はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵6回目-4

2013-12-21 17:54:09 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              93番目(93番) 清梵寺

 次の清梵寺は松陰寺から200mほどの東で、東海道に出なくても山門前の小道を行けば行けそうな所にある。
でもこういう道が油断大敵で、静岡では小道を出た所で方向感覚を失くしてしまったのだ。だが、今回は大丈夫
無事清梵寺の前に到着。
 この寺は臨済宗だったが白隠宗ではなく妙心寺派だった。松陰寺にこんな近い場所にあるという事は、以前は
松陰寺と関係あったと思われるが、何故か白隠宗にはなっていなかった。気になるなー。

 清梵寺の地蔵にはこんな言い伝えがあった。
「阿波の国の長者が原宿で息を引き取り、この地に葬られました。それを聞いた長者の妻は夫の死んだ原宿を訪れ
梵貞尼という尼になりました。梵貞尼は網元の清信宅にお世話になりながら、夫に墓に向かい朝夕拝んでいました。
あるとき網に一体の地蔵菩薩がかかると網元は心を打たれ、梵貞尼と力を合わせて、お堂を建て地蔵菩薩像を
安置しました。そして、この地に清信、梵貞の二文字を取り「清梵寺」というお寺を建立しました。」
 
 清梵寺のご本尊はこの地蔵菩薩像で本堂に祀られているが、清梵寺は「地蔵のお寺さん」と親しまれているため
本堂脇にも地蔵の立像、地蔵堂の中には40体以上の石地蔵が安置されていた。

 
                    清梵寺本堂と地蔵像                       地蔵堂
      清梵寺の地図

              94番目(94番) 長谷寺(高専柔道)

 清梵寺を出てまた東海道を東に向かって歩く。片浜駅の近くで流石に飽きてきて、駅を過ぎた所で海岸の道に
移った。初めは千本浜の松林の中を歩こうと思ったが、今日は気温もそれほど高くないし風も弱い。それなら
堤防の上の方が気持ち良さそうだと堤防の上を歩く。
 堤防の上からは駿河湾越しに伊豆半島、行く手前方には前に歩いた沼津アルプスも見えている。中央に一番
高く見える山は鷲頭山か、左に見える丸い山頂は香貫山だろう。
今時間は3時だ。これから香貫山の麓まで1時間以上は掛かるし、次の札所長谷寺にも寄らなければならない。
となると香貫山に登り出すのが4時過ぎになってしまいそうだ。
ウーンそれじゃ余りにも遅すぎる。今日の香貫山の下りは車道でなく山道を探そうと思っているから尚更だ。
矢張り阿字神社と田子の浦で時間を掛けすぎてしまった。
仕方ない今日は香貫山は見送って、次回の最終回の朝に登る事にしよう。
そう思ったら急に終盤モードに入り歩くペ-スがダウンしてしまった。

 千本浜の海岸ではモーターボートに引かせたウインドサーフィンや投げ釣りをしている釣り人が見える。しかし
魚が釣れている気配は無い。海岸に地引網の看板を建てた小屋があるが、観光地引網でもしているのだろうか。
堤防の上に車両止めが設置してある辺りから、親子連れなどが急に増えてきたので、道を松林の中に変更した。


                   駿河湾と沼津アルプス

 アレーあそこに見える松の木は「ターナーの笠松」のように上部に葉があるだけで下枝が無い。最近この笠松が
話題になったが、それは夏目漱石の「坊ちゃん」の中で、坊っちゃんと一緒に船釣りに出た赤シャツ教頭が
「ターナーの絵の様だ」と言った。そのターナーの絵画展の東京で開かれて、笠松が描かれた「チャイルド・
ハロルドの巡礼」
の絵が展示されている。そのせいで早速笠松が話題になったのだ。

 残念ながら千本浜の笠松は後ろの松林の緑と重なって、はっきりしないのが難点だ。それにしても
イタリアには笠松が彼方此方あるというが下枝は処理をしているのか、それとも自然に笠状になるのか?

    
                  笠松?                 ターナーの笠松

 千本松原の中は綺麗に整備されていて気持ちの良い遊歩道が続いている。その中に井上靖の文学碑が建って
いた。井上靖と云えば伊豆湯ヶ島の子供時代を題材にした「しろばんば」が有名だが、同じように大学時代の
自伝的小説「北の海」では、自身がやっていた第四高等学校(現金沢大学)の柔道の話もある。
今日はその柔道の話をしたい。
 最近オリンピックなどの柔道の試合が面白くないと思っているのは私だけでだろうか。
組み手争いばかりしていて投げ技が少なく派手さが無い。と思っていたのだが、井上靖のやっていた「高専柔道」
の事を書いた増田俊也の「七帝柔道記」を読んでからその認識が変わった。
 高専柔道とは旧帝大の柔道部で行われている、寝技中心の高専柔道の流れを汲む柔道で、現在オリンピックや
全日本選手権で行われている講道館柔道とは全くルールが異なる、世界唯一の非常に特殊な柔道だそうだ。
なにしろ寝技が中心なのだから寝技への引き込みが認められていて、普通の柔道は投技を掛けてもつれた時のみに
寝技への移行が許されているが、高専柔道では自由に寝技にいける。そのため、試合が始まるや立技を掛けないで
寝技になることが多く、ほぼ全ての試合が初めから寝技の攻防になると言っても過言ではない。
さらに選手の役割が決まっていて、引き分けを狙う「分け役」と、勝ちに行く「抜き役」とがある。分け役は必ず
引き分けなければならず、そのため普段の練習も寝技に引きこんだら、耐える事のみを練習しなければならない。
この様な柔道になったのは試合が15人戦という多人数のチーム編成のため、各学校も未経験者を多数入部させる
必要があり、寝技は立技よりも才能に左右される部分が少なく、かつ短期間で技術の向上ができるため寝技中心に
移行していった。このため講道館柔道のように立ち技中心の柔道では、寝技専門の高専柔道に勝つことができず
互いに別のルールを採用しで分れていった。
それで最初の話題の柔道の試合が面白くないに戻ると、この高専柔道は更に面白くなさそうだ。だが最近の日本
柔道は低迷しているのは、投げ技にこだわった綺麗な柔道を目指しているからだともいわれている。そうなると
この高専柔道が再び脚光を浴びる時代が来るかもしれないが、そうなると柔道の試合は増々面白くなくなる。
ウーン困った問題だ。

