はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 湯ヶ島

2012-05-27 18:36:58 | ウォーキング
天城越え2-1

場   所:静岡県伊豆市・河津町
歩行月日:2012/05/05
歩行データ: コースタイム
 修善寺駅-1:30-青羽根-1:30-湯ヶ島-0:50-浄蓮の滝-0:50-昭和の森-1:30-天城トンネル-2:00-水垂バス停

 歩行時間:8時間10分 休憩時間:2時間00分 延時間:10時間10分
 出発時間:7時50分  到着時間:17時00分
 歩数:43,570歩 GPS距離:33.5km

修善寺駅~湯ヶ島
 5月5日の子供の日の7時50分に修善寺駅を出発。
駿豆線にはザックを背負った人が10人ほどいたが皆バス停に向かっていった。どうやら下田街道を歩くのは私一人のようで、何故か山に向かう人たちを羨ましく感じてしまった。
 修善寺橋を渡り横目で愛童将軍地蔵を見ながら進むのだが、矢張り地蔵さんの名前がスッキリしない。昔は笠冠地蔵と呼んだらしいが、その方がピッタリする感じだ。
でも待てよ!笠冠地蔵と書くことは出来るが、実際は何と呼んでいたのだろう?カサカン、リュウカン、それともカサカブリなのか? そうなるとこちらもピンと来なくなる。カサ地蔵ではおとぎ話のようで、今一この将軍地蔵の雰囲気と一致しない。
仕方ない愛童将軍地蔵で納得しよう。

 天城越えの一回目は源氏の歴史がが主流だったが、二回目の今日は文学(?)が主流になりそうだ。
その兆しは横瀬の交差点を旧道の下田街道に入る所から始まる。修善寺の温泉地を流れ狩野川へ流れ込む桂川に架かる湯川橋は、伊豆の踊子と主人公の一高生の出合いの場所で、そこの案内板に紹介されている伊豆の踊子の一節には
「私はそれまでにこの踊り子たちを、二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島に来る途中修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った」とあり、ここが20歳の一高生と14歳の踊子の出会いの場所だ。
その一高生より50近くも年の多い私も、橋の袂の木の切り株の中にあった、まだ新しいお地蔵さんに「今日は素晴らしい出会いがありますように」と願掛けをして湯川橋を渡った。

  
  踊り子との出会った湯川橋                   橋の袂の石仏

 一回目で下って来た道と出合う場所の高台に「水神社」がある。登って見ると「満月坊由来碑」や他にも石碑があったが特に気になる物も無く、水神社はさらの上に登った所にあるようなのでパスすることに。
街道に戻り、前回渡った橋まで行くと橋の正面の家の看板に「紅粉屋」と書いてあるのを見つけた。紅粉といえば白粉の事だろうが、修善寺温泉の街の中ならいざ知らず、何故こんな場所に化粧品屋があるのだろう? 不思議にに感じていた。後でネットで調べてみたらなんと菓子屋だった。店を見る限り営業をしているようには見えないが、ネットでは現在も営業しているように書いてあった。
紅粉!べにこ! あっそうか子供のころ家で餅を搗いて紅白の餅を作るとき、母は小さなガラス瓶に入った赤い塗料を振り掛けていた。たしかあの塗料の事を「べにこ」と言ったはずだ。なら紅粉屋が菓子屋でも不自然ではない。でもこんな寂れた場所で商売になったのだろうか?

  
  水神社                             紅粉屋

 木立野と風情のある名前のには道祖神が幾つも祀ってあった。そのどれもが単座総髪で笏を持っている道祖神だった。
道が国道136号に合流し、そこから喧しい国道歩きになる。
道路標識には「天城湯ヶ島7km 下田46km」とある。ここから下田まで46kmなら1回目のとき江川邸や修善寺温泉に寄らず街道だけを歩いて行けば、湯ヶ島まで歩けただろう。そうなれば2回目は湯ヶ島から下田までの39kmとなるので2回で完歩できる計算になる。でもそれでは東海道日本橋の二の舞になって、ただ歩くだけで後であれを見ればよかった後悔してしまうだろう。今回は3回で正解だと自分を納得させながら歩いていた。

   
  木立野の道祖神

 「狩野城跡」とあまり聞いた事のない城の看板が見えてきた。知らない城の割には大きな看板で「室町~江戸時代の日本画壇の本流 狩野派発祥の地」とも書いてある。看板にある写真には城跡が公園のように整備されているように映っている。ここから500mとの表示もあるがどうしよう。500mで城跡に着くなら良いが、この看板は車用なので500m先に駐車場があるという事だろう。そこからどのくらい歩くのか、随分迷ったが今日はこれから天城峠を越さなければならない。先がもっとはっきりするまでは時間のかかる寄り道は我慢しよう。

 アラアラまた狩野城跡が誘ってくる。今度は「狩野城跡遊歩道入口」の看板が建っていた。これでは行くしかないと遊歩道入口の階段を登って行く。少し登ると眼下に狩野川と国道136号が見えてきた。これはまさに城の見晴らし場所としては最適そうな場所だった。だがここの城は何の目的に作ったのだろう。修善寺側からの防御か、あるいは西伊豆方面から来る海賊への防御か、それとも下田方面からの敵を考えたのか。所詮考えたところで分かるはずもないのだが、やはり登って良かったと思いながら石垣のある道を上に向かう。
「狩野城跡生活環境保全林」と書かれた看板があり、その横の標識に「本郭25分」と書いてある。ここから本丸まで25分もかかるという事は見学時間を含めると1時間以上必要になる。こりゃぁ駄目だと慌てて引返すことにした。

