はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

花倉城趾:ハイキングコース調査1

2017-07-19 09:59:36 | 低山歩き
歩行記録                                                           H28-7-15(金)
歩行時間:7時間25分   休憩時間:1時間20分   延時間:6時間25分
出発時刻:7時55分     到着時刻:14時20分
歩  数: 28、002歩(推定距離19.88km)    GPS距離19.0km
行程表
 蓮華寺池入口BS 0:35> 葉梨小学校 0:35> 上川池 0:20> 城址入口分岐 0:10> 花倉城趾入口 0:20>
 城址散策・展望地 0:10> 花倉城趾入口 0:40> 山寺BS 0:10> 終の棲家 0:45> 長慶寺 0:50> 蓮華寺池入口BS  

                           花倉城跡ハイキングコース概略図
       

  暑くて気は進まないが家の周りを歩くだけでは欲求不満になってしまう。とは言え遠出は億劫だし長距離も街歩きも暑すぎる。
ならば街歩きと低山歩きを兼ねた藤枝市のハイキングコースの調査が良いかもしれなと、思いついたのは花倉城跡でした。
花倉城跡には過去何回も行っているし、今年春にも烏帽子形山から歩いている。ただ藤枝市のハイキングコースに指定された
中田バス停から上川池ルートは面白味を感じず歩いていなない。
ハイキングコースの案内は藤枝市に指定されたルートを忠実に歩いて紹介しているので、一度は歩こうと思っていた。
今が別にいい機会と言うわけではないが、他に思いつかないのでしょうがなく歩いてきました。

 
                 蓮正寺                                    スターバックス

  ハイキングコースの出発点は葉梨小学校前の中田バス停からになっているが、葉梨線はバスを途中で乗り換える必要がある。
それも面倒だし料金も割高になるので、それなら蓮華寺池公園までバスで行き、そこから先を歩く事にした。

  バス停の前にある寺は 「熊谷山 蓮正寺」 です。クマガヤと聞いて思い出すのは、今年の春に烏帽子形山-花倉城址-天王山と
歩いて天王山の 「クマガイソウ」 を見た事です。(その時の記事はこちらです
そのクマガイソウと寺の山号の熊谷が、たまたま同じと思うかもしれませんが、イエイエそうではありません。
クマガイソウの花の名前の謂れになった 「熊谷直実」 はこの蓮正寺と深い関係があったのです。
以前紹介したものを要約しました。
 「一ノ谷合戟で平家の貴公士敦盛を討った熊谷直実は後年出家をして蓮生と名乗った。
直実が、母の見舞いのため故郷の熊谷庄に帰る途中、遠州小夜の中山で賊に襲われて、路銀を奪われてしまった。
蓮正は藤枝の宿まで来たものの、ここで路銀が尽きてしまい、藤枝宿の長者に借金の申し込みをした。
長者に 「質草が無ければ貸すことはできない」 と断わられると、蓮生は 「然らば大切な十念を質にいたそう。」 と言い、
長者に向かい 「南無阿弥陀仏」 と唱えた。
すると不思議な事に直実の口の中から金色の阿弥陀仏が現れ、一緒に唱えていた長者の口中に入っていった。
10度唱え10体の阿弥陀仏が長者の身体の中に収まると、感激した長者は直ちに路銀を蓮生に差し出した。

 蓮生の介護も空しく、母の死を弔い、翌年京に帰る途中、福井長者の屋敷を訪れ、借りた銭を返し
 「質に入れた念仏を戻して下さい。」 と申し入れた。困った長者がどうしたらよいか蓮生に尋ねると
 「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば必ず戻ります。」 と答えた。
そこで長者は手を合わせ、心の底から念仏を唱えると、口の中から阿弥陀仏があらわれ、蓮生房の口中に戻った。
9回くり返し九体の阿弥陀仏が戻されるのを見ていた長者の妻は、最後の一体となった時、
「できることなら、あと一遍の唱名と一体の阿弥陀様を私達にお預け下さい。」 と懇願した。
蓮生は長者夫妻の真剣さに打たれ、快く承知して旅立って行った。そして長者は蓮生の弟子となり仏門に入った。
藤枝の岡出山の麓にあった福井長者の屋敷を念仏道場の蓮生寺としたのが、蓮生寺開創の由来である」