 
                  千本松原の中                             井上靖文学碑

 千本浜公園入口の高台に次の札所の長谷寺はある。この寺は駿河一国33観音の札所でもあるので寄った事が
あった。特に何があると云った寺ではなく、本堂が竜宮城の様だった記憶しかない。今回も寺の階段を登り境内に
入るが特に何が有る分けではなく、百地蔵の本尊は「境内露座」となっていたが、それすら見当たらなかった。
こういうお寺は面白くなので早々に出る事にしよう。
階段の降り、石碑の文字を見ると「観音 駿河一国31番札所 駿豆両国13番札所 霊場」となっていた。
やはりお地蔵さんはお呼びではないのだ。

      
                     長谷寺本堂                   参道入口の石碑
      長谷寺の地図

              95番目(95番) 蓮光院()

 香貫山に登るのを止めたため気分的に落ち着いたというか余裕が出て、いつもは殆どしない下調べの
していない寺に入った。この寺はさっき千本浜公園にあった銅像の案内に「増誉(ぞうよ)上人 旅の僧が
戦で焼けた松原を経文を唱えながら何年もかかって千本の松を植えました。増誉上人は千本山乗運寺の
開祖です」
とあった寺だ。
山門の左右の提灯には千本山と乗運寺の文字が揚羽の蝶の紋と共に書かれている。まるで料亭の入口の
ようで、少し気後れしたが千本松原を植えた僧に惹かれて山門を潜った。当然どうという事はないのだが、
境内は手入れの行き届いた植木類が所狭しと植えられている。
これほど裕福そうなお寺は高野山では見たが他に記憶は無い。開祖した増誉上人は旅の僧だったが子孫が
優秀だったのだろう。

 
                       乗運寺山門                          乗運寺本堂

 境内には気になる仏像もあるが若山牧水の墓があったのには驚いた。牧水は晩年を沼津で暮らし、
千本浜には記念館もあるが、墓の場所は知らなかった。それがこんな風に遭遇するとは----
墓の前の左側の歌碑は牧水の歌で「聞きいつゝたのしくもあるか松風の 今は夢ともうつつともきこゆ」
右側の歌碑は夫人の喜志子の歌で「古里の赤石山のましろ雪 わがいる春のうみべより見ゆ」とあった。

                
                                   若山牧水の墓

 この左の仏像は襟巻をしていて、右の仏像は頭巾を被っている。一体何の仏像だろう。
やけに細長い層塔(そうとう)もあったが少々バランスを欠いた細さだった。外にも大小の五輪の塔、何妙法
蓮華経なら「髭題目」だが、南無阿弥陀仏は何と呼ぶのだらう。髭題目と同じような筆遣いで書いた石塔が
二基。外にも気になる物が有るので、次回機会があったらまた寄る事にしよう。

    
            襟巻仏像              頭巾仏像             スリムな層塔

 乗運寺を出て狩野川の畔を歩く。狩野川は静岡県の川には珍しく水量のある川で、今日も流れているのか
いないのか分からないぐらい穏やかな川の流れだった。
その狩野川のあゆみ橋の袂の中央公園の中に沼津城本丸跡の記念碑が建っていた。沼津城がこの辺りに
あるとは知っていたが、具体的な場所は初めて知った。これも観歩のお蔭だ。だが今日は時間も遅い
最後の札所蓮光院が暗くなってしまうといけないので先を急ごう

 
                     狩野川御成橋                         沼津城本丸跡

 矢張り遅かったか。蓮光院の山門は既に閉まっていた。仕方ない山門前を見たら今日はこれで終わろう。
ここは沼津駅に近いから次回の最終回に蓮光院に寄ってから次に向かえばよい。うん。これで気が楽になった。
山門の階段横に古い石碑が建っていた。薄くなっている字を見ると「南無大師遍照金剛」と読める。
では蓮光院は真言宗なのか? イエ山門の右手には大きな石碑で「臨済宗 蓮光院」と彫られている。
でも真言宗の弘法大師の宝号である南無大師遍照金剛の石碑が何故ここに建っているのか、きっと元は真言宗で
途中で臨済宗に宗旨替えをしたのだろう。調べてみるとこんな記述を見つけた。
「蓮光寺の創建は北条時頼が開いたのが始まりと伝えられている。当初は大岡院と称し車返し牧の御所の旧地に
あったが天正8年(1580)の小田原北条氏と甲斐武田氏の兵火をはじめ何度も焼失や洪水などの被害を受けた。
その後、徳岫禅師が再興、臨済宗に改宗し寺号を蓮光寺に改め現在地に境内を移した。」

これでは元の宗派が何宗か分からないが、今日の所は真言宗にしておこう。次回チャンスがあれば聞けばよい。

 
                    閉じていた蓮光院の山門         南無大師遍照金剛




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