はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵6回目-2

2013-12-19 16:56:39 | 寺社遍路
  90番目 ~ 95番目 地蔵                              歩行月日2013/10/27

歩行時間:8時間15分 休憩時間:2時間7分 延時間:10時間22分
出発時間:6時33分   到着時間:16時55分
歩  数:  50、783歩  GPS距離:40.5km
行程表
 新蒲原駅 0:35> 90番 2:00> 91番 1:00> 阿児神社 2:30> 92番 0:05> 93番 1:20>
 千本浜 0:05> 94 0:30> 95番 0:10> 沼津駅

              番外 阿児神社(おあじ)

 陽徳院の次の札所は原の白隠寺だが、その前に以前から気になっていた阿字神社に寄って行くことにした。
東海道を歩いているとき、東田子の浦の柏原六王子神社の境内にこんな案内があった。
三股の伝説・三つの川が合流する三股渕に龍が住んでいて、毎年若い女を奉げていた。
ある年、関東の巫女7人がここを通りかかり、巫女の中で一番若い「おあじ」が生贄に されてしまった。
仲間6人は国許に引き返す途中、ここ柏原まで来て悲しみの余り世を儚んで浮島沼に身を投げてしまった。
村人は6人の亡骸を祀ったのが六王子神社といわれている。おあじは鈴川の阿字神社に祀られています」

なるほど、柏原の村人は仲間を生贄にされ、力を落とし浮島沼に身を投げた6人の巫女を祀っていた。
これを読んで感じたのが、六王子神社は心優しき村人が建てた神社で、案内板も書きやすいだろう。
では巫女を生贄にした鈴川の村人は、どんな理由を神社の由緒書に書いて「おあじ」を祀ってあるのだろう。
と、当時は興味津々だったが、どうしても阿字神社を見つける事が出来なかった。。

 阿児神社を探しながら、この話をネットで検索すると、富士市役所のHPにも紹介されていた。
「生贄にされるおあじは覚悟を決めていたが、徳川家康に毒蛇退治を命令されていた地元の僧侶が三股渕で
読経すると、毒蛇は鱗を何枚か残して退散してしまった。
命の助かったおあじは仲間を追って柏原まで戻り、そこで仲間の死を聞いて、余りの悲しさに同じ沼に身を
投げてしまった」
と、おあじは柏原で身を投げて死んだ事になっている。
しかし 柏原の六王子神社にはそんな事は一言も書いてない。もしこれが本当なら心優しき柏原の住民は
六王子神社を七王子にして一緒に祀ったに違いないのだが。
それにいつの間にか龍が毒蛇になってしまっている。

さらにこんな話しも
「生贄になるおあじは、京にどうしても行かなければならない用事がり、用事を済ませたら必ず戻る事を
約束して京に向かった。
生贄になるために吉原へ戻るおあじの話が帝にも知れ、おあじを生贄にしてはならないという宣旨も出た。
一方毒蛇は僧侶達の読経で逃げてしまったので、おあじは生贄にならないですんだ。
だがおあじは大蛇の霊を慰めるため三股渕に堂宇を築き一生を終えた」
 とあった。

伝説とはこんなもので、話をする場所や人により都合よく変わってしまうのだろう。
では私の妄想的歴史観では-----
「毎年洪水で悩まされていた鈴川の村人は、人身御供をして三股渕の流れを鎮めようと、京に向かう7人の
巫女の一人おあじをかどわかした。
おあじを人身御供で三股渕に沈めてしまった鈴川の住民達に、暫くして柏原の住民が、身投げをした
おあじの仲間6人の巫女を、神社に祀って供養しているという話が聞こえてきた。
それを聞いた鈴川の住民たちは、このまままでは自分達が悪者になってしまうと、慌てておあじは人身御供に
しなかったとして、阿字神社を建てて別の話を作った」
 となります。

 それが1年ほど前に阿字神社を話題にしたネットの記事を見付けた。それによると阿字神社は吉原駅の裏の
公園にあるらしく、何時か尋ねてみようと思っていた。
今回の百地蔵では鈴川付近には札所は無いが、丁度今日は時間的にも余裕があり、少し遠回りをするだけで
阿字神社に寄る事が出来そうなので寄る決断をした。

 阿字神社に寄る前に田子の浦港の前を通った。港を見てみようと寄ったが、フェンスに鍵が掛かり中には
入れなくなっている。港ってこんなに厳重なの? 漁港しか知らない私は、港の岸壁は魚釣りをする場所と
思っていたが、どうやら間違いのようだった。

 吉原駅の南口の前に公園がある。ここは海から富士山の帰りに歩く場所なので良く知っていた。だが
場所は知っていたがここに阿字神社があるとか知らなかった。
公園に来てみると新しい津波タワーが完成していた。これで何人の位が乗る事が出来るのだろう。
一番上に登ることができなくて、津波に浚われる事はないのだろうか。

