はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

蔦の細道:ハイキングコース調査

2017-07-27 15:59:48 | ウォーキング
歩行記録                                                           H29-7-23(日)
歩行時間:1時間55分   休憩時間:0時間20分   延時間:2時間15分
出発時刻:8時15分     到着時刻:10時30分
歩  数: 9、170歩(推定距離6.51km)    GPS距離5.3km
行程表
 坂下BS 0:30> 蔦の細道峠 0:20> 道の駅 0:15> 慶龍寺 0:15> 宇津ノ谷峠 0:10> 明治トンネル
 0:10> 大正トンネル 0:15> 坂下BS  

                             蔦の細道ハイキングコース概略図
   

  熱中症予防は夏場は安・近・短に限ると今回も藤枝ハイキングコースの調査です。
蔦の細道周辺は会社を辞めて歩き始めた頃は何度も歩いているのですが、最近は静焼アルプス縦走(佐渡山からカンポ下)で
宇津ノ谷峠から蔦の細道を横断するばかりです。
折角ハイキングコースを紹介すのですから最新の情報を発信したく、正直気は乗らないものの出かける事にしました。
何しろハイキングコースと指定されているのは、坂下地蔵堂から蔦の細道を越えたあと、宇津ノ谷集落をから明治トンネルを通って
戻ってくる、たった3.5kmしかないコースですので、いくら安・近・短と言っても食指は動きませんよね。
それならとせめて宇津ノ谷越えの全コースを歩く計画を建てました。

  出発点は宇津の山の西側にある坂下地蔵堂として、先ずは一番古い万葉時代の蔦の細道を歩き東側に出ます。
次は江戸時代の宇津ノ谷峠を越して西に戻って、再度明治トンネルを歩いて東側に出たら、又々大正トンネルを通って西に戻ります。
大正トンネルを潜ったあとは昭和トンネルと平成トンネルを西側入口か見て坂下地蔵堂がゴールです。
に戻る計画です。

 これでも距離は短か過ぎるが、今日は大相撲の千秋楽です。白鵬と碧山が優勝決定戦があるかもしれないので、家に4時前には
戻りたいので丁度良いかもしれません。

 
                 坂下地蔵堂                                     六地蔵

  藤枝駅前から中部国道線のバスに乗り、初めて坂下バス停で降りたが、バス停が道の駅(岡部側)の引き込み線の中にあるとは
初めて知りました。ただバス代が520円もするのも初めて知り、今までなら焼津駅から歩いて来たのにと、勿体なく感じてしまった。

  坂下地蔵堂の前の案内板には
 「坂下地蔵堂の再建は元禄13年で 「鼻取り地蔵」 と 「稲刈地蔵」 の二つの伝説が残されている」 とある。
この話は以前歩いた “駿河一国百地蔵” 紹介しているが、今回は 「鼻取り地蔵」 を再度紹介します。
 「むかし百姓が言う事を聞かない牛に困っていると、どこからか小僧さんが現われ牛の鼻を取って声を掛けると、
牛は楽々云う事をきいた。どこの小僧かと後をつけると地蔵堂の中に消えていった。
それからはこの地蔵は百姓の手助けをしてくれると 「鼻取り地蔵」 と呼び農家の信仰が厚くなった。」


  駿河一国百地蔵ではここと同じ鼻取り地蔵の話が、百地蔵の結願札所の三島の光安寺もあった。
地蔵の名前は勿論同じ “鼻取り地蔵” で、伝説の内容もまるっきり同じだった。
こんな話が複数の場所にあると云う事は、当時の農作業が重労働で少しでも楽になる様にお地蔵様にお願いしたのでしょう。
でも気になるのは、お地蔵さんが祀られている坂下地蔵堂のある場所です。この辺りは既に宇津ノ谷の傾斜地になっていて、周囲に
田圃は見当たりません。イエ畑さえない場所です。そんな場所に何故農作業の手助けを願うお地蔵さんがあるのでしょうか。

