はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音1-4

2014-10-16 12:37:22 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      建穂寺(観音堂)
 
               建穂神社                      建穂神社本殿
 建穂神社の地図                   
 電柱の地名が「建穂」になってきた。
一体何と読むと思いますか? きっと読める人は少ないと思うが、これで「タキョウ」と読むそうです。
この地名も帰化人が付けたと思えば、そんな風にも感じる名前ですよね。
 
 建穂神社と建穂寺は切っても切れない縁があったようです。
この建穂神社の地は建穂寺の跡で、建穂寺は「神仏混淆」の寺として中近世大寺であった云われています。
当時建穂神社の里宮は羽鳥にあり、ここは奥宮の場所だったのに、建穂寺が割り込んで建てたようです。
その後、建穗神社の別当寺となった建穂寺は大いに発展して、建穂神社の奥宮もそれに伴って存続していました。
たが、里宮の方は次第に衰退し廃社となってしまいました。
里宮の跡地は羽鳥に「古社地」として残っているらしいが場所は分からなかった。若しかして木枯しの森の神社が
里宮だと面白いが、と思ったが、木枯しの森の神社は八幡神社だった。残念。
処が処がですよ! こんな記事を見付けました。
京都太秦にある「大酒神社」には「木枯神社」が合祀されていて、この「大酒神社」こそが渡来人の秦氏の総鎮守で
あったという。そうなると木枯しの森も建穂神社も建穂寺も、帰来人秦氏と濃厚な関係だったと思われます。
さらに奥宮に祀られていたのは「馬鳴大明神」で、その馬鳴とは蚕虫に化生した馬鳴菩薩によるものという。
つまり、養蚕を営んでいた人々によって祀られた神社が「建穂神社」と云う事になる。

建穂神社は山の上にあると思って歩いて行くと、何と坂道の登り口にあった。その由緒ある筈の神社は何処にでも
ある普通の神社で、縁起書も無ければ馬の狛犬(?)も無かった。これで式内社なのだからガッカリだ。
神社の横の道で草取りをしている人がいたので「この上には何かありますか?」と聞くと「何もないよ」だった。

      
                                建穂寺観音堂と仁王
 建穂寺の場所
 建穂神社を後にして「建穂寺(たきょうじ)」に行く。寺前にある静岡市の案内板には
「建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。
創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として天平7年(735)の寺領寄進の記録が寺の古さを特徴づけている。
平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂
には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
 学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川・徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり
廃寺となった。  文化財の一部は、観音堂内に保存されている。」
 これにもう少し付加えるなら
「江戸時代までは21の塔頭をもつ駿河有数の大寺院だったが、明治初年(1688)の神仏分離令につづく廃仏毀釈と、
明治3年の火事により全山が消失した。 現在の建穂寺は昭和に入り、地元の有志により建てられた観音堂である。」

というわけで現在の建穂寺は寺と言うより「建穂寺観音堂」と呼ぶ方が相応し感じがします。

    
            前立千手観音                      仏像群
 観音堂の正面には千手観音が安置されていたので、これが行基作の仏像かと思ったが、銘は「前立千手観音」
なっていた。ここに書かれた 「お前立(まえだち)」 とは 「平常公開されない仏像(秘仏)の厨子の前に身代りとして
安置され、礼拝者にその尊容を偲ばせる仏像である。」
と云う事なので、後ろの黒い厨子の中に行基の千手観音が
収められているのだろうか。しかし建穂寺の本尊の千手観音についてこんな記述もあった。
「本尊は1576年に焼失した建穂寺の観音堂の再興本尊として造られ、像高は約130cmの立像で、楠の寄木造、玉眼。
像内の銘には1577年の年や仏師長勤の名前があり、この像が建穂寺の本尊として造立されたことが記されている」

更に建穂寺で貰った「幻の寺 建穂寺」の栞には、本尊は桃山時代作とあるので行基の千手観音ではない事が分かる。

  
             長源寺の阿弥陀如来                      長源寺の薬師如来
 かって函南町桑原長源寺の観音堂にも、ここ建穂寺の観音堂と同じように何体もの仏像が所狭しと安置されていた。
だが「かんなみ仏の里美術館」の完成に伴い、仏像たちは美術館に移されると、観音堂では親しく感じていた仏達が
薄暗いガラスの中で取り澄ました美術品に様変わりしてしまった。
ここの仏像たちも、もう少し広い場所でお詣りできれば良いのだが、函南のような美術品としてではなく、あくまでも
仏さんとしてお詣りできる場所が良い。

  
     仏の里の薬師如来           仏の里の阿弥陀如来          仏の里の弘法大師像
 かんなみ仏の里美術館の場所
 観音堂の後ろに初めて行ってみると、現在の建穂神社の場所から移転してきたと思われる六地蔵があった。
だが良く見ると六地蔵の台座には一丁目ならぬ「初町」と刻まれている。普通は一丁か一町で初町は珍しい。
で、次は「二町・三町・・・・六町」と続いていた。このように纏めてあるから六地蔵と見えるが、台座に刻まれている
「元禄九丙子年」の頃は、山の上にあった建穂寺の丁目石だったのだろう。

 
           六地蔵(丁目石)                        建穂寺の古絵図(複写) 
 観音堂前にある説明板だけでは余り興味が湧いてこない。建穂の謂れや元の場所などの説明がないと、かっては
駿河を代表する大寺だったとは誰も想像しないだろう。

           
                    木枯しの森から建穂寺の地図

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                 喪中につきしばらく休みます

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