  源氏の武将・熊谷直実は出家して “蓮正” と名乗っている。その名前をそのまま寺の山号と寺号にした 「熊谷山・蓮正寺」 では
季節になるとクマガイソウと共にアツモリソウを展示していて、参拝者の屋の目を楽しませてくれています。 なんて事になれば、
山でクマイガイソウを見落としたハイカーが参拝するのではないかな。そしてお賽銭が・・・・・ とすぐ妄想の世界に入ってしまう。

  蓮華寺池の駐車場中にスターバックスが新しく(?)できたが、まだ時間が早いため人影はない。
コーヒーの香りは好きだが味は良く分からず、豆を挽いたものも、インスタントも違いが分からない状態です。
妻に言わせれば 「勿体ない」 そうだが、自分だけ贅沢は出来ないのか今はインスタントばかりです。

 
                 蓮華寺池公園                                蓮華寺池の蓮

  気持ち良さそうな青空だが内心は恨めしく曇ってくれることを願っていた。どうせ今日のコースは景色は期待できないので、炎天下の
路上温度が40度越えより、雲に太陽が遮られて35度以下の方が全然歩きやすい。
しかも今日のコースで山道は花倉城跡の中だけで、他は全て舗装道路なので照り返しも厳しくなる。思っただけでも熱くなってきた。

  蓮華寺池をよく見ると池の半分近くが蓮の葉に覆われている。蓮は山道の雑草と同じで、秋から春にかけては枯れたような状態に
なっているが、春になると目を覚まし暑さと共にその勢いを増すのだろう。尤も今日の工程では雑草に悩む場所は無いが。
 
 
               櫻宮神社の鳥居                                櫻宮神社の蓮

  鳥居から入る参道の左右に池のある桜宮神社です。この何でもなさそうな鳥居に謂れがあって案内されていた。
 「二つ池の桜並木の入り口にある石造の鳥居は、元々、田沼意次(老中)が、明和四年(1767)に初代相良藩主となり
築城した相良城内にあった荒神社(地の神)の鳥居でした。
意次が、次の老中松平定信により失脚させられた際、相良城は徹底的に破壊され、神社の鳥居までもが競売にかけられ、
櫻宮神社に移されました。」

 意次の居城だった相良城の物を競売で買った中では、藤枝市藤枝の大慶寺の客殿が有名だ。この客殿は元は相良城の
御殿で、当時の金で700両で買い落とし大慶寺に移築したそうです。
こんな調子だから田沼家は落ちぶれて絶えてしまったと思っている人が多いでしょうが、あにはからんやです。

  天明7年(1787)意次から家督を継いだ田沼意明(おきあき)は、陸奥下村藩1万石に転出。相良城は廃城とされ、翌年には
徹底的に破壊された。
それから36年後の文政6年(1823年)に、6代目田沼家の当主田沼意正(おきまさ)は、遠州相良への復帰を許されたのです。
以後明治に至るまで田沼家は相良城主として相良藩を治めていました。

 
              櫻宮神社の二つ池?                            櫻宮神社の二つ池?

  案内板に “二つ池” とあるが、これが二つある池の総称なのか、それとも一つ池と二つ池と別々の名前かなのかは分かりません。
なので左右で紹介します。先ず神社に向かって左の池には蓮でビッシリ埋まっていた。所々には蓮の花や蕾も見えている。
蓮の花が早朝に開く時は 「ポン」 と音をたてて咲くと聞いた事がある。その人曰く、
 「彼岸の頃に蓮華寺池に蓮の花を取りに(盗みに?)行くと、この花が開く音をよく聞いた。」 と言っていた。
それがですよ。今日(17日)の新聞にこんな事が書いてありました。
 「いつからかハスは神秘的な音を立てて咲くものだと思い込んでいた。石川啄木の 「しづけき朝に音立てて 白き蓮(はちす)の
花さきぬ」 という断定調の詩がある。 (中略) 埼玉県行田市の 「古代蓮の里」 には
 「本当に音がしますか、何時ごろ鳴りますかという問い合わせをいただく。でも私ら職員は一度も聞いたことがありません。」と話す。
実際に聞くのは 「花が散って葉に落ちた時のドサッという音」 (後略)」
 
