みちのくの山野草

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「しばらくぼんやりして居た」帰花後の賢治

2016-06-01 09:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「羅須地人協会時代」残すところ二ヶ月ほど
 さて『新校本年譜』によれば、6月24日に帰花した賢治のその後は次のとおりである。
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちと一緒に働いてきました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(投稿者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書(二)~(四))がある。これにより、少し目を患いながら二四日に帰ったこと、畑も庭も草ぼうぼうでひどい雨つづきであったこと、昨日からよい天気になり「じつに河谷いっぱいの和風」であること、などがわかる。
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるように堀籠に依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月の旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。下根子桜から豊沢町の実家に戻る。
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
 一方で、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月の項にはおしなべて次のようになっていた
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17、26年)所収年譜より>
そしてそのせいであろう、巷間
 昭和3年8月10日 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。……①
が通説となっている(のではなかろうか)。ということであれば、賢治に残された「羅須地人協会時代」は残すところ二ヶ月ほどとなった。
 したがって、巷間羅須地人協会時代の賢治は「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した」と云われているのだが、そのような「稲作指導」を羅須地人協会時代の昭和3年6月末までの間に行ったという具体的な事例は未だ殆ど見出せていないから、そのようなことを為したとすれば、理屈上はこの帰花後~8月10日の間に行われたということになろう。そしてまさに、この年譜の記述「心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し」はまさにそのことを如実に示していると言える。

〔澱った光の澱の底〕は還元できない
 まずは、先に掲げた『新校本年譜』の先頭の
    六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
という記載についてである。私はこの詩を最初に読んだ時にやっと安堵したものだった。なぜならば、「猫の手も借りたい」と当時いわれていた農繁期に、地元花巻の農民のことは忘れてしまったかのごとき20日間弱の滞京をしていた賢治の行為が私には合点できなかったのだが、帰花して初めて賢治はその長期の不在に良心の呵責を覚え、早速この詩に詠んでいるような内容の稲作指導を行ったのだと解釈ができたからである。
 ちなみにそれは次のようなものだ。
     〔澱った光の澱の底〕
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
   こゝではいつも
   電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き
   雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし
   麦もざくざく黄いろにみのり
   雲がしづかな虹彩をつくって
   山脉の上にわたってゐる
   これがわたくしのシャツであり
   これらがわたくしのたべたものである
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~より>
 この詩からは、帰花した途端に賢治は約20日弱にも亘る故里を離れての滞京を恥じ入り、これではならじと、「あした」からはかつてのような〝地人〟に戻らなければならぬと強く決意(こう解釈すれば、『新校本年譜』の推定どおりたしかにこの詩はほぼ帰花直後に詠んだと思われる)したのではなかろうかと忖度できる。下根子桜をしばし留守にしていたがために頭の隅に追いやられていた近隣の農家や農民のこと、わけても彼らの水稲の生育状況等が突如心配になってきた賢治であったにちがいない。
 しかしながら、ここまで何度となく「賢治の通説」は事実と違っていたことに遭遇してきた私としては、単純に鵜呑みはできない。検証してみる必要がある。まして、もともと詩というものは安易には還元できない。実際、
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
      …(略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう

ということになれば、かなり広範囲を巡回することになるし、それを「つぎつぎ」ということであれば、「眠りのたらぬこの二週間/瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た」賢治にとってはそれは無謀なものとなってしまう恐れがあることがすぐわかるからだ。
 そこでこのことを少し詳しく検証してみたい。そのために、この行程を地図上に書き加えてみると下図のようになる。
【巡回予定場所(二子、飯豊、太田、湯口、宮野目、湯本、好地、八幡、矢沢】

              <『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)より抜粋>
次にこの地図上で巡回地点間の距離を測ってみると、おおよその目安として、 
下根子桜→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→下根子桜
となろう。つまり
    全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となろう。では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻りきれるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと言われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。まして、その上に稲作指導のための時間を考慮すれば「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 そのうえ、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た

賢治にとっては、この詩に
    ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
    しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
    稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
    みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう

