みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1992 甚次郎に託した賢治

2011-02-06 11:00:00 | 賢治関連
《↑「松田甚次郎」後列中央*》
<「土に叫ぶ館」(『「賢治精神」の実践』(安藤 玉治著、農文協))より> 

 折角本格的に始動した私塾「羅須地人協会」の活動ではあったが、それはあっけないもののようだった。
1.楽しかった下根子の冬
 羅須地人協会の会員伊藤克己が
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(略)…
 晝食は各々持参の辯当や握飯を開いて食べたが、私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。

        <「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版))より>
と語り、同じく会員の高橋光一が
 月に何回かの集まりでしたが、勉強の合い間には、みんなで小豆汁をこしらえてたべたりしたこともありました。
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神楽やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
「唄って踊って太鼓もたたく。この三つが一緒にやれるものはそうあるものでなく、ごく上等なものです。」と、ふだんも云って居られました。
 又、手帳に「風の又三郎」を書いて居るところだとのことで、その場面をつぎつぎに讀んできかされました。

     <「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
と会員達が語るような下根子桜での冬の楽しい集まりはいつまでも続くということはなかった。
 もちろん賢治自身も次のように詠んでいるから、
  〔こっちの顔と〕
   こっちの顔と
   凶年の週期のグラフを見くらべながら
   なんべんも何か云ひたさうにしては
   すこしわらって下を向いてゐるこの人は
   たしかに町の二年か上の高等科へ
   赤い毛布と栗の木下駄で
   通って来てゐたなかのひとり
       …(略)…
   けれどもいまになって
   われわれが気候や
   品種やあるひは産業組合や
   殊にも塩の魚とか
   小さなメリヤスのもゝ引だとか
   ゴム沓合羽のやうなもの
   かういふものについて共同の関心をもち
   一諸にそれを得やうと工夫することは
   じつにたのしいことになった
   外では吹雪が吹いてゐてもゐなくても
   それが十時でも午后の二時でも
   二尺も厚い萓をかぶって
   どっしりと座ったかういふ家のなかは
   たゞ落ちついてしんとしてゐる
   そこでこれからおれは稲の肥料をはなし
   向ふは鹿踊りの式や作法をはなし
   夕方吹雪が桃いろにひかるまで
   交換教授をやるといふのは
   まことに愉快なことである

    <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
さぞかし楽しかったはずだが…。 

2.賢治の落胆
 ところがそれも束の間、昭和2年2月1日の新聞報道が切っ掛けで宮澤賢治は即楽団を解散した。さらに、社会主義教育を行っているのではないかとの疑いを持たれ、宮澤賢治は花巻警察署から事情聴取を受けたようだ。私塾としての活動の一つ、伊藤克己の言うところの「農民講座」の講義だけはその後もしばしもたれたようだが、少なくとも4月以降はもたれた様子はない。その後は、私塾としての活動は少なくとも表立ってはなかったようだ。

 前年の大正15年4月、理想に燃えて下根子桜に居を移して農耕自活を開始。同8月にはそこに私塾「羅須地人協会」を開設し、楽団もいよいよ練習に熱が入り出した。一方、理論的な拠り所としての「農民芸術概論綱要」もねりあがり理論武装も出来た。同12月からは「農業講座」も始まった。いよいよ本格的に私塾「羅須地人協会」の活動が軌道に乗り始めた矢先のこの新聞報道であった。
 皮肉にもこの記事が切っ掛けで、その記事に載っていた『農民劇農民音楽を創設して家族団欒の生活を続けて行きたい』とか『協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月慰安デーを計画』していて『目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる』という目論見はあっけなく潰えた去ったのである。さぞかし賢治は落胆し意気消沈していたことであろう。

3.松田甚次郎への〝訓へ〟
 そんな矢先の昭和2年3月8日、下根子桜に松田甚次郎が賢治に挨拶に来た。そのときの様子を甚次郎は次のように語っている。
 明石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
 …(略)…
農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。

   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
実際に、この〝訓へ〟こそがその後の甚次郎の行動規範となったようだ
 一方では、この念を押すような『黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ』という賢治の強い言い方には、賢治が下根子桜で実践したかったがなしえなかったことを甚次郎に是が非でも託したかったからであろうということが感じ取れる。

 また、賢治が詰った『そんなことでは私の同志ではない』の一言がポイントの一つかなと思う。この発言に対応するのが『小作人たれ 農村劇をやれ』だから、これを実践することが賢治の「同志」となるということになる。

 逆に言えば、賢治もその志を同じくする事になるわけだから賢治が下根子桜で行いたかったことの大半は
(1) 小作人のような生活をしたかった
(2) 農村劇をやりたかった
という論理になるであろう。
 因みに前者(1)に関しては千葉恭が『大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的』でしたと証言している事とも符合し、千葉の言に従えば、下根子桜で貧乏百姓と同じやうな生活(小作人のような生活)をすることが賢治の目的だったということになるからである。一方、後者(2)については『農民芸術概論綱要』の実践そのものだと思うからである。 
 ところがそれらが出来なくなりつつあると賢治はこの時点で判断していた。そこで賢治は己のその夢を松田甚次郎に託し、その実践を希ったのであろう。

 実際それ以後、格調高く謳われた『農民芸術概論綱要』の芸術論が賢治によって実践に移されたことはないようだ。
 もはや賢治に残されたことは「菩薩行」のごとき稲作指導<*1>であり、献身的な肥料設計だけだったようだ。

<*1:註> 平成31年1月25日(金)追記。
 今から8年前(2011年)頃はこう思っていたことを知って複雑な気持ちだ。
 当時は巷間云われている賢治像を私は素直に信じていたということになろうか。今となっては、当時の賢治は幾ばくかの肥料設計や稲作指導をしてやったことは確かだと私も思うのだが、少なくともそれが「菩薩行」と言えるようなレベルのものだったとは思えない。
 もし賢治の稲作指導等がそのような素晴らしいものであったとすれば、花巻のどこかに賢治の稲作指導等を顕彰する碑等が建立されているはずだ。がしかし、そのような人物であった田中縫次郎リンゴ博士島善隣の顕彰碑は建っていても、どこを探しても賢治のそれは見つからないことからも、そのことはほぼ明らかであろう。
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<余談>
 このブログのトップの写真を見てあれっ!と思った。松田甚次郎が着ているジャケットは昭和14年3月に来花したときに着ていたジャケットと同じだからである。おそらく、当時の松田甚次郎にはこれが一張羅だったのだろう。

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