はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵6回目-3

2013-12-20 16:54:17 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              92番目(92番) 松陰寺(富士塚)

 阿字神社の里宮から「海から富士山」の出発地の田子の浦漁港に向かった。
今年の夏は漁港が工事中だったため、海岸に降りる事が出来ず、海抜0mの出発ができなかった。
漁港の工事もそろそろ終わっている事だろうと、来年のために現地を確認する事にした。
 漁港の工事は思惑通り終わっていて、例年出発地にしているテトラポットのある海岸には無事降りる事が出来た。
海から富士山を歩き始めた時は、海水をペットボトルに汲んで剣ヶ峰で撒こうかと思ったが、海水を汲むのが
中々大変で結局諦めてしまった。来年の区切りの古稀の登山ではどうしよう。海水を汲むべきか、汲まざるべきか。

 
                    田子の浦漁港                     漁港の隣の海岸

 海岸から富士塚に向かう。何時もは早朝のため富士塚もハッキリ見えないが今日は案内板も読むことができた。
「鈴川の富士塚は、富士登山の前に身の穢れを払う場で、登拝者は海岸で水垢離の精進潔斎を行い、玉石を砂山に
積み上げて登山の安全を祈願した。身を清めた登拝者は村山浅間神社に至る村山道を通り、富士山頂を目指した。」

 案内板には書かれていないが、毎年浅間神社がこの富士塚で神事を執り行うそうだ。その際、富士塚の次に
阿字神社でも神事を行うそうだが、その理由として「富士宮浅間大社の湧く玉の池の龍が、潤井川を辿り阿字神社の
池に訪れる」
からとする説があった。
チョット待ってよ、この案内板を見ても分かるように、ここからの道は富士宮浅間大社ではなく村山浅間神社だ。
この龍の話は、諏訪湖の龍が湖底同士が繋がっているとした遠州桜ヶ池に現れる話を真似したのではないか。
ただ阿字神社の池が余りにも小さく、湖底が繋がるには無理があるとして潤井川を使ったのだろう。
余り見え透いた話では却って品が落ちてしまう。
 そうそう先日の新聞に、諏訪湖と桜ヶ池の間を龍が渡る時の休憩池と云われている、遠州水窪の幻の池の
調査が行われていると載っていた。この幻の池とは浜松市天竜区水窪の亀の甲山の中腹に、7年に一度出現
する池で、縦70m、横40m、水深1.2mほどの大きさだという。
折角伝説として話すなら、このように神秘的で規模の大きいものにしてもらいたいものだ。

 私の場合は水垢離は行わないが、海岸では唯一覚えている般若心経を唱えた後、小石を持ってきて富士塚に
奉納している。現在の富士塚は玉石をコンクリで固定しているが、昔の富士塚はケルンのように石を積み上げた
物だったのだろう。今日は富士山には登らないので小石は持参しなかった。
 案内板の登山コースは「村山道」となっているが、私の歩く道は「須山口登山道」で村山道より宝永山に近い
登山道だ。最初は私も村間古道を歩く予定だったが、調べていくと私の足では村山古道は2泊必要と思えてきた。
一方須山口は1日目で6合目の山小屋まで歩けるので1泊するだけで登山が可能の判断し、今も続けている。

 富士山をバックに六地蔵の写真を写したかったのだが、生憎富士山山頂だけが雲で塞がれている。
カメラが使えない時はバッチリ富士山が見えていたのに、いざ写そうとするとこんなものだ。
これも日ごろの行いが悪いせいか。

