はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵4回目-4

2013-11-09 20:41:32 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              50番目(34番) 金剛寺
 法伝寺を打って日本平の北西側から静岡の町の中に戻る。次の金剛寺は静岡駅の南にある八幡山の近くに
あり、途中には済生会病院、NTT、ツインメッセ、郵便局など高い建物があるので目標には困らない。
案の定、今回は迷う事なく金剛寺に到着できた。
金剛寺の山門は、自然の地形を利用したチョットした城壁のような感じがしたが、階段を登り境内に入ると
予想に反して本堂は新しい近代的建物だった。

 
                   金剛寺山門                               金剛寺本堂
     金剛寺の地図

 境内には見る物が多くあり、豊川稲荷を祀ってあると思われる鳥居や社、その前には「天保四年」と刻まれた
手水鉢もある。
境内左手には六地蔵、地蔵堂、子安地蔵が並んでいて、六地蔵は中央には元禄十二年の年号の入った地蔵尊が
立っている。この地蔵は古く砂岩のような材質だが痛みは無く、彫りもハッキリしている。きっと雨風の掛からない
所で大事にお詣りされてきたのだろう。この地蔵がが百地蔵なのだろうかわからないが、先程の法伝寺の地蔵の
説明を適用するなら、このお地蔵さんは宝珠に錫杖を持っているので人間を地獄から救ってくれる地蔵尊だ。
考えてみればお地蔵さんは、この形の物が多いので、人間の最大の望みは、地獄から逃れる事なのだろう。
 横に並んだ六地蔵は、わらべ地蔵のような小僧の形の地蔵尊だった。だが顔はひねた大人の顔で可愛げはない。
そう云えば、この小僧の地獄界の地蔵尊が持つ錫杖は、本物の金物の錫杖だった。これもあまり見た事がない。

 地蔵堂の中を見ると、これまたチョット変わった3頭身の錫杖を持つ地蔵尊で安置されている、古そうな感じ
だが年号は見えない。ガラス戸の付いた地蔵堂の中に祀られているから、こちらが百地蔵なのか?
地蔵尊の後ろに、台座のような石に、地蔵像が浮き彫りされているのが少し見えている。手前の地蔵像が邪魔で
三体しか見えないが六地蔵を彫ってあるようだ。何の台座なのだろう。

    
                六地蔵                           3頭身の地蔵像

              51番目(33番) 神龍院
 金剛寺前の通りは久能街道で、駿府と家康の廟所のあった久能山を結んでいる。次の神龍院はこの街道を
200mも北に行った八幡山の麓にある。
山門の「駿河一国百地蔵第丗三番」の標札を見ながら、年配の女性が「これは何番かね?」「23番だよー」等と
話をしていた。私が「33番ですよ」と言うと「でも、はたち(廿十)と同じ字じゃーないの」と言う。
「はたちの時は上からの線は2本だけど、これは3本あるから三ですよ」「へー初めて知ったよ」「今まで気に
なっていたけど、これでスッキリした」
と感謝された。

 観音堂は本堂左にあり、堂内には左手で子供を抱き、右手で錫杖を持った、彩色された子安地蔵尊と、石の
六地蔵が祀られていた。その六地蔵の中で唯一前垂れの無い地蔵は、両手で宝珠を抱えている。
気になって法伝寺の地蔵の写真で確認したが、この手の形の像は無い。と言うことは地蔵像の持ち物や手の形は
厳格に決まっているのではなく、神社の鳥居と同じように、ある程度自由にデザインできるのだろう。
私の書いた法伝寺での地蔵の持ち物の記述は、参考にしておいてください。
 特に目に付く物は無かった寺だったが、寺伝によると神龍院の開基は、徳川と武田の激戦の地となった遠州の
高天神城を築城した今川了俊と伝えられている。また神龍院の寺号は、徳川家康の葬儀一切を取り仕切った
僧の神竜院梵舜が、同寺に滞在したことで改めている。と中々由緒がある。
 更に地蔵尊についてもこんな記述があった。
子安地蔵尊は、もとは八幡神社の門前にあったが、明治時代の廃仏毀釈により、地蔵は神竜院に移された。この
地蔵は石造りだったが首が取れるなどして大きく破損したため、昭和33年に新たに木製の立像が造られ、古い像は
地蔵堂の下に埋められた。また、六地蔵も、かつては八幡神社の門前に並んでいたものを神龍院に移している。

