みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

農繁期の長期滞京はなぜ

2015-08-08 09:00:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 ところで、農繁期にあたる昭和3年6月のこの時期の上京だが、なぜ20日間弱もの長きにわたったて賢治は滞京していたのだろうか。『新校本年譜』には「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって…」とあるが、先に述べた「官憲から逃れるための「逃避行」」もその大きな目的であり、しかもその他にまだもあったということはないだろうか。
 そこで、この滞京期間中の賢治を知るために、当時の政次郎宛書簡のいくつか以下に掲げてみよう。
◇ 235 6月7日付
  七日夜八時 仙台駅ニテ
十一時仙台に着きましてすぐ博覧会へまゐりました。水産加工品は特に注意して数回みましたがたゞいまのところはいかにも原始的なものばかりで仕事の余地はあり余るとは思はれますが、確かに今后の数年の間には、一方で著しく進んでゐる菓子その他精製工業の技術から影響を受けて細かなものは沢山出るやうになると存じます。但し農産製造品との連絡はまだ当分は着くまいと思はれます。いづれ詳しく東京で調べてまた申しあげるか新法を作るかいたします。
大学も見せてもらひました。阿部末吉氏には掛けちがって会へませんでしたが、また文学の方の教授たちと古本屋で浮世絵をいぢってゐるうちに知り合ひになったりもいたしました。汽車に少し間があって少々停車場で待ちくたびれて居ります。
明朝五時には水戸に着き公園等を見て八時から農事試験場に参り多分明夕方東京に入ります。みなさま何卒お疲れにならぬやう、祈りあげます。わたくしの方の今度の旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません
◇ 236 6月8日付
 今夕無事東京に着きすぐに前の上州屋に泊ることにいたしました。明日以后約十二日はこちらに居りまして予定の調べをいたしたいと存じます。こちらも暖かさは大して変りありません。ご健勝を祈り奉ります。
   八日夜
◇ 237 6月12日付
 六月十二日朝
お変りはございませんですか。わたくしはお蔭で鯣の方の調べは大てい済み方法も前の考と大した相違なく充分やれる確信がつきました。次は昆布と松の葉、それから例の味噌ですが松の葉だけはこんどはできないかもしれません。
稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました。今日一日泊りで大島へ行って参ります。
船も大きく安心であります。みなさまお疲れないやう祈りあげます。
             <いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
 したがってこれらの書簡からは、賢治は水産物等に関する「新たな事業」に取り組もうとしていたのでもあろうということなどは推測できる。〝詳しく東京で調べて〟とか〝予定の調べ〟ということあれば、花巻を発つ前から賢治は父政次郎とその話をつけていたに違いない。そして父にはその調査のためには長期間を要すると念を押した上で賢治は旅に出ていたのであろう。さらに、その調査をするということを理由にしておそらく賢治はこの長期間の滞京費用を父から出して貰ったに違いない。当時賢治がその費用を自力で捻出する術は殆どなかったであろうからである。それにしてもこの時の長期間の滞京の大きな目的の一つが「新たな事業」に関わる〝予定の調べ〟だったとでもいうのであろうか…。
 私とすればまず気になることは、これらの書簡からは(書簡の中の「稲作の方はいゝ報告ができてゐて大ぶ手間が省けました」をどのように解釈すればよいのか迷うところではあるが)、上京中の賢治は故郷花巻の農民たちのことなどはそれほど気掛かりでなくなってしまっていたのかも知れないということである。因みにそれは「こんどの旅は大へん落ち着いて居りましてご心配ありません」と賢治がしたためていることからも窺える。ということは逆に、この旅に出る前は何かあるトラブルがあったのだが、旅に出たならばそれはひとまず落着した。『父さんには心配をかけたが、心配しなくてもいいですよ』と賢治は父に伝えていたのだというような解釈もできる。旅行に出た賢治の心中は穏やかであったのだ…。いや穏やかというよりは、賢治は後程澤里武治にあてた手紙で
    …六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っていることを併せて推測すれば、この長期間の滞京は賢治にとっては大好きな浮世絵を沢山見ることができ、築地小劇場などで演劇を幾度か鑑賞したり、丸善に行って本も沢山買ったりと、楽しくて嬉しくて仕方ない、寝る間も惜しむような(?)充実した日々を送っていたに違いない、とついつい邪推してしまう。なぜならば、この時期は田植えなどで猫の手も借りたいといわれるほどのまさに農繁期のこの時期であるはずなのだが、賢治ははたしてどれくらい故郷花巻の農家・農民や田植えの進捗状況を案じていたのかがこれらの書簡からはあまり伝わってこないからだ。そしてそれは、大きな目的の一つが「新たな事業」に関わる〝予定の調べ〟だったということについても同様あまり伝わってこない。
 なぜこんなことを私が言ったのかというと、それは『MEMO FLORA手帳』の存在とその中身を私が知ってしまったからだ。簡潔に言ってしまえば、もしかすると賢治にはこの頃になるとある新たな企てが生じていたのではなかろうか。

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