 
                    富士塚                            六地蔵
      富士塚の地図
 六地蔵から海岸の高台を下り線路沿いに東海道を歩く。南(右)側は10mから15m位の小高い砂山が阿字神社
から続いている。これはまさに天然の防潮堤のような物にに思える。
見付宿が高波などの影響で今井地区に移転になったとあったが、電柱の住居表示が今井になっている。その内
元吉原宿と同じ元吉原小学校も出てきた。しかしここに移って来た宿場も、津波の被害を受け移転している。
この高台を越す津波とは一体何mの津波が襲ったのだろう。
富士市の防災マップを見て気が付いた。この辺りの津波は海岸から高台を越してくる津波ではなく、港から
沼川を遡ってくる津波にやられたのではないかと。しかし富士市の防災マップは沼川周辺は津波の被害想定は無く
街道の南側に急傾斜地危険地域の色付けがされているだけだった。これは河口付近の防潮堤が整備されせい
なのだろう。それにしても海岸を襲う想定津波高が2.7mとは低すぎるように感じるが。

 桧交差点の近くに「(元)吉原宿跡」の表示杭があった。それにしても元吉原の元に()があるのは何故だ。
そう云えば見付宿の案内板にも(元)吉原宿と書いてあった。
アッそうか。元吉原とは吉原宿が移転した時、新しい場所を吉原と表示し、以前からあった場所を元吉原と
呼んだのだ。それゆえ吉原宿と書くと混同するので元吉原宿。だが実際には元吉原宿は無かったので仮の
名前だと知らしめるために(元)吉原宿と書いたのだろう。
(これに気づいた時は得意だったが、いざ書いてみると当り前の事の気がする)

 六王子神社は生憎工事中だったので境内に入るのは止めた。ここの案内板の最後に書かれている
「おあじは鈴川の阿字神社に祀られています」の一言で、随分楽しむことができた。ありがとうございました。

 
                    元吉原宿跡                           六王子神社

 東海道を原宿の松陰寺に向かって歩くが余り面白味のない道だ。東海道が国道1号線になった道は昔の街道の
面影はなくなり、見る物少なくなっている。この道も今は国1はバイパスの方に移り、旧旧国1の県道になって
交通量こそ減ったものの、ただ歩くだけの道だった。
 そんな中、原宿の松陰寺に13時50分にようやく到着。途中随分道草を食ったため遅くなってしまった。
松陰寺と白隠禅師な事は色々なブログに載っているので、今日は少し切り口を変えて紹介する。
まず、松陰寺の山門の屋根だが、一見瓦葺に見えるがこれは石瓦葺きで、幅約30cm、長さ約1mの石を1面3段
54枚、裏表合わせて108枚を用いて葺かれており、白隠禅師の考案といわれる。
さすが白隠さん、僧侶のだけの事はあって、石の数を108枚にしている。この108と言う数は仏教では・煩悩の数・
数珠玉の数・除夜の鐘が撞かれる回数などがあるのだから、当然白隠さんも意識して作ったのだろう。
他にも108に関して面白い事を最近知った。「茶寿」という長寿のお祝いは108才のお祝いだという。理由は
草冠「艹」を「十十」、「𠆢」を「八」、「ホ」を「十八」と見なし、十 + 十 + 八十八 = 108だという。
これで白隠さんが108才で亡くなったのなら最高だが、亡くなったのは84歳だった。

 山門に「白隠宗」「大本山松陰寺」の額が掛かっている。白隠宗?聞いた事がなかったので調べてみると
「現在の日本の臨済宗は江戸時代に白隠が再興したものであるが、松陰寺は大正時代臨済宗妙心寺派から
独立して白隠宗と称するようになった」
とウィキペディアには書いてある。
では臨済宗の宗派を見てみると白隠派は載っていない。何故だろうな。
因みに静岡県の臨済宗の総本山と名乗っている奥山方広寺は、方広寺派として主に静岡県内に170ヶ寺の
末寺があるとなっていた。
また、百地蔵の札所でもあった静岡の臨済寺は妙心寺派だった。

 境内に地蔵像を何体も安置してある地蔵塚があった。一体何体あるのか数えようと思ったが途中で分からなく
なりそうなので止めた。

 
                   松隠寺山門                           松隠寺地蔵群
       松隠寺地図

最新の画像もっと見る

コメントを投稿