はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵3回目-12

2013-11-03 12:04:36 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              37番目(52番) 富春院(義元の墓)
 臨済寺から浅間神社までの1km余りの所に3ヶ所の百地蔵があるので何とも効率が良い。少し暗くなってきたが
この3軒は回る事が出来るだろう。
 最初の富春院の、寺には珍しい朱塗りの門を潜ると、本堂右の小さな地蔵堂の柱に百地蔵の板も張られていた。
地蔵堂の中を覗くと、石仏の下の方は見えるが、上の方は幕が掛かっていて見えない。
この地蔵は「墨崎延命地蔵尊」と呼ばれていて、今川義元が陣中で熱病に苦しんでいると、夢枕に地蔵尊が現れた。
そこで地蔵尊を彫らせて祀ったところ、にわかに病気が癒えたという。その後、この地蔵は臨済寺近くの墨崎に
雨ざらしのまま祀られていたが、それを富春院に移して地蔵堂に安置したという。
戦前までは、病気の回復に御利益があるとして、多くの参詣者が訪れたという。

 この富春院は今川義元に縁があるようで、かってこの寺の北側に天澤寺という寺があった。この寺は桶狭間で
敗死した今川義元の菩提を弔うため、今川氏真の命によって開いた寺だといわれている。
義元の亡骸は、家臣が戦場から持ち帰り、その墓の上に天澤寺の本堂を建て、義元の木像を本尊として祀った。
だが後に同寺は衰退し木像を臨済寺に移し寺は解体され、さらに明治になり墓も臨済寺に移して同寺は廃絶した。

 この話は江戸時代に書かれた「安倍紀行」には
「義元の遺骸を駿府に葬送し、天澤寺を建立する。しかるに天澤寺は御廟院なのに、近頃まで無住で伽藍も打壊れて、
今は跡形もない。ただ御廟塔に少しの覆堂があるだけだ。盛者必衰の世の中は、かくも浅ましきものなりと思うと、
盛るも衰るも、ただ夢幻の世の中なり」
と記されている。
 江戸時代には今川義元を祀った寺は既に寂れていた。今川氏により栄えた駿府の町は、徳川家康の登場により
さらに栄えていったが、住民は前人の事は忘れ去り見捨ててしまっている。
これが静岡県の県民性? そんな事はないと思うが淋しい気がする。何処からか鐘の音でも聞こえてこないかな。

 この今川義元の墓についてウィキペディアには「臨済寺には、今川氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川
当主の位牌が安置されている。」
と書かれている。
 だが、今寄ってきた、臨済寺の山門の前に建つ静岡市の案内板には
「境内墓地の最上段には、今川氏輝公と雪斎長老の墓がある。」と書いてあるだけで、義元の墓については触れて
いない。一体義元の遺体はどうなってしまったのだろう。まさに「盛者必衰の理をあらはす」か。

 
                  富春院本堂                        墨崎延命地蔵堂
      富春院の地図

              38番目(53番) 松源院

 松源寺の子安地蔵は、庫裏の裏側から入り。墓地の入り口の所にある地蔵堂に祀られているとあったが、
庫裏にはすでに明かりが点いている。そんな中庫裏の横を通るのは何となく憚れてしう。
ウーン どうしよう。やっぱり止めよう。

           
                               松源寺本堂
                  松源寺の地図

              39番目(54番) 安西寺

 安西寺の名前の安西を、前回話をした安倍川の西側だとすると、寺の場所は説明が付かなくなる。
安西寺の後ろは賎機山があり、安倍川がどう流れようが、寺の西に安倍川が流れる事はない。
ナーニ分かれば簡単な事で、かつての安西寺は現在の中町交差点の西側にあり、室町時代以前には、中町の
辺りを流れていた安倍川の西側にあったことから、「安西寺」と名付けられたらしい。
その安西寺が賎機山の麓に移転したのは、明治30年に賎機山の山崩れで、ここにあった安西寺の末寺が大破し、
間もなく安西寺も火災で焼失した。そこで安西寺と末寺を合併し、安西寺を現在地に再興した。

 
                 安西寺本堂                            安西寺地蔵堂
       安西寺の地図

 安西寺の地蔵尊は寺伝によれば、奈良時代に聖武天皇の病気平癒を祈願して、行基が駿河国足久保の楠で
七観音を作ったところ、天皇の病気が回復した。そのお礼として、行基が唐木で作ったのがこの地蔵という。
だが別の説では、この地蔵は平安時代に駿河守に任命された国守が、護持仏として運んできたものともいう。
 マーどちらにしても賎機山の麓に来た地蔵尊は、火災で焦げた傷を布に巻かれて厨子に納められ、日限地蔵と
して人々の信仰を集めるとともに、延命子安地蔵として安産祈願の対象にもなっている。

