はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大井川の天正の瀬替えと平成の大改修

2014-12-04 12:16:08 | その他
                                                  2014-11-29(土)
              
 本来の目的の 「殺人光線実験所」 より気になったのは、大井川の河原にあった 「平成の大改修」 の看板。
看板に見える「天正の瀬替え」とは、天正18年(1590)に行われた大井川の流域変更を指しています。

 
 瀬替え前の大井川は、今は金谷側になる牛尾山が島田側の山と陸続きだったため、牛尾山にぶつかった
流れは西に大きく向きを変え、横岡、竹下、志戸呂を経て二軒屋の崖に当たり、今度は東に向きを変えていた。
そのため対岸の旗指、野田方面は大雨の降ると洪水を起こしていたので、牛尾山を掘削し蛇行していた流れを
直線にして洪水を防ぐ対策が取られた。
 それに対し平成の大改修とは、天正の瀬替えで掘削した牛尾山と相賀の間が狭くて、大雨の時は大井川の
流れがとどこってしまい、牛尾山上流の住民に不安を与えていた。そこで平成の大改修で現在は金谷側に
残っている牛尾山の一部を掘削して、大井川の流れをスムーズにするのが目的です。

 
 現在の大井川の流れです。既に牛尾山の一部は削られ始めているが、牛尾山を挟んだ上流と下流の
川幅が広い事が分かると思います。

 
 こんな感じで牛尾山は掘削されるそうです。

 
 工事現場にあった案内図を見れば牛尾山が流れの中に突き出ている事が分かります。

 
 更に現場にはこんな案内図も紹介されていました。
これらを見て天正の瀬替えと平成の大改修の関連は大体は理解できたが、何故天正の時に牛尾山も含めて
掘削しなかったのか疑問を感じた。それに対し現地の説明員は
「当時の土木技術では岩盤が多かった牛尾山の掘削は無理だったのでしょう。掘削した大井川の中にも掘削
しきれなかった大きな岩が 『豊年岩』 として今も残っています」
と説明された。
 
 この件をもう少し詳しく調べると
「島田側から大井川に大きくはみ出していた牛尾山の一部(260m)を切だし、その時の跡と思われる河床に
露出した岩礁(豊年岩)や牛尾山の岩盤面が今でも見られます。
強固な岩盤の切割は難工事だったと考えられます。かってこの地域を治めていた武田氏によりもたらされた
甲州流金掘技術が工事に活かされたと伝えられています。」


 では天正の瀬替えが終わった以降は大井川は氾濫しなかったか? イエそんな事はなかったようです。
大井川扇状地では1600年以降から明治末期までの期間に、およそ70回の堤防決壊による洪水の記録が
残されています。その中で最大級といわれる洪水は、慶長9年(1604)に起きた向谷の決壊では島田宿は
ほぼ全て流失してしまいました。

 この向谷の氾濫は最初に紹介した見取り図の中に 「島田宿が流された後に11年間だけ使用された東海
道」
として書かれています。この時の氾濫の原因は、天正の瀬替えで狭い範囲しか掘削されなかった流路
で勢いを付けた流れが、島田側の山が終わった向谷(現1号線バイパス付近)で決壊し島田宿を流して
しまいました。この向谷だけでも決壊したのは、この後にも5回もあり最近では1906年にも起こっています。
それらを考えると天正の瀬替えは、島田側では決壊場所が変わっただけで効果が無かったのではと思う。

 現地説明会では平成の大改修の目的は 「大雨が降ると牛尾山上流は水位が上昇して神座(左岸)や
横岡地区(右岸)は洪水の恐れがあるので平成の大改修を行う」
との説明だった。
また地元の参加者は 「横岡地区には舟屋敷や沖の島などの地名も残り、水はけが悪い」 と話された。
 では大井川右岸の横岡地区にどんな洪水が起きたのか調べると、規模は不明だったが右岸でも洪水が
4回起きている事が分かった。さらにこんな一文を見つけた。
「1800年以降における破堤・決壊の多くは左岸の扇状地です。自然状態においては大井川本流は牛尾山の
西側を金谷方向に流れていたのですが、天正18年(1590)に山を開削して牛尾山の東に河道が付け替えら
れました。これが決壊の多発に関わったと推定され、また,現在でもこの著しい狭窄部は治水上の問題を
提起しています。このため拡幅や掘り下げによる河道断面の拡大が計画されています。」
とあった。
アレレ?なんか現地説明とは逆な事が書いてある。

 実は私の住んでいる所は、この牛尾山より下流の大井川左岸の上泉ですが、過去の氾濫個所を見ると
この上泉地区が一番多くなっていました。また私の家付近の古称は「裸島」とか。ようは何も無い高台と云う
事でしょう。
最近は「台風や集中豪雨により数十年に一度の降雨量になる大雨が予想されとき」 特別警報なるものが
発令されるなど自然災害増えてきている。更に当地は東海地震の震源域で、津波は勿論大井川上流にある
ダムの崩壊による出水の恐れもある。
更に言うなれば浜岡原発から23km地点でもありその不安も無いではない。
終の棲家と思っていたのに安住の地にはならないのだろうか。

 
                一豊堤                           横岡水神社
 話が後先になってしまったが、この天正の瀬替えを行ったのは駿河側が駿府城主中村一氏、遠州側が掛川
城主山内一豊でした。ここで若干腑に落ちないのは、天正の瀬替えが行われた天正18年です。この年は秀吉に
よる小田原征がが行われ、その功績により二人が城主になっている。
そんな慌ただしい時に何故大井川の瀬替えが行われたのか。城主の住む駿府や掛川から離れた場所にある
大井川の実態が新城主になった二人に、こんなに早く伝わったとは思えないのだが、何か切羽詰まった事でも
あったのだろうか。

 一氏と一豊の二人の顕彰碑が横岡水神社にあると聞いて見に行ってきた。
 中村一氏 山内一豊   天正18年駿河領主中村一氏が駿河山を切り割り 大井川の流れを駿河側に
替えた(現在の牛尾山を駿河山相賀山と言う) 掛川城主山内一豊は堤防を築き 五和金谷河原を開き黄金の
波打つ美田を造成した これを天正の瀬替えと言う (後略) 平成七年五月」

後略の部分は慶長九年の向谷の堤防決壊により変わった東海道の道筋が書いてあった。
碑文の中の「五和金谷河原」の五和とは、瀬替えにより金谷河原には竹下、牛尾、島、番生寺、横岡新田の
五和村が新しく誕生したそうです。その五和の事だと思います。
 こうしてみると遠州側には新村が誕生し所領が大幅に増えたのに対し、駿河側は決壊場所が変わっただけで
メリットは無かった。中村さんは何を急いで牛尾山の掘削を急いだのか増々分からなくなってしまった。

 説明会が終わり「一豊堤」を確認した。写真では見難いが写真左中程から走っている線状の物が一豊堤です。
この天正の瀬替えはまだまだ興味は尽きない。一度この辺りをゆっくり歩いてみよう。

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