みちのくの山野草

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直接証拠探し

2019-03-12 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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3 直接証拠探し
 さて幾つかの証言によって、仮説「♣」、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……………♣
をここまで検証してきた訳だが、正直その行為は隔靴掻痒の感が否めない。いくら数多くの証言が仮説「♣」の反例とならなくとも、所詮今までの証言等はこの仮説の傍証でしかない。傍証をいくら積み重ねていっても、たった一つの直接証拠には敵わない。そこで私は澤里以外の人の直接証拠を探してみようと思い立った。
 では私が考えた直接証拠とは何か、それは日記である。賢治が下根子桜に住まっていた当時、すなわち大正15年~昭和3年の間の誰かの日記に仮説「♣」の正しさを直接証明できる証言等が記載されていたり、逆にこの仮説を否定することになる反例が書かれているのではなかろうかと思ったのである。
 そしてその「誰かの」であるが、私は次のような賢治周辺の人の日記にその可能性があるのではなかろうか考えた。
・伊藤忠一
・関登久也
・藤原嘉藤治
・堀籠文之進
・阿部 晁
・高橋末治
 では、まずは
 伊藤忠一の場合
 なぜ、伊藤忠一を考えたのかというと、『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)所収の〝座談会「先生を語る」〟の中で伊藤が、
 大正十五年一月だったと思う。日誌を見たら先生が一月十五日に町から大工さんを…
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)267pより>
と発言していたからである。そこで、私は伊藤忠一の生家を訪れて長男の和夫氏にその旨をお訊ねしたが、そのようなものはないということであった。
 関登久也の場合
 関登久也の場合については、『平成15年7月29日付岩手日報』紙上に「高瀬露に関連して関徳弥の昭和5年の日記が発見された」という記事が載っているからである。
 そこで、関登久也のご子息岩田有史氏をお訪ねしてこの件に関してお話をお聞きしたところ、父の遺したものは萬葉堂から北上市の日本現代詩歌文学館の方へ寄贈されているということだった。
 というわけで、次に日本現代詩歌文学館をお訪ねし、その寄贈されている中で日記等の資料閲覧を願い出たところ許可いただいた。それらは、
 ・昭和3年の短歌日記
 ・ 〃 8年の短歌日記
 ・KOKUSAI―NOTE(昭和9年8月31日~翌年1月28日)
 ・昭和14年の日記
 ・明日の仕事(昭和14年6月10日以降)
 ・開拓帳17年の日記
 ・写生(昭和17年10月10日以降)
 ・用件覚書(昭和18年12月5日以降)
 ・昭和19年の日記
 ・日記帳(昭和19年4月6日~12月3日)
 ・創作ノート(随筆、昭和13年の日記)
 ・TEIDAI NOTE(昭和12年3月16日より)
等であった。
 とりわけ、「昭和3年の短歌日記」が興味深かったのだが、残念ながら直接証拠となるような記載はそこにはなかった。また、大正15年や昭和2年の日記は所蔵されていなかった。なお、新聞にも載った昭和5年の日記も同館には所蔵されていない。現在は中部地方のある県のTUという方が所蔵しているという。
 藤原嘉藤治の場合
 藤原嘉藤治が当時日記を書いていたことは佐藤泰平氏や松本隆氏の著書からも分かる。そこで、藤原嘉藤治の生家をお訪ねして日記の閲覧をお願いしたところ藤原艶子氏より快諾をいただいた。ただし結論を先に言えば残念ながら大正15年~昭和3年の間のそれらはなかった。
 なお、藤原嘉藤治の日記関係リストは以下のとおりである。
 ・新文章日記 大正10年 文章倶楽部記者編
 ・当用日記 大正11年
 ・園芸日記 農業世界編 昭和9年
 ・青年日記 紀元2596年 大日本聯合青年団編(昭和11年)
 ・青年日記 紀元2598年 大日本聯合青年団編(昭和13年)
 ・青年日記 紀元2600年 大日本聯合青年団編(昭和15年)
 ・当用日記昭和17年
 ・昭和24年日記
 ・昭和25年日記
 ・昭和27年日誌
 ・昭和28年日誌
 ・昭和30年日誌
 ・当用日記1956
 ・自由日記1957
 ・広告手帳1958
 ・当用日記1959
 ・当用日記1960
 ・当用日記1961
 ・当用新日記1962
 ・Pocket Diary 1962
 ・当用日記1963
 ・当用新日記1964
 ・当用新日記1965
 ・当用日記1966
 ・当用日記1967
 ・農家日記1967
 ・当用新日記1968
 ・Pocket diary1970
<『藤原嘉藤治蔵書目録』(木村東吉制作)より>
 ということは、藤原嘉藤治はもともと大正15年~昭和3年の間は日記をつけていなかったのだろうか。それとも「堀籠文之進日記」同様所在が不明なのだろうか。なお、このリストにはあるのだが大正10年~11年の日記、及び『我が年譜』の現物も現在は藤原家には見あたらず、行方不明になっているようだ。
 堀籠文之進の場合
 「新校本年譜」をみれば、堀籠も当時日記をつけていたことがわかる(昭和3年3/13、5/3、5/16の記載等より)。おそらく大正15年~昭和3年の間もつけていたことであろう。さすれば、直接証拠を見つけ出せるかもしれないと思ったがそれもつかの間、がっくり。なんとなれば、「新校本年譜」(筑摩書房)の254pの脚注には、
 ただし、「堀籠文之進日記」は所在が不明のため再確認することができない。
とあるではないか。堀籠の日記閲覧は物理的にはもはや無理なようだ
 阿部晁の場合
 いわゆる〝阿部晁「家政日誌」〟なるものが存在するという。それは阿部晁が大正7年~昭和11年にわたって書き記した「家政日誌」であり、そのうちの宮澤賢治に関連する記事に関しての論考『阿部晁「家政日誌」による宮沢賢治周辺資料』(栗原敦・杉浦静著)があるが、その中から昭和2年11月頃~昭和3年1月頃前後のものを抜粋させて貰うと以下のとおりである。
