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《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、前回なぜ私は
ただし、
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と尻切れトンボで終わったのかというと躊躇いがあったからだ。だがここではそれを隠すことなく恐れずに述べてみることにした。それは、賢治が陰で、実は
ミンナニデクノボートヨバレ
ていたということがあったのではなかろうかということをである。
なぜならば、教え子の一人照井保志(花巻農学校昭和3年3月卒)が(投稿者の私には一部意味不明な個所もあるのだが)、
向こうの方から来たね、今お嫁さんに来て、今もう77~78ですよね、その人が言ってましたよ、 来た頃の賢治先生はさっぱり評判もなにも良くないんだって。立派な宮澤家にとついで来たのに、宮澤先生は気の毒だな、あれでは 宮澤家ダメになるダメになると、こう言われたんですよ。
いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
だから私は今不思議で不思議でならない。その人が今素晴らしいでしょう。どういうことですか。世の中が本当の姿が今出てるんですよ。
花売りに行ってみたり、後にリヤカーなんかで引っぱってやったかな、そしてそれもね皆さんにくれてやったそうですね。だからあれ見てるとね、貰った人は良かったもしれないが、あれでは商売もなにも出来ないんじゃないかというような考え方やらなにやら。ああいう息子じゃ身上もたない、カマド返しだとかということ。
<『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)の「その3」より>いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
だから私は今不思議で不思議でならない。その人が今素晴らしいでしょう。どういうことですか。世の中が本当の姿が今出てるんですよ。
花売りに行ってみたり、後にリヤカーなんかで引っぱってやったかな、そしてそれもね皆さんにくれてやったそうですね。だからあれ見てるとね、貰った人は良かったもしれないが、あれでは商売もなにも出来ないんじゃないかというような考え方やらなにやら。ああいう息子じゃ身上もたない、カマド返しだとかということ。
と語っているからだ。
あるいは、飛田三郎も「肥料設計と羅須地人協會(聞書)」の中で、賢治が花巻農学校を辞めて「下根子桜」に移り住んできたことに対して周辺の人達が、
今度はむすこ(賢治のこと:投稿者註)がやって來た。それで「えたい」のしれない「ずほぅだい」(気儘勝手)なことをやりはじめた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44年)287p>と見ていたことを紹介していたからだ。
したがって、賢治が陰で「ミンナニデクノボートヨバレ」ていたということがあったのではなかろうか。冷静に、客観的に「羅須地人協会時代」の賢治の営為を思い浮かべてみれば、照井等の語っているこれらのことは否定しきれないということは私もそうだが、実は多くの人が思っているのではなかろうか。
のみならず、賢治自身も陰でそう呼ばれたりそのように見られたりしているということをうすうす気付いていた、あるいは自覚していたのではなかろうか。それはまず、伊藤忠一に宛てた昭和5年3月10日付賢治書簡の中に、
殆んどあすこでは はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
と自嘲的に詫びる程の賢治の「羅須地人協会時代」全否定があるからである。昭和5年3月であれば賢治は分別盛りの34歳頃であったはず。そのような賢治が、一回り以上も歳若い伊藤忠一に対して「殆んどあすこでは はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」と詫びるということは並大抵のことではない。余程の苦悩と懊悩の果てに辿り着いた、賢治の覚悟と決意がこのような想いを語らしめたと考えらるからである。おそらく、賢治は来し方を振り返りながら、とりわけ「羅須地人協会時代」の営為を悔いていた。あの頃の自分の営為は自分の「慢」が為せる業であり、今になってみればことごとく慚愧に堪えないことばかりであった、と。「あすこ」では高邁な理想を掲げてはみたものの為すべき事は為さず、逆に為すべからざる事ばかりを為してしまった、と。例えば、大正15年の紫波郡内の大旱魃の際などはその最たるものだ。あの大旱魃で紫波郡一帯の農民は悲惨の極みにあったというのに自分は何一つ救援活動をしなかったし、それどころか無関心でさえあったと。あまつさえ、その時期に自分は大金を使って約1ヶ月の滞京をしてしまったと、己を恥じて後悔した。当時の自分は全く社会性を失っていて、独善的なことばかりを為してしまった、などということをである。まさに、これでは俺(賢治のこと)はデクノボーじゃないかと。