 
                一号堰堤吊橋                                 一号堰堤

  坂下地蔵堂の上は “つたの細道公園” になっていて駐車場やトイレもあり、勿論ベンチもあります。
しかしまだ歩きだしてから数分で、休む必要もないし時間的余裕もあるので、ならばと今まで行った事のなない吊橋を渡ることにした。
吊橋の下を流れる木和田川は、明治時代に大規模な山崩れが発生し、そので起きた土石流により下流一帯に大被害を受けた。
そのため幾つかのロックヒル・ダム(石積堰堤)を築いたが、平成15年の豪雨で流されたので再度明治時代の工法で復旧したそうです。

 
                 二号堰堤                                  元の道に戻る

  ここの堰堤は下流から見上げると兜のような形をしているところから兜堰堤と呼ばれています。
二つの堰堤を見終わると元の道に戻る。この上流にも幾つかの堰堤があるが、左程面白いものではなかったので今回はパス。

          
                      蔦の細道西入口                              蔦の細道石碑

  蔦の細道の入口は、上流に続く農道から橋を渡った石碑の所にあるが、その入り口部分は自然石と置石の石畳になっている。
この辺りで石畳と云えば旧東海道の金谷の石畳が有名だが、私はここの石畳の方が気に入っている。
金谷の石畳は丸みのある河原石で、しかも尖った部分が上を向いているので足をグラしやすい。その点ここの石は山石で平らな
部分を上にしているので歩きやすい。たまに動く石もあるので若干の注意は必要になるが。
この蔦の細道と明治トンネルを歩くコースは難易度が上級になっていが、このコースで山道部分は蔦の細道の上り下りだけで、
後は舗装道路です。と、なると上級になった理由はこの石畳しか考えられない。
先週歩いた花倉城跡コースは標識が無く間違いやすかったが初級で、他にも急な下りや沢の渡渉もある高根山も初級になっている。
ならば当然ここも初級と思うのだが何故か上級認定になったいる。どうしてでしょうね。

 
                    猫 石                            蔦の細道峠から富士山が見えた

  「猫石」と案内はあるものの猫とはとても見えない石だと思ったら
 「むかし暗い夜道を歩いていた旅人が、この石の近くで猫の鳴き声を聞き、人家が近いと安心した、との伝説から名前が付いたと
いわれる。」
のだそうです。なんか無理やり作ったような話で、真偽のほどが疑われる話です。

  坂下地蔵堂から25分程度、入口からは15分も掛からず峠に到着した。この峠道が官道の東海道になる前は、此処より標高の
高い日本坂峠を越していたので楽になった事は確かでしょう。足の強かった昔の旅人も少しでも楽な方が良かったのでしょうか。
  峠からは薄っすらと富士山が見えている。以前は木が邪魔をして富士山は見えなかったが、静岡側の樹木を伐採してからは見える
ようになったのは嬉しい。だが峠にある在原業平の 「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりける」 の歌碑は一応
石碑だが、彫は浅く白い安っぽい石材で文字が読みにくい。折角歌碑を建てるのだからもう少ししっかりした物にして欲しかった。

          
                      宇津ノ谷峠の標識                                水 場

  峠から下る標識に現在地を 「宇津ノ谷峠」 と書いてある。この道が官道の東海道であった頃は、この山越えの道を 「宇津の
山越え」
とか 「蔦の下道」 と呼んでいたようなので、この峠を “宇津峠” とか “蔦の峠” など言っていただろう。
それが江戸時代には更に北側の “宇津ノ谷集落” を通るようになったので、その峠を “宇津ノ谷峠” と呼んだ。とは思う。
だが、果たして蔦の細道の峠を本当に “宇津ノ谷峠” と呼んでいたのだろうか。
高々1kmも離れていない場所に同じ名称を使うと紛らわしくて敵わない、できるなら蔦の細道の峠名を変更できないだろうか。