【昭和二年】
○七月一六日
[往来・往]救世軍司令官山室女将講演 花城
○九月四日
[往来・来]堀籠教諭及宮沢賢治君
○九月一〇日
[往来・往]大沢温泉 佐藤院長及/宮政氏仝宿
○九月一九日
[往来・往]暁烏敏師大沢温泉へ案内
[贈答・受]暁烏氏ヨリ仏跡巡遊紀念トシテ其挨拶手製念珠及桓檀香木
○九月二〇日
[往来・往]暁烏敏氏「仏跡ヲ巡リテ」講演、女学校
○九月二二日
[往来・往]西田天香師講演 宗青寺/菊忠氏ヲ精養軒ニ招待 宮政君トシテ
○一一月一四日
[往来・往]八木英三君送別会
○一一月一八日
[往来・往]瀬川弥右ェ門
[贈答・進]松弥弟良蔵死亡ニ付御悔金壱円
【昭和三年】
○一月二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢政次郎家へおれんぢ貳本
○一月二〇日
[往来・来]宮沢賢治君
[要件・可]日蓮教会建立敷地トシテ南万丁目第十二地割二十二番原野ヨリ一歩(六十銭)二十六番畑ヨリ九歩(九円)分割売却ノ交渉ヲ宮沢花銀常務代理宮沢賢治ヨリ受ケ承諾ヲ与ヘタリ
[備考]日蓮教会発起人/佐々木源吉ト秋穂泉森宮恒松弥ノ四名ナルベシト思フ云々―宮沢君〔?〕
○一月三〇日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・受]宮政方ニテ白酒又鍋焼ノ馳走ヲ受ク
[備考]花巻座ニ於テ発生映画ヲ視ル
○二月十六日
[文書・発]宮沢賢治君ヘ来演依頼
<『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)168p~より>
 私はこれを見て、
【昭和三年】
○一月二〇日
[往来・来]宮沢賢治君
という記載があったので一瞬ヒヤッとした。がしかし、この時期、1月も下って20日の賢治来訪であれば、仮説「♣」の反例とまではならないだろうということで胸をなで下ろした。この頃になってやっと賢治の病気は癒えたとすれば説明がつくからほっとした。
 そしてほっとした途端、今度は喜びに変わった。それは、この阿部晁の日記のこの記載は賢治が昭和3年1月中には花巻に戻っていたことの証左となっているからである。
 先に〝(10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」〟で述べたように、仮説「♣」においては語句「頃」を本来は付けねばならなかったのだが私は先のような理由から判断してそれを付けなかった。ところがその判断が正しかったということを阿部晁の「家政日誌」は示してくれた。つまり、阿部晁の「家政日誌」の「一月二〇日 [往来・来]宮沢賢治君」の記載は仮説「♣」を裏付けてくれる。
 高橋末治の場合
 「新校本年譜」の昭和2年3月4日には、
 二月二七日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
 湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮沢先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
<「新校本年譜」(筑摩書房346p)>
という記載がある。
 そこで、この人物高橋末治を探すために花巻湯口の鍋倉堰田をさまよってみたのだが、全く関連情報は掴めずにいる。
 一方で名須川溢男の論文「宮沢賢治とその時代」(『宮沢賢治 童話の宇宙』所収)によれば、「高橋末治日記」に書いてある賢治関連の右記以外の記載内容は次のとおりである。
 ○大正十四年十二月二十日 晴 雲り
自分前八時家を出て地森まで宮沢先生のむかいに行ッタけれ供も都合に衣り(ママ)来られなかっタ為免農学校まで六人て行ッ多后六時頃帰る
 ○大正十五年五月二日 晴天
前九時頃幸助様宅に宮沢先生来られて肥料の話をしてくれました
 ○大正十五年九月二十三日 晴天
宮沢先生わざわざ稲見に来られました
 ○大正十六年 昭和二年二月十九日 雲り
宮沢先生八木先生二名宝閑学校来て我等有益な講話して聞されました
 ○昭和三年二月十八日 晴天
花城学校に於て宮沢先生は、土地改良と稲作の話を聞いて帰りました
 ○昭和三年三月三日 大吹雪
宮沢先生に肥料の事にて行く
<『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)122p~より>

 結局は、直接証拠が記されている可能性の頗る高いこれらの日記であるが、以上の6名の日記の現物については現時点では一切見ることができずにいる。
 もしそのようなものが見つかって、その中の記載事項によって仮説「♣」をずばり証明できればそれに越したことはないが、もしそこに反例が見つかれば、今までの私の取り組みはあっけなく水泡に帰す。したがって恐ろしい一面もあるものだが、基本的には私は真実を知りたいだけだから水泡に帰すことも甘受する覚悟はしているので、是非これらの人の書いた日記の現物を見てみたいものである。
 それにしても、直接証拠となりそうなことが書かれている可能性の高い彼等の日記が、存在していたはずと思われる彼等の日記がこうもものの見事にないとか、現在行方不明になっているとかということであり、一体これはどうしてなのだろうか。
 ここまでを終えての結論
 以上でとりあえず予定していたものについての検証等は全て終了した。その結果、これまでに検討した証言等は仮説「♣」を裏付けるものは幾つかあったが、一方で反例となり得るものは何一つないこともわかった。したがって、この仮説は案外荒唐無稽でないのかもしれない。これがここまで検討してきてみての感想である。

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             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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