  私が音がすると聞いた人は既に話をすることはできません。でも嘘を言うような人では無いのですがねぇ。
蓮の品種の違い? なのでしょうか。誰かハスの花の開く音を聞いた人がおりましたら教えてください。

  一方右側の池には蓮は無く茶色く濁った水が溢れている。この違いは何だ? 
ウーン左の池は蓮を栽培して花を楽しみ蓮根を採集する。一方右の池は溜池本来の目的のための農業用水の提供用か?

          
                        中田バス停                             中田バス停の時刻表

  観歩を目指しているとはいえ、スタート地点に着くまでにダラダラ文章が続いてしまい申し訳ありませんでした。
ここ中田が藤枝市の指定する花倉城跡ハイキングコースの出発点で、ここを出発点にしたのはバス停があるからでしょう。
しかし “駅から遍路”や “駅からハイク” “駅から低山” を目指していた私は、ここからは歩いた事がありませんでした。
そこで今回ハイキングコースを紹介するために一度は歩かなければと思い立ったのです。
なら藤枝駅からここまで歩いてくればいいのではないかと思いますよね。そうです本来は私もそうしたいのですが、昨年あたりから
急に脚力が弱まり、かって歩けたところが歩けなくなったり、無理して歩くと熱中症や転倒したりと散々な目にあってしまいます。
そこで最近は “駅からハイク” ではなく “バス停からハイク” と語呂まで悪くなった目標に切り替えました。


  それならここまでバスで来ればとなるのですが、最初に説明したようにここにくるにはバスの乗り換えがあり結構不便です。
そんな事ならたったの3k程度。歩いた方が速いと判断しました。
で、時刻表を見てみましょう。今日は土曜日なので右側の赤枠の中なのですが、そこに書いてあるのは 「運行しません」 だって。
エ~! チョッと待った。スタートはここまで歩いて来たから問題ないが、帰りのゴール場所は、この葉梨線の奥にある “山寺入口” だ。
なら帰りにはバスに乗るわけにはいかない。ウーン! 帰り道はどうしよう。歩きながら考えよう。

 
                 橋が無かった                              城壁のようは新東名

  葉梨小学校を過ぎた所から花倉の里方面に向かおうと信号を左折すると道一杯に通行止の看板があった。
 「新しい中田橋をつくっています。」 とあるが、歩行者なら歩く場所はあるだろうと川を覗き込んでみた。
残念!借りの橋どころか川には何もなく水が流れているだけだった。これだけスッキリしていれば諦めるのも早く、川沿いに続く
細い道を次の橋を目指した。

  正面に盛り土された新東名が城の土塁のように見えている。当然あの上を越すのではなく何処かのガードを潜るのだろうが。

 
                 長慶寺入口                                    上川池

  新東名の取付道路を左に行きハイキングコースに出合うと今日最初の標識があった。
そこから “今川家菩提寺 長慶寺” に行くには丁度良いが、ここから中田橋の間の道も調べなければならない。
それなら再度くるより、今日の帰りにここに戻って調査すれば良い。長慶寺もその時見れば良いだろう。
そこから先は・・・・・・ その時の調子で考えよう。

  新東名辺りのは “下之郷” らしいが、途中にあった町内会館は “上川町町内会館” とあった。これから行く池の名前は
 “上川池” なので、この辺りは藤枝市下之郷字上川なのだろうか。それにしては地名になるほどの川は流れていない。

  民家も終り道は完全に農道状態になったが、この方が所々に木陰があり有難い。何しろ暑いので早く池の畔で涼風を浴びて
一休みしたい。しかし着いた池は茶色く濁ったどぶ池で涼風など無縁だった。。
その池のアチコチから “ヴァオォー ヴァオォー” と食用蛙(牛蛙)の声が聞こえてくる。水路の近くから聞こえるの鳴き声は
エコーがかかっていて中々迫力がある鳴き声だった。休憩もそこそこにして、池から分岐する上りの農道を歩く事にした。