      
                  田子の浦港                      津波タワー

 公園の中や周りを探したが阿字神社は見つからない、散歩中の人に聞いたが知らないと言う。
仕方ないので田子の浦港から見えた仏舎利の方に行ってみようと、公園から高台に登り西に向かう。
途中にあった人におあじの伝説を説明して神社の事を聞いたが
「この辺りには神社は無いし、そんな話も聞いた事がない」
とつれない。
妙法寺というお寺が出てきたが近くに仏舎利塔は見えなかった。寺の前を通り道なりに下ると、先程通った
田子の浦港に行く道に出た。もうこれじゃ仕方ない阿字神社は諦めて、今年の海から富士山の時は工事中で
海岸まで下りる事が出来なかった田子の浦漁港を確認にすることにして歩き出す。
すると道路脇に「海の見える丘公園」の標識が建っていた。
折角ここまで来たのだから高台から港を見てみようと、今下った道を登り直し、更に西にむかった。

 妙法寺の裏から高台の道は西に向かって延びていて、その入口に「阿字神社」の石碑が建っていた。
フーやっと見つけた。ネットに書いてあった公園とは、この港の見える丘公園の事だったのだろう。1年前に
見ただけなので私の記憶違いだったのだろう。
高台の上にあった阿字神社の鳥居には「阿字神社奥宮」の額が掛かっている。神社はコンクリ製で頑丈だが
風情は感じられない。案内板は立派な石碑で「阿字神社由緒」と彫られているが非常に見難いものだった。
ただその内容は一番最後に紹介した「京から戻ったおあじは、股渕に堂宇を築き一生を終えた」説でした。

 奥宮の近くに里宮の案内もあった。高台を下り港からの車道の脇に阿字神社の里宮はあった。そこにも神社の
由緒書があり、こちらはまだ新しく読みやすかった。
「阿字神社は天正の昔三ツ股渕の毒蛇に人身御供として進んでその身を捧げ人々の難儀を救おうとした
少女阿字と善龍と化した八大竜王をこの池を守る水穂の守として祀ったものである。(以下略)」

アレアレこの説明では、おあじは進んで人身御供になったとしてある。しかも柏原で身を投げた6人の巫女の
事には触れていない。さらに初めには毒としていたのが、善に代ってしまっている。これは誤って書いた
ものなのか、それとも故意に書いたのか。故意ならまさに毒善的だ。

里宮の前に小さな汚れて池があった。この池について由緒書には
「神池は竜王の棲む心字池として阿字神と竜王の聖地としたものです」 とあった。

 
             阿字神社奥宮                                阿字神社里宮
      阿児神社の地図
 この阿字神社のあった高台には他にも気になる物が建っていた。それは「見付宿跡」の記念碑だった。
吉原宿が津波の被害で、海岸から内陸に宿場が移った事は知っていたが、こんな海辺でしかも高台に宿場が
あったとは知らなかった。しかも宿場の名前が磐田と同じ見付宿とは驚いてしまった。
ともかく「見付と元吉原宿」の案内板を読んでみよう。
「鎌倉時代の初めころ、この辺りに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで
舟渡しをしていました。
 その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見附には、道者商人
問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになりました。
 しかし、この地は港からの高波や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、今の鈴川今井
地区へ所替し、まもなく吉原と改名され、東西の旅人で繁栄しました。
 慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって、東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されました。
しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替しました。」


理解しやすい説明で吉原宿の移転の経緯は分かった。だが見付の解釈が私の知識とは違っていた。
案内板では「見付で旅人を改め」とあるが、徳川時代では見付は枡形と同じような宿場の簡易防御施設で、関所の
ような役目が無かった。これは鎌倉時代は見付で関所のように人改めをやっていたという事なのか。
更に記念碑には「見付宿跡」と彫られているが、案内板の表示は「元吉原宿」とあるのだから紛らわしく感じる。

 吉原宿の変遷について「この駅の替わる事三度、往還の替わる事五度、駅名は昔古は見附宿と言えり。
鈴川村の西入口を今に元吉原という字残り、古帳面に鈴川村西灯籠川添い砂山きわに阿ち神下と有り。」

と古文書には記載されているようだが、実際は「見付宿⇒元吉原宿(鈴川今井地区)⇒吉原宿(依田橋)⇒
吉原宿(依田原)」
と4回変わったようだ。
 さらに追加するなら、この見附宿から舟で対岸に渡ったとあるが、ここから蒲原宿の海岸にも渡し船は
出ていたともあり、この見附宿はかなりの賑わいを見せていたようだ。

 
                       見付宿跡                         見付宿の案内板

 仏舎利塔は阿字神社山宮の隣に建っていた。その時はおあじの事や東海道の事で頭が一杯で仏舎利塔の由緒を
確認するのは忘れてしまった。
 湊の見える丘公園は仏舎利塔の隣で高台の西の果てにあり、その先の一段下は田子の浦港になっていた。
ネーミングは港の見える丘公園だが、実際は松が成長していて、港は樹間からしか見えない。その代り砦のような
感じの展望台があり、そこからは沼川や富士山が見えていた。(港は清々見えなかった)

       
                仏舎利塔                       港の見える丘公園の展望台

 田子の浦港に注ぎこむ沼川は、海水の逆流で周辺の農地は甚大な被害を受けていて、明治18年に石の水門を
造り、海水の逆流を防いでいた。その記念碑が公園の展望台の下に建っていた。
「石水門は、当時の最先端の土木技術を取り入れ、オランダ人の助言を受けて設計した静岡県最初のセメントを
使った石造アーチである。水門の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候悪化の
際は手動で門を閉じる事が出来た。伊豆石を用いた六連式アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。
しかし昭和41年に田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設により撤去された。」

 
 
                  展望台から沼川と富士山方向           沼川石水門記念碑  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