これと似たようなことは「『春と修羅 第三集』の詩稿を整理した黒クロス表紙Eの力紙」にも「この篇/疲労時及病中の/心こゝになき手記なり」と書いてある<*1>から、この賢治の慚愧は一時的なものではなかったであろう。
そしてそれは『第三集』のみならず「詩ノート」にも同様な点が垣間見られる。その典型は私からすれば次の〝一〇三五〔えい木偶のぼう〕一九二七、四、十一、〟だ。
えい木偶のぼう
かげらふに足をさらはれ
桑の枝にひっからまられながら
しゃちほこばって
おれの仕事を見てやがる
黒股引の泥人形め
川も青いし
タキスのそらもひかってるんだ
はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)122p>かげらふに足をさらはれ
桑の枝にひっからまられながら
しゃちほこばって
おれの仕事を見てやがる
黒股引の泥人形め
川も青いし
タキスのそらもひかってるんだ
はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
たぶん近くの小作人であろうと思われる農民のことを、賢治は躊躇いもなく「えい木偶のぼう」と詰り、「黒股引の泥人形め」と蔑んだことがあったのだ。だが後に、実は自分こそその「木偶のぼう(デクノボ-)」そのものであったことに気付いて慚愧に堪えなかった。そこで賢治は、これからは「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と常に心懸けることによって、それまで何度もそうなっていた「慢」にこれからは陥らぬようにと戒めたのではなかろうか。
かつてとは違い、今の私は、〔雨ニモマケズ〕に書かれていることの中に賢治がそうであったとか、そのように実践したということはほぼないと知ってしまった。おのずから、そこに書かれていることには意味も価値もあまりないと思うようになってしまった。だが、賢治がかつて蔑んでいた「黒股引の泥人形」と自分も似たり寄ったりだったのだと賢治が初めて気付いたことに、そして「ミンナニ」そう呼ばれてもいいのだと覚悟したところに〔雨ニモマケズ〕を賢治が書いたことの最大の意味と価値があるのだと今の私は思っている。
そう捉えれば、賢治は「雨ニモマケズ」の最後を、
サウイフモノニ/ワタシハナリタイ
で締めくくったことを私は素直に理解できる。この〔雨ニモマケズ〕記載内容の殆どは賢治が実際には出来なかったり、あるいはしなかった事柄ばかりであり、逆に、「あすこ」で行った事どもは皆それらとは真逆の事ばかりであったということを賢治は「悔恨」し、それらの出来なかったり、為さなかったりした事どもを<*2>「懺悔」しながら、これからはせめてそうなりたいということで手帳に書いてみたものが〔雨ニモマケズ〕であったのだ、と。
どうやら、賢治自身も陰でそう呼ばれたりそのように見られたりしているということをうすうす気付いていたから、〔雨ニモマケズ〕をあの手帳に書き残したのではなかろうか。
だから、〔雨ニモマケズ〕は「祈りと願い」ということだけではなく、どちらかというと「悔恨と懺悔」だったのではなかろうかと、今の私は理解したがっている。
<*1:註> 木村東吉氏の「宮沢賢治・封印された『慢』の思想―遺稿整理時番号10番の詩稿を中心に―」によれば、これと似たメモが『春と修羅 第三集』の詩稿を整理した黒クロス表紙Eの力紙にあり、そこには「この篇/疲労時及病中の/心こゝになき手記なり/発表すべからず」とメモされているという。
<『国文学攷』第一七六・一七七号合併号(広島大学国語国文学会編2003年)40pより>
<*2:註> 詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』の第一章〝㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治〟をご覧頂きたい。
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『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
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