸時代には、川の周辺は湿地帯で通年を通して歩けなかったと想像できる。
そして日本平の高台が終わり平地になると街道は、北にある谷津山の麓に湿地帯を横断して移動する。
それは直進すると湿地帯が続くので、それを避けるため、湿地帯を横断して谷津山の南麓に移ったと理解できる。
だがここから先の街道の道順が分からなくなる。普通なら谷津山の麓まで来たら、そのまま山の麓を進み、
谷津山の西端近くにある東見付に出ればよいと思うのだが、東海道はここから理解できない方向に進む。
日本平側から谷津山側に移った街道は、谷津山の麓にある護国神社辺りから、また向きを南に取り、先程
まで歩いていた日本平の道を延長したような所の道に出る。その道が法蔵寺前の東海道だ。
更に東海道は暫く行くと、またもや向きを北にとり駿府の東見付に進んで行く。
東海道を歩いた時、この谷津山の南麓から法蔵寺前に移動する理由がどうしても理解できなかった。
そこでヒントになると思った
「狐ヶ崎の渡し」だが、この渡しだ何処と何処を渡していたか分からない。
法蔵寺と谷津山か、それとも日本平の高台の終りと谷津山なのか。いやそれなら日本平の高台から寺まで直接
渡せば簡単だが、谷津山に関係ないのに、渡しの名前が狐ヶ崎という谷津山の地形の名前を使うの変だ。
さらにに致命的なのは、谷津山の麓の近くには
「長沼の一里塚」跡がある事だ。
では
「渡し」とは船の渡しではなく、何かを渡る所、と考えたが分からない。
現在法蔵寺のある場所の地名は
「曲金」と一風変わった地名だが、この地名は東海道がクランク状に折れ曲がって
いるので付いた地名かと思ったが
「曲金付近一帯は、奈良時代の土地を碁盤の目のように区画した条里制の遺構が
あり、このため直角に曲がった金尺のように、水田が区割りされていることから付いた地名」とあった。
こうなると訳が分からなく、ネットで
「狐ヶ崎の渡し」検索したが案内板の云う史話はヒットしなかった。
江尻・駿府間の街道は、まだ話足りないが、少しは先を急がないと今年中に終わらなくなってしまう。
そうだ地蔵尊の話を忘れていた。この狐ヶ崎地蔵尊は
「旅人が身支度を整えて道中の無事を祈った」そうです。
法蔵寺山門 狐ヶ崎地蔵尊
次に
「千日地蔵尊」があった。案内板には
「この地方に悪病が蔓延したとき、一人の修行者が穴を掘り、その中に
入り読経祈願をして幾数日。やがて竹筒を通して聞こえてきた読経の声と鐘の音が聞こえなくなり入定された。
この祈願と犠牲が佛天に通じ、蔓延していた厄病が悉く退散した」そうです。
千日の名前は
「修験者の菩提を弔うため、地蔵尊を安置して、村人が千日参詣の願をかけてお詣りをした」
からだそうです。
新しい六地蔵もあったが、その前にある石仏は六地蔵ならぬ三地蔵が浮き彫りになっていた。風雨に晒され、
大分薄くなってきているが自然の趣はある。このまま屋外に置くか、祠をを造るか、毎日見る分にはその変化は
見えないが50年位の単位で見れば、明らかに風化しているのだろう。
それにしても量産型の六地蔵は屋根の下に安置されている場合が多いが、これは大事にされているためか、
それとも風化が早いため保護をしているのか --------
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/87/c348d4b8aabd5c13c98f7f3307a034f6.jpg)
千日地蔵尊 六地蔵と三地蔵
法蔵寺の百地蔵は狐ヶ崎地蔵でも千日地蔵でも三地蔵でも、ましてや新しい六地蔵でもない。
ここの百地蔵は延命地蔵で観音堂の中に祀られている木製の立像だという。
観音堂の中を覗くと、高さが40cm位の小振りだが彩色の鮮やかな地蔵尊が祀られていた。案内板には
「壽命を守護されることを讃迎して、広く駿河一国に亘って信仰されている」とあるだけだった。
写真を写したが、赤い幟が写り込んでいて見にくい写真になってしまった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/e1/0830c30750bd5fadcd42c3ad7bac7344.jpg)
法蔵寺の観音堂 延命地蔵尊