吐月峰紫屋寺の裏手に13番観昌院の観音堂がある。さらに道を登ると、とろろ汁で有名な待月楼の前に観昌院はあった。
待月楼には昔きた事があるが、その前にお寺があったことなど覚えていない。当時はそんな事に興味を覚えなかったのだろう。いや今だってそうだ。こうして歩いていても札所のお寺にはお参りするが、それ以外のお寺は無視の状態だ。スタンプラリーのポイント箇所しか寄らないのと同じで、昔と何も変わりはなく進歩をしていない証拠だろう。
観昌院
観昌院の裏山は茶碗にご飯をよそったような山だったので、それを写真に撮っていて、アレー手袋が無い。慌てて付近を捜すが見当たらない。いつ落としたのだろう?紫屋寺? 丁子屋? それとも梅園? 分からない。歩いているとき手袋をしていたかどうかも分からない。それでは探しようも無い。諦めるしかないのか!
まさしく今日は三隣亡だ。この後なにが起きるのか心配になってきた。
(手袋をなくした事は妻には内緒にしよう。なにせ買ったばかりなのだから)
観昌院の次のお寺はこの裏山の向こうになる。直線にすれば僅か2k程度だが、安倍川に戻って再度登りなおすと7kはありそうだ。地図を見ると観昌院の横から農道が尾根の下まで延びている。山の向こうも農道は尾根までは延びていない。
ただ気になったのは尾根に「観昌院坂」と書いてあることだ。若しかしてこの坂は昔の遍路道の名残ではないのだろうか。どうしても期待を抱いてしまう。
ご朱印を受けるとき聞いてみた。
「耕雲寺に行きたいのですが山越えは出来ますか?」
「はい出来ますよ。最近は誰か知らないけど道を整備してくれるので歩きやすいですよ」
といとも簡単に答えてくれた。心配する事は無かったのだ。
「最初は農道を行きますか、それとも山道を行きますか?」と聞いてきた。勿論山道を希望すると
「山道はお墓の中の道を行って山道に入ってください。農道に出たら立札が立ってます」と教えてくれた。これで4kは短くなるだろう。
お墓を越えて入った山道は特に整備してあるとは思えないが道は分かるし、立派な標識も立っていた。思ったより簡単に農道に出ると、その正面には登った跡もあるし道も続いているようだ。農道脇の放置されたミカンがあったので早速失敬し頂く事に。形はは小さく器量が悪いが食べてみると中々美味しかった。
それではと農道を乗り越え山道に入ると、道の脇にはモノレールの線路が走っている。その横を10mも行かないうちに前方は草や小さな木が道に覆いかぶさっていて、とても前にはいけそうも無い。
ウヘー!今度は四隣亡かとガックリしてしまった。
しかし待てよ。確かお寺では「道は整備されていて立札もある」と言っていた。それではこの道ではないのではないか。慌てて農道まで引き返した。農道の前方を見ると、直ぐそこで農道は終わっている。ではと振り返ると、あるある立札が。
ミカンに気を取られて、辺りをしっかり見回さなっかたのだろう、一目で立札が分かった。
観昌院坂(峠)
確かに道は整備され、うるさいくらい(ご免なさい)立札もある。お寺で「誰か分からない」と言っていたが、偽木など無く確かに自治体が整備したようには見えない。
峠は十字路になっていて東はさっきお参りした徳願寺。西は駿河一国の3回目に行った谷川山梅林寺の方向に向かうようだ。北はこれから行く耕雲寺のある牧ヶ谷を示している。
峠を下りだすと急な下り坂になったが、いたる所にロープが設置してあり子供でも不安はなさそうだ。
ただ気になるのは、この道を整備した人は、このルートを「木枯し街道」と呼んでいることだ。確かにこの先にある藁科川の中洲には、万葉時代から名所とされている木枯しの森がある。だからと言って昔の人がこの道を木枯し街道と呼んだのだろうか?
そんな事は無いはずだ。この道は「観昌院坂」と言われていたように、主に駿河一国の遍路の歩いた道だったと思う。
山道が農道に変わる所に立札が立っていて、こんな事が書いてあった。
「新風土気記や古事記に見られる「倭建命(日本武尊)の東征」で歌われ------全ての旅人はこの道を歩き木枯しの森の河原を渡った事は本当である」と。
木枯しの森のことは次回紹介するが、日本武尊や全ての旅人がこの道を歩いたとはとても承服できない。
なぜなら前回歩いた最古の東海道と言われる日本坂峠を越し井尻峠を越して出てきた場所はからは、平坦な道を2kも歩けば安倍川でその先には府中の町がある。
それなのに、この道を通る為には山の中に3k以上さかのぼり、それから峠を越え、更に何kも歩かなければ府中には着かない。確かに一部風流な者が木枯しの森に行きたくて歩く事はあっただろうが、目的のある一般の旅人が歩いたとはとても思えない。
矢張りこの道は駿河一国の遍路道で一部の数寄者が歩いた道と考えたるほうが自然だと思うが。
なんかムキになってしまったが、この立札だけでなく駿河一国巡りを紹介した本にも「東海道の間道」と紹介してあった。だが実際にこうして歩いてみると更に疑問は膨れ上がってしまった。
耕雲寺が左手の山裾に見えてきた。寺の前は開けていて木が無く明い感じのお寺だ。
耕雲寺
待月楼には昔きた事があるが、その前にお寺があったことなど覚えていない。当時はそんな事に興味を覚えなかったのだろう。いや今だってそうだ。こうして歩いていても札所のお寺にはお参りするが、それ以外のお寺は無視の状態だ。スタンプラリーのポイント箇所しか寄らないのと同じで、昔と何も変わりはなく進歩をしていない証拠だろう。
観昌院
観昌院の裏山は茶碗にご飯をよそったような山だったので、それを写真に撮っていて、アレー手袋が無い。慌てて付近を捜すが見当たらない。いつ落としたのだろう?紫屋寺? 丁子屋? それとも梅園? 分からない。歩いているとき手袋をしていたかどうかも分からない。それでは探しようも無い。諦めるしかないのか!