  静岡側の道は岡部側に比べ急な道だが、峠から20分程度で東側の入口に着いてしまう。確かに日本坂越えより楽です。

 
               蔦の細道東入口                                国1跨道橋入口

  静岡側の蔦の細道入口には 「国定史跡指定 宇津ノ谷峠越え」 とか 「蔦の細道 山越え旧東海道 明治トンネル 伝説十団子
延命地蔵尊 御羽織屋」
の看板が建っている。場所が蔦の細道の東側入口にあるため、国が指定した峠越えの道は蔦の細道かと
思い文化庁の 国指定文化財等データベース を調べてみた。
すると思いもかけない事が書いてあった。
 「我が国近世の交通の歴史を知るうえで重要であることから、近世東海道のうち、宇津ノ谷峠を越える全長約1.25kmの区間の
うち、間(あい)の宿の雰囲気をとどめる宇津ノ谷集落内の道と往時の道形が良好に残る合計約1kmの道と、それに関連する
地蔵堂跡、ひげ題目碑を合わせて史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。」
となっている。
しかも地図に表示される道は、西は坂下地蔵堂上の蔦の細道と宇津ノ谷峠への分岐点から始まり、宇津ノ谷峠を越して集落を通り
越した県道のと合流点までだった。
と、いう事は蔦の細道は国指定の 「東海道宇津ノ谷峠越」 には入っていないことになる。
それではこの看板が建つ場所は余りにも悪すぎだ。東海道を歩く人がこの看板を見たら、当然この階段を行った先に江戸時代の
宇津ノ谷峠があると思うだろう。

  いつもならトンネルに近い車道の跨道橋を渡るのだが、今日はハイキングコースに忠実に歩道橋を渡った。
折れ曲がった階段は車道を歩くより面倒で疲れる感じだった。

 
               歩道橋から国道1号                              宇津ノ谷集落入口

  歩道橋からはトンネルは見えなかったが国道1号線と宇津ノ谷集落の入口が見えた。
 
 
                宇津ノ谷集落                                 慶龍寺

  ここ宇津ノ谷集落はもう国の指定した文化財の範囲内です。途中にある十団子で有名な慶龍寺に立ち寄ると、十団子の謂れが
書いてあった。
 「むかし宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が出たため。旅人の難を救おうと在原業平の祈願によって地蔵菩薩が旅僧に姿を
変えて宇津ノ谷峠で鬼と対決した。旅僧は人間の姿で現れた鬼に 「本体を現せ」 と言うと、鬼は6mの鬼の姿に変身した。
すると旅僧は 「お前の力はたいしたものだ。今度は小さくなって、わしの手のひらに乗ってみよ」 と言います。
褒められた鬼は気をよくし 「よし」 と答えて小さな玉に姿を変えて旅僧の手のひらに飛び乗りました。
それを見た旅僧はすぐに持っていた杖でその玉を粉砕して 「おまえはこれで仏になった。これから旅人を苦しめてはならぬぞ」 と
悟し、砕かれて十粒になった鬼を飲み込んでしまった。」


  私は十団子に出てくる鬼は江戸時代の宇津ノ谷峠に出没したと思っていたが、この説明には平安時代初期の “在原業平” が
出てくるのだから、鬼は蔦の細道の峠に出たことになる。
実は慶龍寺は駿河一国百地蔵の札所で延命地蔵が本尊とされている。その地蔵尊にはこんな話も伝わっている。
 「延命地蔵は弘法大師の作と言われ。高さ80cm程の石造りの座像で、両手で宝珠をもっている。もとは宇津ノ谷峠に祀られて
「峠の地蔵」 と呼ばれていたが、明治44年に麓の慶竜寺に下ろされた。地蔵は左甚五郎作の厨子に納められていて、11年毎に
開帳される」
とある。
本尊の延命地蔵が十団子に出てくる地蔵かどうかは明確ではないが、江戸時代の峠にも地蔵が祀られていたようです。

