はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵5回目-1

2013-11-29 11:35:17 | 寺社遍路
  71番目 ~ 89番目 地蔵                              歩行月日2013/10/2

歩行時間:8時間52分 休憩時間:2時間50分 延時間:11時間42分
出発時間:6時13分   到着時間:17時55分
歩  数:  55、474歩   GPS距離:42.0km
行程表
 静岡駅 0:20> 71番 0:05> 72番 0:10> 73番 0:20> 74番 0:30> 番 外 0:23> 75番 0:33>
  76番 0:35> 77番 0:10> 78番 0:20> 79番 0:11> 80番 0:24> 81番 0:30> 82番 0:36>
  83番 0:11> 84番 0:25> 85番 0:29> 86番 0:17> 薩埵峠 1:03> 87番 0:36> 88番 0:32>
  89番 0:12> 新蒲原駅 
              71番目(69番) 上原地蔵堂(穴山梅雪)
 5回目の遍路の予定は草薙駅を出発して、先ずは日本平の東の裾野を廻り、三保半島に近くで折り返して
北に戻る。東海道線まで戻り、清水の街中を打ちながら東に向かう東海道を歩く。興津、由比、蒲原の寺を
巡りながら新蒲原駅がゴールになった。
だが当初は新蒲原の次の富士川駅まで歩きたかった。理由は以前東海道を歩いた時、三島宿から蒲原宿の
手前の新蒲原駅まで歩いたが、その時は東海道の街道を直線で歩くだけだった。だが、今回の駿河百地蔵の
最終は同じ三島なのだが、遍路は街道を歩くだけでなく、北に行ったり、南に入ったりと、単なる街道歩きより
距離が延びてしまう。そうなると街道歩きで三島から新蒲原を歩いていても、遍路になると、とても同じ区間は
歩ききれない。そこで今回頑張って富士川駅まで歩けば、残りは1回で回れそうだ。と思っていた。

 家を5時に出て始発電車に乗ってきても、歩き出しは6時を過ぎてしまう。
今日は富士川駅まで歩く予定なので気分的には焦った気持ちの出発になってしまった。
 今日最初の百地蔵はHPには「上原地蔵堂」と表示があるだけで詳しい事は分からない。ネットの地図にも
地蔵堂の表示は無く、3ヶ所目の不明な地蔵になるかと思ったが「上原地蔵堂」とネットで検索すると簡単に
分かった。そこは東海道を歩いた時に休憩した場所で、当時の写真を見ると地蔵堂の後ろが上原自治会館に
なっている。ネットの地図にも自治館は掲載されていたので不明地蔵は増えないで済んだ。

 地蔵堂の前の案内板にはこんな説明が書いてある。
「天正10年(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻城主・穴山梅雪と、この地蔵堂で
会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。」

この穴山梅雪は、その後、家康に同行して信長と接見したのちに堺に向かう。ところがその直後に本能寺の
変が起こり、家康は伊勢から海で脱出したが、別ルートで逃げた梅雪は、途中で地元民の落武者狩りにあい
殺されてしまった。「人間万事塞翁が馬」だ。

 境内には地蔵像は無く、お堂の中を覗くと須弥壇の上に地蔵像らしき写真を飾ってあった。とするとここの
地蔵尊は秘仏になっているのか、それとも消失してしまったのか。

 
                上原地蔵堂                                 上原地蔵堂の内部
      上原地蔵堂の地図

              72番目(70番) 狐ヶ崎地蔵堂(聖一国師堂)

 次の「狐ヶ崎地蔵堂」も地図には載ってなく、狐ヶ崎の地名自体が清水区には無かった。
前回歩いて分かったが狐ヶ崎の地名は、ここより5kmほど西の谷津山の麓にあるべき地名で、通称狐ヶ崎と
呼ばれている所は旧狐ヶ崎遊園地の有った場所付近だ。この話は前回の法蔵寺の所で出たし、法蔵寺には
狐ヶ崎地蔵も祀られていたので、この遊園地の場所に狐ヶ崎の名前が付いた地蔵堂がある事に釈然としな
かった。案の定ネットに地図で狐ヶ崎地蔵堂を探したが見つける事が出来なかった。
だが、百地蔵のHPを良く見ると、その記事欄に狐ヶ崎地蔵が「聖一国師堂内」にあると書いてあった。
この聖一国師とは、前々回歩いた安倍川奥の足久保出身で静岡茶の始祖と呼ばれている人だ。
その聖一国師を祀った、お堂が清水の旧狐ヶ崎遊園地の上にある事は知っていた。何しろ真っ赤な四角い
建物で車で走っていても目に付く建物だった。

