みちのくの山野草

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2460 下根子桜時代の花巻の気象(#1)

2011-12-16 09:00:00 | 賢治関連
 この度、賢治が下根子桜に住まっていた期間の花巻のある気象データを知った。
 それは大正15年~昭和3年の稲作期間の気温と雨量のデータ、それも花巻のもの(『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行)より)である。
 それらを以下にグラフ化してみた。
《図1》

《図2》

《図3》

<いずれも『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>

1.大正15年
 先ずは大正15年分に関して確認してみたい。
 この年は、稗貫郡の隣の紫波郡内では赤石村を始め多くの村が大干魃に襲われた年であり、それは紫波郡のみならず稗貫郡も(当然花巻も)同様であって田植え時の梅雨期に雨が降らずに日照りが続き、逆に夏には長雨が続いたといわれている年である。つまり雨が降って欲しい時期には殆ど雨が降らず、逆に降って欲しくない時期には雨が降ったという年である。
 それは《図1》から、たしかにそのとおりであることが確認できる。特に6月については他の年に比べてみて明らかなように雨量が極めて少ない。したがって、この時期に灌漑用水が確保できない田圃の場合や地域は水稲にとって致命的になる。まさしく当時の赤石村などはその典型だったのであろう。その当時の新聞報道を見てみるとその切実さ深刻さがひしひしと伝わってくる(参照:〝水騒動とナミダヲナガシ〟〝紫波の農民の苦闘と苦悩〟)。
 なお意外だったのは、大正15年は旱魃だったとはいえ《図2~3》からはこの年の花巻の気温が例年に比べるとそれほど高かったわけではないことである。ただし6月の田植え時に灌漑用水を確保できなかったために苗が枯れてしまった田圃にとってはそれ以前の話だったのだろうが。
 とまれ、このような田圃の多い地域は早い時点から凶作になるであろうことが懸念されていた昭和3年だったということであろう。おそらく花巻の場合も、例えば、その当時豊沢ダムが未だ出来ていなかったから豊沢川流域の水田などは旱魃の被害が甚大だったに違いない。
 なお、大正15年の稲作期間に賢治が肥料設計(それは農閑期の冬期に行われたはず)に奔走したり、実際泥田に浸かってあちこちで稲作指導をしたということはなかったであろう。なぜならば、『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜の記載事項によれば、大正15年~昭和3年までの間の稲作期間に於ける賢治の行った稲作指導は
 ・大正15年:なし(何も書かれていないという意味)
となっているからである。もちろん、近隣の集落を回ってしばしば講演はしたようではあるが。

2.昭和2年
 ではこの年はどうだったのだろうか。《図1》よりこの年も6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましである。また《図2~3》からはこの年は気温も例年より高め、3年間の中でいちばん高いので稲作にとってはよい傾向の年だと思う。
 ところで岩手の農家が一番恐れているのが冷害で、一般に
  冷害=多雨冷温
という図式は成り立つが、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフから解るように
  多雨高温
であるからこの図式には当て嵌まらない。つまり昭和2年は冷害の恐れはあまりなかったのではなかろうか。
 一方、『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜によれば、昭和2年の稲作期間において賢治の行った稲作指導は
 ・昭和 2年:五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
とあるが、昭和2年の夏の天候は不順ではあったとしても、旱魃も冷害もそれほど心配されるような年ではなかったということがグラフからは言えそうだ。したがって、賢治が東奔西走したのは天候の不順ではなくて、彼の農民に対する想いがそうさせたということなのではなかろうか。
 また筑摩の『新校本年譜』には
七月中旬 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」を測候所に調査する事項「気温比較表ヲ見タシ 今月上旬ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク大ナルモノナリヤ 日照量ハ如何」などとメモ。…(略)…盛岡測候所の年々の記録を調べ…(略)…
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
とある。
 たしかに前のデータは『岩手県気象年報』に基づくものだがその発行人はそれこそあの福井規矩三であることからも、賢治が盛岡の測候所へ行って悉に調べたことであろうことが察せられる。因みにこの年の花巻の降雨量は賢治が懸念しているように、例年に比べて多いということがこのグラフから解る。
 なお、賢治はここで日照時間を気にしているが、この『岩手県気象年報』に花巻のそれは載っていなかった。
 そこで他を探したところ『岩手県気候誌』に「旬日照時間」という表があった。残念ながら花巻のそれはなかったが、盛岡や水沢のそれがあったか。そこで、どちらかというと気象が花巻に近いと思われる水沢のものについてそのデータをグラフ化すれば下図のようになる。
《図4》

《図5》

たしかに昭和2年の水沢に於ける日照時間は少ないから、花巻も似た傾向があったことであろう。

 なお、心配された昭和2年の作柄だが〝昭和2・3年の稲作と賢治〟でも触れたように
 ・昭和2年は6月の高温による水不足、7月の長雨などがあったが岩手県は平年作(反収1.94石)。
であったいう。

 長くなったので〝3.昭和3年〟については次回へ。

 続きの
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