と詠んだようにはいかなかったであろうこと、この全行程を一日で廻りきるのはちょっと無理であろうことはほぼ自明であることがわかった。あくまでもこの詩は詩であり、このような東奔西走をこの頃に賢治が実際に行ったということはまずなかったであろうとならざるをえないだろう。
 しかも、次の7月3日付菊池信一宛書簡〔239〕には
お変りありませんか。先日は結構なものをまことにありがたう。肥料の本を自働車にたのんで置いてそれがしぱらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります。ちやうど追肥をしらべる時季ですが今年はこの通りの天候でとてもさきの見先もつきませんし心配なことは少しもありませんが追肥だけはみんなやらないことにしやうと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしやうと思ひます。お手数でも訊かれたらどうかさうご返事ねがひます。約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。   まづは。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)256p~より>
としたためられているから、菊池の住んでいる石鳥谷好地のなどはこの時には廻らずに、「約束の村」については7月下旬~8月中旬になってから廻ったという可能性がある。なぜなら、7月3日付書簡にて「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました」という滞京の内容を菊池に明かしているのだから、この詩でいうところの「あした」という日に賢治は菊池と会っていなかったであろうと判断できそうだからだ。
 となれば、あくまでも賢治は「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」と「前日」に思っただけのことであり、その意気込みをこの詩は詠んでいるだけだということになろう。以前の私であればこの詩を読んで、賢治ならばその「あした」にはこの地域をことごとく廻ったことであろうと思い込み、その超人ぶりにいたく感動していたはずだ。がしかし、もちろんそのような思い込みは排除せねばならぬことであり、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」はあくまでも賢治の意気込みを詠っているだけのことであり、それがその通りに行われたということを検証もなしに「歴史的時事実」に還元はできない。つまり、
 この詩〔澱った光の澱の底〕の内容を根拠として賢治はこの頃に「農民のために東奔西走した」ということなどはできない。
ということがわかる。 

しばらくぼんやりして居り
 となればやはり、通説となっている(のではなかろうかと思われる)
 昭和3年8月10日 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。……①
は厳しく検証されねばならない。
 そこで①について
 (1) 心身の疲勞を癒す暇もなかった。
 (2) 気候不順に依る稲作の不良があった。
 (3) 風雨の中を徹宵東奔西走した。
 (4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した。
の四つに分けてそれぞれ以下に再検証してみたい。
 まずは〝(1) 心身の疲勞を癒す暇もなかった〟についてである。さて、この「心身の疲勞」とは一体何を意味するのか。それを癒す暇もなかったということだし、8月10日から賢治は実家に戻っているということであれば、その時よりもしばらく前に蓄積した「疲勞」と考えられる。まして、賢治自身が「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで」と書簡(243)にしたためていたことに鑑みれば、この「疲れ」こそがこの「心身の疲勞」に当たるとほぼ言えるだろう。 
 一方、伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡(240)の下書の中には、
こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
               <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
とあって、「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました」と書いているから、帰花後も賢治は心身共に相当疲れが残っていたと思われる。
 ところが、時期は〔7月はじめ〕という推定ではあるものの、仮に昭和3年7月始めに賢治が「いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」とその下書に書いてあったとおりであるとすれば、この時の上京の際の疲れは7月初め頃にはもうすっかり取れていたと推断できる。
 ちなみに、当時の花巻の「天気一覧表」

に従えば、伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡下書(240)に、
 こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
という一文があるということなので、この書簡下書(240)が書かれた日は、「一昨日までは雨でした。昨日今日は…」に注意すれば、この「天気一覧表」からその日は7月5日であるとほぼ判断できるから、上段の「推断」を裏付けてくれる。そして、この頃から賢治は「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たということになろう。したがって、少なくとも7月上旬には「東京行」の際にたまった「疲勞」は癒されていたとほぼ断定できるだろう。逆に言えば、この時の帰花後~7月5日頃の間の賢治は、「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居」たので、「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した」ということはあり得なかったであろうことが導かれる。
 なお、賢治がこの書簡下書を書いたであろう7月上旬から約一ヶ月もの長時間が経った後の8月10日頃に家に戻った直接の理由に、この〝(1)〟がならないことはもちろんほぼ明白である。

現時点での判断
 したがって、
    賢治はこの時の帰花後~7月5日頃までの間は「しばらくぼんやりして居た」。
と判断してもほぼ間違いなさそうだ。おのずから、この間に「稲作指導のために東奔西走した」ということもあり得ないことにもなる。となれば、賢治が「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した」のは、理屈上は残された一ヶ月強の間にであったということとなる。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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