 上原地蔵堂から聖一国師堂へは、地蔵堂の横の小道をの登り県道に合流した左手にあった。
生憎工事中で、お堂の周りはネットで囲まれていて屋根しか見る事が出来ない。それでも中に入ろうと県道
沿いを見るが入口は無い。どうやら入口は下に見える自動車学校の方から入るしかないようだ。そうなると
随分回り道をしなければならない。それに中に入れたとしても工事中で何も見る事は出来なそうだった。
県道沿いに建つ案内板を読むと気になる事が書いてある。
「昭和29年正一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ヶ崎の御堂に、国師の高徳を讃え、偉大な
功績に感謝して、後世にその遺徳を伝えようと国師像を安置して開眼の儀を執り行いました」

成程と思いたいが、駿河百地蔵の制定は昭和7年。となると、その時この御堂はあったのか?
案内板では昭和29年に開眼供養を行った事は分かるが、その時お堂が有ったのか無かったのか明確でない。
こうなると調べたくなるのが私の癖。ネットを探すと面白い話が出てきた。
実は今回の百地蔵では紹介しなかったが、駿河出身者で歴史上有名な人物は、由比正雪の他にシャム(タイ)
で活躍した山田長政がいる。山田長政は駿府生まれともいわれ、浅間さん通りには石碑が建っているが、
他には記念物を見た事はなかった。ところが聖一国師堂を調べているとこんな記述があった。
昭和2年の静岡新報社の記事で
「静岡が産んだ世界的偉人山田長政公の記念塔を建立して偉人の功業を永久に傳ふべく着々の工程を進めて
ゐるが、此の度暹羅國から釋迦世尊の尊い佛像一體を寄贈されて来た。此の佛像は少なくとも一千年前に鋳造
した物であつて、暹羅國皇室では國法を以て海外輸出を禁じ國寶と等しく保護してゐたが、我山田長政記念塔
建設の企てに大いに賛成の意を表され、暹羅國皇室より遙々寄贈されたものである。」
と載っていた。
ようは山田長政の記念塔を建設するに当たり、当時の暹羅(シャム・現タイ)国より、国宝級の仏像が寄贈された
ようだ。問題はその記念堂が、何処に建てたかいう事だが、
「当初釈迦堂は宝台院境内に新築する予定だったが、それを変更して静岡鉄道の経営する狐ヶ先遊園地に
改めて釈迦堂を建立する事になり、数万円を投じて見事な三間四面の御堂が完成し、宝台院から東海道を経て
遊園地釈迦堂に鎮座された。この釈迦尊像は頭辺に数十の宝石を頂き実に良い仏像だつたが、戦時中盗難に
遭つて終わつた。その後杉本宗一先生作茶祖聖一国師木像を祀り国師堂という。」

狐ヶ崎遊園地に建てた山田長政記念釈迦堂は、本尊を盗まれると、何故か聖一国師堂に変身してしまった。
真っ赤に塗られたお堂は、シャムの仏像を祀ったからと思えば何とは無く納得できる。だが国師の諡号(しごう)
を朝廷より贈られてた高僧を祀る御堂としては似合わない気がするが--------
しかも静岡茶商工業協同組合は、賎機山の麓の臨済寺の境内に、茶祖堂を建立し聖一国師を祀っているのだから
わけが分からなくなる。

 私は当初この辺りに地蔵堂はあったが、狐ヶ崎などと名前は付いていなかった。だが百地蔵のHPを作るとき
分かりやすく狐ヶ崎地蔵堂にしたのかと思った。しかし今回山田長政記念堂の事が分かると、それさえ疑わしく
感じてきた。ところがその考えが間違いだという事が分かった。
「聖一国師堂の仏像で一番古いのは身代り地蔵なので、元は身代り地蔵堂だったのかもしれない」と書かれた
ブログがあった。これも私同様に想像に過ぎないようだが、お堂の中に地蔵が祀られているならその可能性は
強い。せめて静岡新報社の記事の中に「元の地蔵堂を改築して記念堂を建てた」とあればハッキリするのだが。

 工事中のお堂の裏に大きな雛人形の像が建っていた。多分これは聖一国師が中国から茶の種子のほか麺類や
人形などの技術を持ち帰ったから、と思ったが違っていた。
何でも初代静岡雛具組合会長は雛人形に雛具を添え飾ることを考案した人で、その顕彰碑が境内にあるそうです。
この人物は静岡初のデパート田中屋百貨店(現静岡伊勢丹)を建てた人だとか。
まだ他にも東急電鉄五島慶太会長の胸像もあるそうで、こうなるとそのうち狐ヶ崎遊園地の創始者も祀られそうな
気がしてしまう。
なんともはや摩訶不思議な聖一国師堂いや狐ヶ崎地蔵堂だった。

 
                    工事中の聖一国師堂                     聖一国師堂の雛人形
      聖一国師堂の地図

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