          
           ヤブミョウガ(藪茗荷)                             分 岐

  日当たりの良い農道脇にヤブミョウガ(藪茗荷)が咲いていた。この花は大崩山塊の林の中では見飽きるほどある花だが、
こんな日向にあるのは珍しいように思える。このヤブミョウガと似た葉のハナミョウガ(花茗荷)も、大崩山塊ではよく見かけるが、
花倉城跡では目に入らなかった。
ヤブミョウガとハナミョウガは似たような名前で、葉も似ていることから最初は混同してしまったが、最近は判別できるようになった。
ただ一見大株で葉が群生しているハナミョウガが藪のように見えるので、余計に勘違いしやすい。
このハナミョウガの名の由来は、葉が茗荷に似て目立つ花を咲かせる事からで、一方ヤブミョウガは藪に生え、葉が茗荷に
似ていることから付いたそうです。(矢張り似ている)
更にヤブミョウガは茗荷の名は付いてもショウガ科ではなくツユクサ科だそうです。(露草には似ていないが)
序にハナミョウガはショウガ科で、根がショウガに似ているそうです。また、その実は漢方薬では伊豆縮砂(いずしゅくしゃ)といい、
芳香性健胃薬として用いられるそうです。
そうなるとこちらを “ヤブ” とは云いずらいかな。いや薬としての効能を聞いたことも無いので矢張りこちらが “ヤブ(医者)” か。
たもや頭が混乱してきてしまった。

  今年の春、藤枝観音に行くのを間違えてこの分岐まで下ってきたしまった。あの時はすぐ引き返したが今日だったらどうだろう。
多分諦めてそのまま下ってしまっただろう。青空が憎くなるほど暑いです。
 
 
                花倉城跡                                    花倉城跡分岐

  こんもりした花倉城跡が見えてきた。右側の平らになっている所が城跡の入口で現在は茶畑になっています。
反対側の木が伐採され草原のように見える所が展望地で、見晴らしがよく休憩場所に適した所です。

  前回はこの分岐を間違えてしまったが左が花倉城跡で直進が藤枝観音です。このコースを歩いてきたら間違いようもない分岐だが、
これが城跡から下ってくると藤枝観音への標識が無いので間違ってしまいます。(と、言分けを)

 
                 天王山                                    大崩山塊

  分岐から城跡への農道に入ると視界が開け景色が見えてきます。まず目に入るのは天王山だが、この山を見るたび頭が混乱する。
天王山の山頂は左側のピークで、下には葉梨神社や安楽寺が微かに見えている。
そこから岡部やビク石に行く一宇坂峠には、山頂から左に延びる平坦な尾根道を30分程行ったピークから、峠に向かって急な道を
下って行く。だがこうしてみると天王山の左はすぐに下りの斜面で平坦な場所はない。
一方右側は平坦な尾根が続いているが向きが違う。このため最初は天王山の山頂は右端のピークではないかと思った事がある。
地図で見ると左端の天王山の後ろに平坦そうな尾根が続いているので納得はするのだが、こうして見るとまた混乱しそうです。

 
                花倉城跡入口                                  花倉城跡縄張図

  花倉城跡の入口に到着です。ここまでが舗装路で城跡の中のみが山道の日陰になります。
入口には花倉城跡の縄張図がありますので、それを利用して城跡内のルートを簡単に説明します。

先ず入口から土橋を通り古道を進みます。日陰は日陰ですが急な坂道で汗は日向と同じようにかきます。
更に悪い事は日陰になったと同時に “ブゥーン” の羽音共に蚊の襲撃です。
勿論防虫剤なんて洒落た物は持っていません。仕方なく汗を拭いていたタオルを振り回しながら進みます。
オット道案内です。古道を登っていくと 「花倉城跡ハイキングコース」 の標識の下から、右に見える帯曲輪側に行きます。
帯曲輪を過ぎてから空堀を渡って上に出ればそこは本丸跡です。
本丸から向きを変え尾根にある空堀を渡って二の丸に出ます。二の丸から更に空堀を渡り広くなった尾根を行くと突然前方が
開けた場所に出ます。そこが休憩場所に適した展望地です。
帰りは来た道を最初の空堀まで戻り、そこを二の丸にはいかず右に下ると、行きに見たハイキングコースの標識に出ます。
後は来た道を下るだけですが、このルートは私のように城音痴用で、城マニアの方はもっと面白いルートがあると思います。

