はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河一国33ヶ所巡り2-2

2010-01-21 14:55:44 | 寺社遍路
          
                 清林寺の無縁塚

4番清竹寺を打ち終り、次の5番洞雲寺に向かう途中、JR東海道線の高架の上から西の方角の山の頂にタンクが見えた。あれは初日に歩いた清水寺の上にあったタンクだろう。山の上の目印を覚えると場所を判断するのに助かる。これから行く洞雲寺はあの山の東の果てにあるのだからと、これから行く道のおよその見当がつく。
東の方角には高草山がデンと居座り視界を遮っている。次回のコースは、あの高草山の北の端から南の端まで歩き、更に隣の花沢山と鞍部にある日本坂峠を越して静岡市向かう予定だ。

 洞雲寺の手前に飽波(あくなみ)神社があった。この神社は地元では飽波さんと呼ばれ親しまれているのでチョットお参りをして行こう。
社伝を読むと昔この辺りは瀬戸川の伏流水が湧いていて、その「沸波(水が沸く)」が転じて飽波郷(旧藤枝)と呼ばれていたらしい。飽波神社はその当時から建っていて志太平野で最も古い神社ということだ。
お参りの記念にご朱印も貰い洞雲寺に。

 神社を出て山の方を見ると交差点越しに大きな寺の屋根や、山裾にはお墓が見えてきた。それが洞雲寺だった。生憎お寺は工事中で本堂の中は床も無く仏壇も片付けれていた。それでも般若心経と観音経を唱えてお参りをする。
近くには工事の人も作業をしているのに声を出して唱える事ができた。四国の遍路を始めた頃は、辺りに人がいなくても声を出す事ができなかったのに随分変化したものだ。ただ毎日一人で唱えているので、お経の節と言うか強弱と言うか音程が自己流になってきている。時々でる法事や葬式で聞くプロの般若心経とはかけ離れた般若心経になってしまっている。
九州の隠れキリシタンが外界と接しないで祭事を行っていたので本来のキリストとは違った様式になったというが、それと同じだろう。
だがプロのお経も宗派によって大分違っている。同じ般若心経でも超快速や快速、それに普通の速さと色々あった。ようは形式でなく唱えることが大事と思っていれば左程恥ずかしくは無い。
観音経は今回の遍路が駿河一国観音巡りだったので唱えだしたのだが、これこそ自己流で四国で購入した経本に「延命十句観音経」とあったのを棒読みしているに過ぎない。それこそこれを聞く観音さんは驚いている事だろう。

 洞雲寺から出て山裾沿いに歩くと直ぐ蓮華寺池公園に出た。ここは初日清水寺から山越えをしたとき、標識に「清水山~蓮華寺池公園ハイキングコースと」書かれていた公園だ。
この公園、桜や藤の時季になると市民が大勢花見に来る人気スポットでもあります。
今日は寒い風の吹く中、一人湖畔のベンチで握り飯を頬張っている年寄りの姿は、他人にはどう写っていたのだろう-------

          
               蓮華寺池公園

 6番万願寺は1号線脇にある無住のお寺だが、小さい割にはしっかりした建物で雰囲気を感じた。ただ無住の為か国道脇のせいか誇りっぽく感じられたのは残念だった。
ご朱印は無住のため、今来た蓮華寺池の方に200m程戻った所のお店で貰う事が出来た。アー良かった。
これで今日の予定は終わったが、まだ時間は1時10分。歩行距離も23.7kで30k行っていない。もう一つ打っても良いと計画表を見ると次の9番観音寺は3k先、距離的には丁度良いが帰りのコースも、またここに戻って西焼津の駅に行かなければならない。更に次回9番の次に行くにも同じ道を歩く事になりそうだ。迷ったが結局中止。今日は6番万願寺で打ち止めにする。

          
               無住の6番万願寺

 万願寺の隣に田中神社があった。この神社は近くにある田中城の築城のおり武田信玄が建立したと言われている。もっとも田中城と言っても知らない人が多いだろうが、徳川家康がタイの天ぷらを食べて死んだ城と言えば思い出す人もいるだろう。その田中城を見ながら西焼津駅に向かおう。
住宅地の一角に三日月堀跡とか○○門跡とか標識は建っているが面影は何も無い。それでも小学校の隣にあった二の堀は堀らしく水は溜まっていたが、ただそれだけ。
門外漢の私には興味のわくものはなかった。ただ小学校の校庭の中に田中城の模型らしき物があったが、校門には「関係者以外の立ち入りは禁止します」の立札が立っている。嫌な世の中になったものだ。

 西焼津の駅に2時前に到着。歩行距離も30k行っていない。よしこれなら家まで歩いて帰ろう。
3時30分家に到着。歩行距離34.5k。やはり疲れた