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《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
かつての私が抱いていた「賢治像」といえば、ご多分に漏れず、
貧しい農民たちのために自分の命を犠牲にしてまでも献身しようとした超天才詩人であり童話作家
だった。そして、そう思った大きな理由の一つが、〔雨ニモマケズ〕だった。ところが、ここ暫く賢治のことを調べ続けてきた結果、〔雨ニモマケズ〕の中の、
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
についてだが、賢治がこのようなことを「羅須地人協会時代」に実践していたのかといえば、残念ながらそれらを裏付ける証言等を私は何一つ見つけられなかった。サムサノナツハオロオロアルキ
まず第一に、ちょうど賢治が下根子桜に移り住んだ大正15年といえば、岩手県はヒデリによって米が不作の年だったのだが、当時の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」などということはしていなかったことを私は知ってしまったからだ。
この時は稗貫郡も旱害だったが、とりわけ隣の紫波郡の赤石村、志和村、不動村、古館村等は飢饉一歩手前の未曾有の旱害罹災だった。それゆえ、その年末や明けて昭和2年の1月頃の『岩手日報』の記事を見てみればその罹災の惨状も容易に分かるし、その一方で、地元のみならず宮城県、そして東京(小学生からさえも含めて)等から陸続と救援の手が差し伸べられているということも分かる。ところが、「貧しい農民たちのために献身した」と私が思っていた賢治は、その12月には約一か月間滞京しているし、明けて1月中は羅須地人協会で協会員たちと「樂しい集り」を持ってはいたが、この時の大旱害に際して賢治や協会員たちが救援活動をしたという証言等は一切見つからない。言ってみれば、賢治はこの年に「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていたとは言えないのである。
そして第二に、昭和2年については多くの賢治研究家が「非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」のでその対応のために東奔西走したようなことを書いているが、この年が「非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」ことを裏付ける客観的なデータは何一つない。あるとすれば、昭和2年の稗貫郡は「羅須地人協会時代」の中では稲作期間の気温が最も高く、米の作柄はほぼ平年作であったということなどである。事実は全く逆である。言ってみれば、この年に「サムサノナツハオロオロアルキ」などということはしていなかったはずである。
そして第三に、昭和3年については、農繁期の6月に上京し20日間弱滞京していたし、帰花してからも何日間か「ぼんやり」過ごしていたということだし、実はこの年の夏は約40日間以上もヒデリが続いたのだが、この対応のために賢治が徹宵東奔西走したという裏付けも殆ど見つからない。つまりこの年も「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていたとまでは言えない。
したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は客観的には、
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
というようなことはしなかったし、
サムサノナツハオロオロアルキ<*1>
しようにもそのようなことはできなかったのだったとも言える。
おのずから、〔雨ニモマケズ〕に対する私の認識はかつてとはかなり変ってしまった。
こうなってしまうと、〔雨ニモマケズ〕の全文を一度見直してみる必要がありそうだ。もちろんそれは、
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』より>風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
というものだ。
そこで今度は、「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」に関して考察してみる。
実は、菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば、羅須地人協会の隣人で協会員でもあったという伊藤忠一が次のようなことを菊池氏に対して語ったという。
私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36p>「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
あるいはまた、佐藤勝治が「賢治二題」の中に書いてあるのだが、佐藤がD(投稿者が付けた仮名)に無理矢理、『いやな思い出があつたらきかせてくれとたのんだ』ところ、
Dさんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(投稿者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。Dさんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
もう一つの話は、Dさんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ(ママ)へ世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこでDさんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、Dさんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。Dさんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
<『四次元44』(宮沢賢治友の会)12p~>話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(投稿者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。Dさんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
もう一つの話は、Dさんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ(ママ)へ世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこでDさんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、Dさんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。Dさんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
と紹介している。
そこで私は、「羅須地人協会時代」の賢治は「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」という訳でもなかったということを知り、私の持っていた賢治像はかなり変ってしまった。
次に、「一日ニ玄米四合ト」についてだが、昭和7年6月1日付森佐一宛下書(419)の中の、
いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることに気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほう(ママ)たうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>という記述があることを知ってしまえば、「羅須地人協会時代」の賢治が玄米食だったとは言えないだろう。したがって、同時代の賢治が「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」であったということの保証はなさそうだ。
さらに「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」ついてだが、花巻農業高校に今建っている「賢治先生の家」を見ればすぐに、あるいは当時の「羅須地人協会」の建物の写真を見てみても、同時代の賢治が「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」という訳でもなかったということは想像に難くない。
畢竟するに、先の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」ということが「羅須地人協会時代」の賢治にはなかったのと同様に、ここに書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ……ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」全体についてもほぼ賢治がしていなかったか、できなかったことであったということになりそうだ。
しかも、これらを受けて賢治は最後に
サウイフモノニ/ワタシハナリタイ
と締め括っている訳だから、ここに書かれている多くの内容は賢治が実際にそうであったとか実践していたとかということではなく、これからはそうありたいという、純粋に賢治の祈りと願いであったということになるではなかろうか。ただし、
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<*1:投稿者註> 賢治が直接農業に関わるようになった「花巻農学校教師時代」~「羅須地人協会時代」(大正10年12月~昭和3年8月)の間に起こった冷害と旱害については、
大正13年、大正15年、昭和3年の旱害だけ
だったから、この時代の賢治には実質的には冷害の経験はなかったと言える。つまるところ、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思っても実はできなかったのだった。
なお、農学博士卜蔵建治氏が『ヤマセと冷害』において指摘していることだが、大正2年の大冷害以降はいわゆる「気温的稲作安定時代」が続き、昭和6年までは冷害だった年は一度もない。それどころか、昭和6年の岩手は暫くぶりの冷害に襲われたのだが、稗貫はほぼ平年作だったから、賢治は実質的には冷害を経験していなかったと言える。
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