 
                  神龍院本堂                           子安地蔵と六地蔵
      神龍院の地図

 旧静岡市内の平野部には賎機山、谷津山とこの八幡山の三つの山がある。どの山も市街地から容易に登る事が
出来き、早朝ウォークなどで親しまれているようだ。
私は賎機山と谷津山は何度か歩いているが、この八幡山は歩いた事がない。理由は低くて狭く他の山との関連が
ない事によるが、今日はせっかく麓まで来たのだから歩く事にした。
この次の寺に行くのに都合の良い道は、八幡山の南端から登り北端に下る道だが、地図にはそんな道は無い。
でも大丈夫。市民の運動に利用されているような所なら、きっと縦断できる道はあるだろう。

 八幡山の登り口に「八幡山城跡入口」の案内が立っていた。八幡山城跡とは聞いた事はなかったが、地形的に
城があっても当然と思える場所だ。山頂にどんな説明があるか楽しみだ。
登り道の脇には、今を盛りとばかり彼岸花が咲いている。歩いたのは彼岸の中日の9月23日。そして今日は11月
9日。寺や石仏なら時季は分からないが、花などの自然を話題にすると時季が狂ってしまう。早く書かなければ。

 山頂の展望台までは神龍院から数分で着いてしまった。木陰で涼しい風が吹き抜けていて、気温も寺では37℃
あったのが、ここでは31℃に下がっている。時間は少し早いが昼飯にしてしまった。
眺めは北から東側の眺めは良く、条件さえよければ富士山も眺める事が出来るだろう。南の海の方角は樹木で
見えない。せめて視線の位置ぐらいは、木の枝を切ってくれても良いと思うが、中々そうもいかないようだ。

 
               遊歩道の彼岸花                         八幡山展望台

 平坦な尾根を北に行くと期待していた八幡山城跡の案内板があった。
「応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、駿府防衛のために、周辺の要所要所に城塞を築いた。
八幡山城もその一つである。文明8年(1476)今川義忠が遠州において横地残党に討たれると、今川氏の跡目を
狙う小鹿派と竜王丸派の紛争が勃発した。この時、 鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。
この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
 新九郎は八幡山城が重要地点であった事から城を修築して、自ら駿府の警護に当たっていた。
長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城へ移った。
その後武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、城塞として使用した。
武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、家康が関東へ移った後、廃城になったと思われる。」

 これで理解できれば貴方は今川の歴史通だ。
「今川義忠が遠州塩買坂で討たれると、義忠の嫡男竜王丸(氏親)と従兄弟の小鹿範満との間で相続争いが起き
鎌倉の太田道灌は小鹿の味方として八幡城に布陣した。一方義忠の妻の兄の伊勢新九郎(後の北条早雲)は
竜王丸を後押し、幼かった竜王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行させることで決着をつけた。
だが龍王丸が成人しても小鹿は家督を譲らなかったため、龍王丸派と小鹿派と間で跡目争いが勃発した。
この時も早雲が竜王丸を支援し、小鹿範満を今川館で討ち取った。」

この位の説明がなければ理解はできないし、歴史の興味が湧いてこない。
尤も私が遠州塩買坂も義忠の墓や花倉城跡も見ているので、知ったか振りをしたいだけかもしれないが。

八幡山の北の麓に八幡神社があった。この神社は以前は大相撲の高見山の部屋が合宿したとTVのニュースで
報じられた事もあったが、その証拠のように境内に土俵があった。

 
                 八幡山城跡                            八幡神社