まさしく今日は三隣亡だ。この後なにが起きるのか心配になってきた。
(手袋をなくした事は妻には内緒にしよう。なにせ買ったばかりなのだから)
観昌院の次のお寺はこの裏山の向こうになる。直線にすれば僅か2k程度だが、安倍川に戻って再度登りなおすと7kはありそうだ。地図を見ると観昌院の横から農道が尾根の下まで延びている。山の向こうも農道は尾根までは延びていない。
ただ気になったのは尾根に「観昌院坂」と書いてあることだ。若しかしてこの坂は昔の遍路道の名残ではないのだろうか。どうしても期待を抱いてしまう。
ご朱印を受けるとき聞いてみた。
「耕雲寺に行きたいのですが山越えは出来ますか?」
「はい出来ますよ。最近は誰か知らないけど道を整備してくれるので歩きやすいですよ」
といとも簡単に答えてくれた。心配する事は無かったのだ。
「最初は農道を行きますか、それとも山道を行きますか?」と聞いてきた。勿論山道を希望すると
「山道はお墓の中の道を行って山道に入ってください。農道に出たら立札が立ってます」と教えてくれた。これで4kは短くなるだろう。
お墓を越えて入った山道は特に整備してあるとは思えないが道は分かるし、立派な標識も立っていた。思ったより簡単に農道に出ると、その正面には登った跡もあるし道も続いているようだ。農道脇の放置されたミカンがあったので早速失敬し頂く事に。形はは小さく器量が悪いが食べてみると中々美味しかった。
それではと農道を乗り越え山道に入ると、道の脇にはモノレールの線路が走っている。その横を10mも行かないうちに前方は草や小さな木が道に覆いかぶさっていて、とても前にはいけそうも無い。
ウヘー!今度は四隣亡かとガックリしてしまった。
しかし待てよ。確かお寺では「道は整備されていて立札もある」と言っていた。それではこの道ではないのではないか。慌てて農道まで引き返した。農道の前方を見ると、直ぐそこで農道は終わっている。ではと振り返ると、あるある立札が。
ミカンに気を取られて、辺りをしっかり見回さなっかたのだろう、一目で立札が分かった。
観昌院坂(峠)
確かに道は整備され、うるさいくらい(ご免なさい)立札もある。お寺で「誰か分からない」と言っていたが、偽木など無く確かに自治体が整備したようには見えない。
峠は十字路になっていて東はさっきお参りした徳願寺。西は駿河一国の3回目に行った谷川山梅林寺の方向に向かうようだ。北はこれから行く耕雲寺のある牧ヶ谷を示している。
峠を下りだすと急な下り坂になったが、いたる所にロープが設置してあり子供でも不安はなさそうだ。
ただ気になるのは、この道を整備した人は、このルートを「木枯し街道」と呼んでいることだ。確かにこの先にある藁科川の中洲には、万葉時代から名所とされている木枯しの森がある。だからと言って昔の人がこの道を木枯し街道と呼んだのだろうか?
そんな事は無いはずだ。この道は「観昌院坂」と言われていたように、主に駿河一国の遍路の歩いた道だったと思う。
山道が農道に変わる所に立札が立っていて、こんな事が書いてあった。
「新風土気記や古事記に見られる「倭建命(日本武尊)の東征」で歌われ------全ての旅人はこの道を歩き木枯しの森の河原を渡った事は本当である」と。
木枯しの森のことは次回紹介するが、日本武尊や全ての旅人がこの道を歩いたとはとても承服できない。
なぜなら前回歩いた最古の東海道と言われる日本坂峠を越し井尻峠を越して出てきた場所はからは、平坦な道を2kも歩けば安倍川でその先には府中の町がある。
それなのに、この道を通る為には山の中に3k以上さかのぼり、それから峠を越え、更に何kも歩かなければ府中には着かない。確かに一部風流な者が木枯しの森に行きたくて歩く事はあっただろうが、目的のある一般の旅人が歩いたとはとても思えない。
矢張りこの道は駿河一国の遍路道で一部の数寄者が歩いた道と考えたるほうが自然だと思うが。
なんかムキになってしまったが、この立札だけでなく駿河一国巡りを紹介した本にも「東海道の間道」と紹介してあった。だが実際にこうして歩いてみると更に疑問は膨れ上がってしまった。
耕雲寺が左手の山裾に見えてきた。寺の前は開けていて木が無く明い感じのお寺だ。
耕雲寺