《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)
かつて拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』を出版した際に、とある著名な賢治研究者から、
鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、…(略)…この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
というご意見を頂戴したことがある。そもそも、定立した仮説に対してたった一つの反例が突きつけられただけで潔く棄却せねばならないと認識・覚悟している私は、そうではなくて、初めて聞く「一本足で」というテクニカルターム?で私の仮説の棄却を迫っているようなこの方のご意見に沿えなかったので、いわば「一本足」論争をしたことがある。****************************************************************************************************************
昭和31年2月22日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著)には澤里武治の次のような証言、
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において…(略)…語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
が載っている。『上京タイピスト学校において…(略)…語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
これに対してこの方から、
「昭和二年の十一月ころ」
は澤里の言い間違いだし、この文章からは
澤里はこれを大正15年の12月のことだと修正している
と判断できるというようなことを言われた。
それに対して私は、
澤里は何ら自分の証言を訂正はしておりません。なぜならば、もし訂正する気があるのならば「どう考えても」という修飾はしないでしょうし、まして、「その十一月のびしょびしょ…」とは言わないでしょう。もし澤里が訂正したというのであればここは「その12月のびしょびしょ…」となっていなければならないからです。
と応えた。ある「伏線」
実はこの澤里の「どう考えても」の発言にはある「伏線」があり、昭和23年2月1日に発行された『續 宮澤賢治素描』(関登久也著)にも澤里武治の次のような証言が載っていて、
澤里武治氏聞書
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
これが、この件に関する澤里武治の証言の初出であり、いわば一次情報である。言い換えれば、「確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます」が実はこの「伏線」になっていたのである。
そして、昭和32年に再び関登久也がこの『續 宮澤賢治素描』等を基にして『岩手日報』に『宮澤賢治物語』として連載した際には、
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます
の相当部分が
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
となったのである。
当然、澤里は訝っていたのであろう。なぜなら、
たしか昭和2年の11月頃に賢治は上京した
という意味の証言を昭和23年に既にしていたのに、澤里武治が昭和32年頃に見せられた「宮澤賢治年譜」には、
昭和二年には先生は上京しておりません
となっていたということになるからである。
それゆえ、澤里武治は
「どう考えても」
という修飾をしたのであろう。
更なるご教示
なお、この場合の「どう考えても」についてこのある方から、
「どう考えても財布をカバンに入れてきたはずなのに、ないんですよ・・・家に忘れてきたようです」という場合など、自分が「どう考えても」そうであっても、何か「客観的な証拠」を突きつけられると、自分の間違いを認めざるをえない、ということは現実にありえますよね。
「どう考えても」という言葉には、そういう状況における用法もあることは、何はともあれまずお見知りおき下さい。
というご教示も私はいただいたのだが、先の澤里武治の「どう考えても」が、このご教示いただいた場合のような弁解としての「どう考えても」と異なっていると私には思える。おそらく、この方はこの「伏線」をお調べになっていらっしゃらなかったのではなかろうか……。「どう考えても」という言葉には、そういう状況における用法もあることは、何はともあれまずお見知りおき下さい。
そもそも、石井洋二郎氏が、
と言っているように、「あらゆることを疑」うことは大事だが、その場合には何でもかんでも疑えばいいというわけではなく、「一次情報に立ち返って……検証してみること」が重要なのだ。よって、論考における典拠は一次情報に立ち返るというのが原則であり・基本であろう。つまり、「一次情報に立ち返る」ことが重要である。なぜなら、二次資料、三次資料となるに従って情報源の信頼性や正確性が低下してゆくからである。ところが、このある方はその基本に則っていないのではなかろうか、と私には訝られたのであった。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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