みちのくの山野草

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「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治

2019-08-22 16:00:00 | 子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない

 さて前回私は最後に
 「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまう。
と述べたのだが、このことを次に検証してみる。
 まずはそのために、その行程を『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)の地図上に書き加えてみると下図のようになる。
【巡回予定場所(二子、飯豊、太田、湯口、宮野目、湯本、好地、八幡、矢沢】

              <『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)より抜粋>
 次に、この地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
   全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
 では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻り切れるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても、
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、前掲の詩〔澱った光の澱の底〕において次のように、
 眠りのたらぬこの二週間
 瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
と詠んでいる賢治には、このような行程を一日で廻り切るのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することがまずできなかったということである。
 最後に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる(賢治不在)。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったということになってしまう。

 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年のヒデリを心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るかということでここまで考察してきた。たしかに、この年の夏は稗貫郡でもヒデリが続き、しかも、約40日以上ものそれが続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にも拘わらず、上京・滞京していてしばらく故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからして、昭和3年の夏のヒデリやそれによる農民の労苦を賢治がそれほど気に掛けたり心配したりして奮闘していたとはとても言えない。言い換えれば、稲作指導者という立場から、賢治が昭和3年のヒデリを心配して農民のためにいろいろと手立てを講じた、いわば「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たのだが何の役にも立たなかった、というようなことが実際にあったとは言えない。
 だから、この年の「ヒデリノトキ」に賢治が仮に「涙ヲ流シ」たとすればそれは稲作指導者という立場からではなくて、自分自身の無為無策に対してだったとなるだろう。そして実際、当時の賢治は稲作指導を殆ど放棄していたとも見られるから、己の情けなさに対して「涙ヲ流シ」たということは充分にあり得る。しかしそれでは、その「涙」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまい、単に己の不甲斐なさに対しての「涙」だったとなってしまう。「ヒデリ」とは直接的な関係がないそれになってしまう。

 という次第で、
 稲作指導者としての立場から賢治が昭和3年の約40日以上もの「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」た、というようなことなどはなかった。
とならざるを得ないので、結局、客観的にも稲作指導者としても、
    昭和3年の賢治が「ヒデリノトキハミダヲナガシ」たとは言えない。
という結果になってしまった。つまり、大正15年のヒデリの場合と同様な賢治がそこに居たということになるから、この結果と先の検証された〈仮説3〉とを併せることによって、
    〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が検証されたということになる。
 つまり、
 「羅須地人協会時代」の大正15年と昭和3年の稗貫郡等はヒデリの夏だったのだが、残念なことに、両年共に「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治であった。
ということにならざるを得ない(そう、それ故にこそこのようなことを悔いて、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ…(投稿者略)…サウイフモノニワタシハナリタイ」ということなのだ、きっと)。

 だから私は大人に言いたい。これからは、子どもたちに、
    賢治さんはお百姓さんたちのために「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たのですよ。
などと教えることはもう止めませんか、と。そんなことをしたならば、純真な彼らを騙すことになりかねませんよ、と。
 そして同時に問いたい。「大正15年の大旱魃と賢治の営為」についてどうして今まで、誰一人として公的に論じてこなかったのですかねと。それは、このことについてズバリ論じた賢治研究家等の論考を、私は今までのところただの一編も見つけられずにいるからである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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