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みちのくの山野草

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『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)

2021-05-22 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、では今度は『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)からである。
 まず改めて通読してみたのだが、懸案事項に関してせいぜい見つかったのは、「澤里武治氏聞書」の中の、
 私の家の所有の山(二ヶ處の石灰山です)の石灰をご覧下さつて、そのどちらの石も大變おほめに下さいました。
             〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)71p〉
ぐらいのもの。とはいえ、これから得られる目新しいものは私にはあまりない。
 というわけで、残念ながら今回も、同書の中に東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関しても言及はほぼ見つからなかった。したがって、この時点(昭和23年2月)になっても、これらのことはそれほど重要視されてはいなかったということになりそうだ。

 なお、通読して改めて気になった事柄は以下の二点である。
⑴ まずは、「平來作氏聞書」の中の次の記述、
 あるひでりの年でした。農村は一滴の水もなくなり、稻も野菜もかさかさに枯れはてるやうな年でした。私達は朝起きると赤い空を仰ぎ、どうかして雨は降らぬものかと嘆息しました。民は神社へ行って雨乞ひをしたり、 農民は天の無情に每日々々ためいきをついてをりました。私はその時、堅く先生の力を信じてゐたので、先生が雨を降らせて呉れないだらうかと、先生の力に賴る氣持でいつぱいでした。
             〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)16p〉
である。
 もしこの追想が「羅須地人協会時代」に対してのものであれば、それはおそらく昭和3年の例の「四十日以上打ち續く日照り」のことを指すであろう。しかし、この年の賢治は6月7日~同24日の間は上京、そして、帰花後もしばらく体調不良でぼんやりしていたという賢治だったし、8月10日以降は実家で病臥していた。そして、この年の稲作は平年作以上だった(まさに、「ひでりに不作無し」の年だった)。したがって、平がいくら「先生の力に賴る氣持でいつぱいでした」としても、賢治はそれにほぼ応えられなかったはずだ。また、大正15年の稗貫もその傾向があって、とりわけ隣の紫波郡等は未曾有の大干魃であったからこの「あるひでりの年」とは、もしかすると大正15年のことかもしれない。しかもこの年のひでりは、昭和3年のそれとは違って「ひでりに不作」だったので、地元はもとより全国から救援の手がとりわけ12月頃に赤石村等に対して陸続と差しのべられていたのだが、不思議なことに、この時の賢治がそのようなことをしたということを裏付ける証言等は何一つ残っていない。したがって、いくら平が「堅く先生の力を信じてゐた」として、賢治がそれに応えることは物理的にはもちろんのこと、実際もしなかったと判断せざるを得ない。それは、その12月のほぼ一ヶ月間賢治は滞京していたことからほぼ明らかだからだ。あるいは、当時の協会員の証言からも、そのことは傍証できる<*1>。
 したがって、この両年のひでりの際に賢治はいわば「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」ことになる。これが私の検証結果だが、その妥当性を平のこの追想は逆説的に裏付けているとも言える。

⑵ 次に、「安藤晋太郎氏聞書」の中の次の記述、
①当時先生に金肥に就いて、その使用方法、或は使用の可否をおたづねしたら、化学肥料は成可く少量使ひ、使ふに際してはよくその土地柄を考へたり、作物の種類を考慮したりしなければならぬと申されました。…投稿者略…金肥の使用を一歩あやまれば、草の丈だけ伸びて収穫が上がらぬこともあるし、金肥使用のことは十分に注意をお拂いなさいと、懇々と申されたことを覚えてゐます。
             〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)75p~〉
②金肥のうちではその頃一番割安で速効のあるのは硫安でした。だがその使用方法をあやまると時に害を殘すので、その使用分量なども先生に教へて頂きました。
             〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)77p〉
③硫安はかなり高価だつたので、使用方法に大いに考慮を払はねばなりませんでした。然しかなり効果が上がるものですから、使用したいのですが、それでは収支がつぐなひませんから……。
             〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和23年2月)79p〉
である。
 この「安藤晋太郎氏聞書」の始めの部分には、安藤は当時花巻郵便局に勤めながら農業に携わっており、農事について熱心な研究家でもあり、下根子の農団会や村農会の会長も務めたということも書いてあり、安藤は熱心な研究家だったと言えるだろう。
 したがって、そのような安藤が言っていることだから、①は事実であった蓋然性が高かろう。つまり、賢治は化学肥料を奨めたがむやみやたらに奨めたわけでもなかったと言えそうだ。ただ、そのような安藤であるならば、②の「一番割安」と③の「かなり高価」とは矛盾しそうなので、多少不安がよぎってしまうのだが。
 また一方で、この「安藤晋太郎氏聞書」の中には農業について詳しいはずの人物であるはずなのに石灰についての言及は何ら見つからない。ということはやはり、農家にとって石灰はそれほど重要視されていたわけではなさそうだ。

<*1:投稿者註> 羅須地人協会の会員伊藤克己は、
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…投稿者略…
 晝食は各々持参の辯当や握飯を開いて食べたが、私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。
             <「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版))より>
と語り、同じく会員の高橋光一が
 月に何回かの集まりでしたが、勉強の合い間には、みんなで小豆汁をこしらえてたべたりしたこともありました。
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神楽やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
「唄って踊って太鼓もたたく。この三つが一緒にやれるものはそうあるものでなく、ごく上等なものです。」と、ふだんも云って居られました。
 又、手帳に「風の又三郎」を書いて居るところだとのことで、その場面をつぎつぎに讀んできかされました。
             <「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
と会員達が語っているから、下根子桜では冬、楽しい集まりが開かれていたと言える。さて、ではこの「樂しい集まりの日が多かつた」冬とはいつのことかというと、それは昭和2年の1月頃のこととなる。大正15年の12月は滞京していたし、昭和2年2月になったならば、2月1日の新聞報道が切っ掛けで宮澤賢治は即楽団を解散し、それ以降、羅須地人協会の活動は自然消滅してしまったと言えるからである。

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