  
        十団子茶屋                    昔の十団子                     今の十団子

  十団子を食べて事は無いし、何処で売っているのかも知りません。

          
                      宇津ノ谷峠東入口                              宇津ノ谷集落

  集落の中の階段を登った先に宇津ノ谷峠東入口がありますが、ハイキングコースは宇津ノ谷峠には登らず左の明治トンネルに
向かいます。それでは余りにも詰まらないので私は宇津の山越えの歴史順に行歩く事にします。
先ずは江戸時代の宇津ノ谷峠越えでが、入口には蔦の細道と同じ 「国定史跡指定 宇津ノ谷峠越え」 の大きな案内板が建って
いるのですぐ分かります。
山道を登りだすと嘉永年間に建てられた馬頭観音があり街道の古さを感じさせます。その先からは今歩いて来た宇津ノ谷集落や
明治トンネル前の広場が下に見えてきます。

 
                地蔵堂跡                             江戸時代の地蔵堂(案内板より)

  峠の下の地蔵堂跡の案内板には、江戸時代に書かれた歌舞伎の 「蔦紅葉宇津ノ谷峠」 の粗筋も紹介されていた。
 「盲目の文弥は、座頭の修行代として姉が身売りして用立ててくれた百両を持って京に上る途中、護摩の灰や借金を抱えた
商人と鞠子宿に投宿する。
文弥の百両欲しさに商人が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場 「文弥殺し」 の舞台がここ延命地蔵堂前である。」


  案内板の絵は江戸時代の屏風絵で、説明には 「峠の地蔵を祀る祠と、旅の無事を祈る旅人。」 となっている。
左端の旅人が祈っている小さな祠が峠の地蔵で、その下の藁葺の家が7軒ほど建っているのが宇津ノ谷間の宿だろうか。
それとも十団子を売っている峠の茶屋なのだろうか・・・・・・・・

     
                        宇津ノ谷峠                               新しい階段が

  以前と変わらない宇津ノ谷峠にみえたが、その最頂部に行くと大きな違いがあった。
毎年歩く静焼アルプス縦走では北側から宇津ノ谷峠に下り、南側を登っている。その時登る南側の取っ付きは、草木の無い土の
斜面で毎回苦労をしていた。
それが昨年は斜面の途中に1本の細い杭?ボルト?のような物を埋め込んでくれたので、容易に登る事ができ感謝していた。
そして今来て見るとそこにはなんと階段ができていた。
ウーン! ここは一般のハイキングコースではないので個人が作ってくれたのだろうが。ウーン! だ。

 
                 明治トンネル                                 明治トンネル内部

  他の事に気を取られてしまったが、宇津ノ谷峠は蔦の細道の比べ数段楽な宇津の山越えだった。
次に向かうのは楽だった宇津ノ谷峠より更に標高の低い明治トンネルです。

  明治トンネルは東海道を旅する人が多いのに目を付け、宇津ノ谷峠の下に隧道を掘って通行料を徴収しようとして動き出した。
隧道の東西から掘り始め明治9年に開通した隧道は、内部を合掌造りの木型で支えた全長223m、幅5.4m、高さ3.6mだった。
だが一直線の隧道とはならず “く” の字に折れ曲がった隧道になってしまった。その原因は当時の技術水準が原因との説もあるが、
はっきりした理由はわかっていない。
とは云え江戸時代の初めに箱根芦ノ湖から箱根外輪山を越えて深良(裾野市)まで水を通した深良用水は長さが1280mもあった。
芦ノ湖側と深良側から掘り進めた2本のトンネルが出会った地点は、上下に1mほどの段差があったが、これは上流の芦ノ湖側は
高めに、下流の深良側は低めに掘り進めた結果だった。
それなのに深良用水から200年以上経った明治で、しかも200m程のトンネルなのに “く” の字に曲るとはとんだお粗末な話だ。
当時の技術水準云々とする記述もあるが、欲から出発した計画は杜撰で、必要な経費もケチったのだろう。
折角できた日本最初の賃取り隧道だったが宇津ノ谷峠と近く、しかも左程の短縮ともならず利用者は少なかったようだ。
更に20年後の明治29年には照明用のカンテラから失火し、トンネルの一部が崩落して通行できなくなってしまった。
その後は静岡県がトンネルの補修を行い、現在のレンガ造りのトンネルとなると一刻は賑わいを見せたが、、鉄道の開通など時代の
変遷の中、主役の座を追われ利用者も減っていってしまった。