 お堂に入ると、お礼参りの人々が奉納した夥しい数の小さなお地蔵さんで、隙間なく並んでいた。
何かこの形式は水子供養のようだが、ここは日限地蔵尊。この小さな地蔵は水子ではなく、願いが叶った人が
奉納したお地蔵さんだが、暗くなった堂内は薄気味悪い感じがした。

 
                夥しい数の地蔵                            安西寺の看板

 4回目の地蔵巡りで浅間神社まで来たついでに、安西寺にも寄ってみた。寺の前の大きな看板には「水子供養」
文字も見える。やはり奉納されていた小さな地蔵は水子供養のためのものか?
地蔵堂の前にはテントが張られ、小さな地蔵も売られていた。今日は9月24日で、ここの地蔵尊の縁日は毎月24日と
なっていたので丁度縁日なのだろう。

 
               縁日の地蔵堂                             昼間の地蔵堂の中

              40番目(50番) 国分寺(国分寺跡)
 安西寺を出て麻機街道を右折するとすぐ浅間神社の石鳥居に出たが、すでに薄暗くなってきている。
仕方ない、今日は浅間神社をお参りするのは止めにして次回にしよう。

             
                                  浅間神社

 次の百地蔵は「御器屋(ごきや)町地蔵堂」の予定だが、この地蔵堂の場所がネット上では分からなかった。
御器屋町も今では、その地名は消滅してしまっていて地図にはない。
場所だけは浅間神社南側の麻機街道の終点辺りだと分かったが、それ以上の知識は無かった。
暗くなってしまった今、場所も分からないのに探すのは無理だと、諦めて次の国分寺に向かう事にした。

 国分寺は浅間神社の石鳥居を潜り、東西に走る長谷通りを少し東に行った静岡高校の近くにあるはずだ。
行き過ぎないように先ず最初の露地を入り静岡高校に向かう。残念!寺は無く高校まで来てしまった。
次の路地は覗き込んでみたが寺らしき建物は見えないのでパス。次に静岡高校の建物が終わりになった所の路地
を入る。しかし寺は無い。仕方なく歩いてきた人に聞くと「この道を入り最初の路地を左に曲がる」と言う。
その通り歩いたが国分寺は無く、また長谷通りに出てしまった。だがその角にあった石柱に「国分寺」の表示がある。
この辺りに国分寺はあるのは間違いないのだが----- 探すより聞く方が早いと、今度は女子高生に聞いてみた。
「分かりにくいから案内します」と親切にも寺の前まで連れてってくれた。そこはさっき覗き込み、寺らしき建物は無い
と省略した露地だった。そしてその国分寺は寺というより庵で、三方を民家に囲まれて建っていた。

 国分寺の名はかっては「竜池山 泉動院 国分寺」と云い、名前だけ見ると素人の私では、泉が湧き出る池に龍が
棲んでいて、その龍が動くとさざ波がたつ大池があった。となるが、実際は泉動院とは「千燈院」「仙幢院」と記され
それは国分寺の別名だともいわれている。

 駿河の国分寺は、この長谷通りにある国分寺と、駿河区大谷で発掘された片山廃寺跡がそうだという説がある。
ただこの狭い国分寺の境内の隅には、安永6年(1777)に寄進された石塔に「日本六拾六國於國分寺立之」とあり、
江戸時代には当寺が「国分寺」であるとしている。

 現在の国分寺の山号は「龍頭山」になっているが、この名前には言い伝えがあり
「永禄11年(1568)駿府に侵攻した武田信玄が国分寺を焼き払い。その際に、鉄製の丈六の本尊は鋳潰され、
残った頭部は池に捨てられたという。 慶長15(1610)徳川家康が国分寺を再興し、本尊には池から掘り出された
丈六仏の頭部と薬師如来が祀られた。ここ山号は寺の後ろに大池があったことに因み「龍池山」とされていた」
 
ではこの頭部だけの本尊が、今の国分寺の本尊かというと、それは違って、今は別の「経読地蔵」が本尊だという。

 
                   国分寺                             国分寺石塔

 国分寺の本尊の経読地蔵にも嘘か本当か、こんな言い伝えがあった
「徳川家康が手洗いに利用していた鉢の辺りから、夜な夜な経を読む声が聞こえ、不審に思って掘り返したところ、
台座の裏に水鉢が彫られている地蔵尊像が現れた。そこで浅間神社にお堂を建てて安置した。
明治になって現在地に移されたが、その後も「経読地蔵」が経を読む声を聞いた人がいるという」


 
                  経読地蔵                             駿府城巽櫓

 着物を羽織った経読地蔵の台座は見る事が出来なかった。

駿府公園の中を通り駅に向かった。久し振りの夜の駿府公園だったが、昔と違ってアベックの姿は見えなかった。