 
                 古 道                                    帯曲輪
 
  古道と云っても何もありませんし、ただ歩きずらいだけです。それでも行きは古道で帰りは新道を下りました。
ハイキングコースの標識の右にある “帯曲輪” とは、字の如く 「帯曲輪は細長く帯状に城を囲む曲輪」 なのだが曲輪と云うほどの
事はなく、私の目には単なる細道としか見えません。でもともかく帯曲輪に向かいます。

 
                  本 丸                                    物見台?

  帯曲輪の上の広場は本丸で、この場所が一番高くなっています。ここにどんな建物があったか想像もできないが、ここが今川家の
お家騒動の決着がついた 「花倉の乱」 の主戦場です。

  今川家中興の祖の氏親の死で今川家を継いだ嫡子氏輝は、当主になって10年足らずで死亡してしまうが、不思議なことに実弟も
同じ日に急死してしまう。そこで後継者の名乗りを上げたのが実弟の義元と、義元より年上の側室の子の玄広恵探だった。
話し合いは持たれたものの氏親の正室寿桂尼や、太原雪斎などの有力者が義元側につき恵探側は不利になってきた。
そこで恵探は起死回生とばかりに駿府の今川館を襲撃するが失敗。慌てて自城の花沢城に逃げ帰り籠城をする。
義元側は恵探側の城、方の上城(焼津)を攻め落とし、余勢をかって一気に花倉城に攻め寄せた。
籠城用に築城した花沢城だが、恵探の指揮が悪いのか、それとも城兵の士気が低かったのか、恵探は隣の烏帽子形山を越えて
瀬戸谷に逃げ込んだものの普門寺で自刃してしまう。

  正直玄広恵探にはガッカリです。
自分から今川館に攻め込んだのに簡単に失敗してしまうし、逃げ込んだ花倉城を簡単に落城させてしまい、更に城から落ち延びた
のに味方がいる遠州にも逃げられず、すぐ自刃してしまうなんて何ともだらしがない。
と、マーそんな事を本丸のベンチに座って考えようと思ったが、ここに座ればただ蚊に餌を与えるだけだと早急に移動した。

  本丸から北に向かって明瞭な道が続いて縄張り図には、この先に物見台となっています。その道をしばらく進むと平坦な場所に
出るがなんの標識も無い。道は更に急な下り坂になって続いているが、さてどうしよう。
今までは蚊は煩いものの蜘蛛の巣は無かった。だがこの先は下草も伸びていて蜘蛛の巣もありそうだ。
それに花倉城の物見台なら敵が攻めてくる南にある筈で、北側に物見台が有るわけはない。なんて都合よく解釈して “物見台” は
この平坦地だと勝手に判断して引き返す事にしました。

 
                本丸から二の丸を                               二の丸

  本丸まで戻り更に空堀を越して二の丸に向かいます。二の丸跡は本丸より一段低いが広くて木も切ってあるので清々する感じです。
南の一部から景色が見えるのでベンチを置いてあるが、ここに座っても蚊の給餌場になってしまいます。

 
                空堀を渡って                                  展望地に

  二の丸からは西側から空堀を超えると簡単に次の広場に出る事ができます。
何の案内も無い所は素通りして尾根道を南に向かって行くと、前方が開けて景色が広がっています。
日が当たっているので林から少し離れた桜の木の下に座って景色を見ながらの昼飯です。
蚊は途中に日向があるのでここまでは押寄せて来ません。とは云えこの時期にここに来るときは防虫スプレーなどを持ってきた方が
良いでしょう。城跡に入ってシャツの袖は戻し、蚊の襲撃場所は顔に集中したのですが、何故か目に飛び込んでくる蚊が多かった。
蚊は黒い物を好むらしいが、頭髪が白いため少し黒さが残った睫毛や眉毛を目指してくるのだろうか。本当に煩かったです。

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