  そんな経緯も知らず明治トンネルを見ると、明治時代の優れた遺産と感じるが、どちらかと云えば 「挫折のトンネル」 です。
こんな事を書くと関係者に悪いかな? ご免なさい。
宇津の山越えは更に楽になった。

 
                 大正トンネル                                 大正トンネル

  明治トンネルを出て再度宇津ノ谷峠入口の前を通って大正トンネルに向かう。
一応ここでは大正トンネルと書いているが、このトンネルは大正時代に着工され、完成したのが昭和になってからなので正確には
昭和第一トンネルのようです。しかしここでは分かりやすく大正トンネルとしておきます。

  自動車時代が到来すると横巾は狭く、高さも低い明治トンネルは時代に合わなくなった。そこで横幅が3.3m、高さが0.4m高い
大正トンネルが作られ自動車時代に対応した。このトンネルは今も現役で県道208号として大型車も通行可能です。
歩いてて越すには明治トンネルの方が楽で、時代は歩きの道から自動車の道へと完全に変貌していく。

                
             人力車の宇津ノ谷越え                      明治トンネルまでの道

  大正トンネルを出て県道を下って行くっと宇津ノ谷峠や明治トンネルに向かう道に出る。その道に入り直ぐ下る道が明治の道です。
明治トンネルを出た旅人は現在の蔦の細道公園側には行かず、真っすぐ下るこの明治の道を歩いたようです。
この道は名前こそ明治の道ですが特段それを感じさせる物はありません。ただ途中に2枚の浮世絵が掛けられ当時を偲ばせています。
明治トンネルが開通するまでは、荷車や人力車は宇津の山越えは出来ず、専ら駕籠や馬に頼る時代でした。それがトンネル開通と共に
 “車” で宇津の山越えができるようになったのはこのトンネルの最大の功績でしょう。

浮世絵の横に鉄道の浜松~静岡間が開通した前後の明治トンネルの交通量が記載されていました。
          歩行者   人力車  小 車  空 車
鉄道開通前   1353人   246台   96台   42台
鉄道開通後   160人    10台    10台    4台

小車や空車が何を指すのか不明だが鉄道開通とともに通行車が激減している事がわかる。これでは採算が合わなかったでしょう。
 
 
                  昭和トンネル                                 平成トンネル

  明治の道を下った所は国道1号上り線の横だった。現在はそこには歩道橋があり南側の下り線側に渡る事ができる。
最初に見えるトンネルはは昭和トンネルで、正しくは昭和第二トンネルです。
幅9.0m、高さ6.6mのトンネルは完成時には日本最大の幅員を持つトンネルでしたが、時代の流れには対応できず、宇津ノ谷峠は
渋滞の名所として名を成すようになりました。
そして出来たのが、現在国1の下り線として利用している道幅11.25m、高さ6.58mの平成トンネルです。昭和トンネルと比べ横幅が
広いのは歩道が設置されているからでしょうか。(でもとても歩く気にはなりませんが)

           全 長   横 幅   高 さ   標 高
明治トンネル   203m   4.0m    3.9m    115m  
大正トンネル   227m   7.3m    4.4m    107m
昭和トンネル   844m   9.0m    6.6m    70m
平成トンネル   881m   11.25m   6.58m   70m 
(蔦の細道)                         210m
(宇津ノ谷峠)                        170m
(数値はネットで探しだした値で正確かどうか確かめてありませんので参考値です)

  歩道橋の西側は下り線のバス停の傍だが、まだ時刻は10時30分で終わるには早すぎる時間だ。今昼飯も食べずに帰れば妻に
体調が悪くなったかと心配をかけてしまう。それでは困るが、さてどうしよう。

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