 狩野城について少し知らべてみた。
「狩野城は平安末期狩野氏によって築かれた。 狩野氏は平安時代からの伊豆の実力派土豪であり、鎌倉・室町両幕府に仕えた。 明応2年からの北条早雲の伊豆侵攻の折、狩野氏は足利方に付き戦ったが敗れて開城した。その後、一族は小田原に移り、北条氏に仕えた」とあった。
一方日本画壇の本流の狩野派を調べてみたが、余り芳しい情報は無かった。フリー百科のウィキペディアによると
「伊豆狩野氏の末裔との伝承がありがあるが、これは一つの伝承や逸話の域を出る物ではない。一方下野(しもつけ)出身説は種々の資料を見ても有力である」とあった。
もうこうなると私の妄想力も追いつかないが、狩野派の出身が伊豆ならば何故(かの)でなく(かのう)なのだろうとは感じる。

  
  国道沿いの狩野城入口                     狩野城入口から狩野川と国道

 這う這うの体で国道に引換し湯ヶ島に向かうとじきに青羽根に入った。このにある日帰り温泉施設「湯の国会館」は伊豆の日帰り温泉の先駆けのような温泉で、日帰り温泉の数が少ない時代は大儲けをした部類に入るだろう。今日も大型の観光バスが2台も停まっているので今も繁盛しているようだ。

 出口の交差点を通過するたびに思うのは、この地名はここが人間界の出口であって、ここから先は魔物の世界すなわち山賊、海賊の領分となる証ではないだろうか。そして出口名物「出口の黒玉」は魔物にぶつけた石が飴玉になった。と考えると面白いのだが。
 
 国道の道路標識が「天城温泉郷5k 下田42k」となった。50分前に見た標識は天城湯ヶ島は7kで下田が46kとなっていた。それがここでは天城までは2k減り、下田は4k減った事になる。道路標識は目的地が遠い所では、目的地の代表的な物までの距離で、近くなると具体的な場所になるという。それなら最初にあった天城湯ヶ島は湯ヶ島の旧役場を指して、天城温泉郷はその先にある落合楼などがある場所なのだろう。
いずれにしろ修善寺駅を出て1時間30分でGPSの郷里は6.1kになっている。時速約4kmは見学をしなかった割にはユックリペースだ。これは天城に向かって道が上り坂になっているせいなのだろうか。余計な計算をして疲れが増してしまった。

 国道を歩くのも煩くて嫌になってきた。丁度左側に旧道と思しき道の入口があるので入って行った。国道は湯ヶ島の手前で狩野川を渡るので、この辺りは国道と狩野川の間を歩く限り問題は無いだろう。尤もその道が途中で終わってしまったら困ってしまうが。
旧道に入ると車はなくなり突然静かになる。道脇の小川は透き通った水を勢いよく流していて、すでに盛りを過ぎた石楠花が寂しげに咲いていた。
今日はこれから行く昭和の森で石楠花を見る事も考えていたが、この分では標高の高い昭和の森ならまだ十分見頃のはずだ。頑張って歩こう

  
  湯の国会館                         石楠花

 旧道のMHの蓋が石楠花と伊豆の踊子になっていた。ならこの辺りは旧湯ヶ島町なのだろうか。そのマンホールの先に何とも不思議な石が建っていた。縦長の石には土台が付いているので当然石仏なのだろう。しかし石仏の知識の無い私には何の仏か分からない。縦に長いからお地蔵さんなのかと思えるが、石の膨らみ具合など見ると像の鼻のようにも思える。丁度近所の屋根で作業をしていた人がいたので「これは何を彫ってあるのですか?」と石碑を指さして聞くと
「何もしてないよ」と答える。意味が通じてないかと思い再度聞いてみたが答えは同じだった。本当にそうだろうか???だ。
この後も湯ヶ島に入ってから、例の単座総髪で笏を持っている石仏の名前を聞いみた。お年寄りだったが
「事故か何かあって役所が付けたもので名前は知らない」だって。今日は聞く人を間違えているようだ。
 
   
   MHの蓋                   不思議な石造物(正面)     側面

 何か分からない石造物を過ぎると国道の「吉奈入口」交差点と合流した。吉奈温泉なのだろう。今日歩いてきた途中にあった地名は感じ良いものが多かった。木立野、松ヶ瀬、青羽根、月ヶ瀬、吉奈、嵯峨沢とどれもが雰囲気のある地名だ。昔の人は地名も地域に合わせて付けたのだろうが、最近の地名は役所が適当にに付けている感じがする。私の住む「つつじ平」もツツジは公園にあるくらいの物で、昔ツツジが多かったわけではない。これでは地名に愛着が湧いてこなくても仕方ないと思うのだが、そんな事を考えるのは私ぐらいなのか。

ようやく狩野川を渡り市山交差点に着いた。この交差点を右折すれば狩野川の右岸を下って修善寺まで行く事ができる。その道の方が車も少なく歩きやすいそうだったが、そうなると下田街道を歩かないで湯ヶ島まで来てしまう。それも何か淋しい感じがして止めたのだが-----
それにしてもこの右岸の道を修善寺から更に下って行くと大仁の大仁橋に着く。あの橋の袂の水晶山が通り抜けられれば下田街道は一度も狩野川を渡らず三島まで行ける。今では何の支障も無い水晶山も当時は越すに越せない理由があったのだろうか。

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