みちのくの山野草

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『農民藝術 No.5』(農民藝術社、昭和22年11月)

2021-05-17 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 では今回は『農民藝術 No.5』(農民藝術社、昭和22年11月)からであるが、せいぜい見つかったのは次のような断定だけだった。
 彼は冷害といふ自然の猛威から、稲と人間との生活を守り、厳然と身を挺した。一月給取である農事試験場のお歴々や、農業指導員には決して出來ない仕事である。
             〈『農民藝術 No.5』(農民藝術社、昭和22年11月)16p~〉
 そしてもちろん、私からすればあまりにもこれはバイアスのかかりすぎた「断定」だから、論考の資料たり得ない。なぜならば、卜蔵建治氏が『ヤマセと冷害』(成山堂書店)の15pにおいて指摘しているように、当時(賢治が盛岡中学卒する大正3年~昭和5年まで)は「冷害空白時代」であり、岩手では冷害はなかったからである。あったのは、大正15年の紫波郡の大旱害を始めとする旱害である。また、昭和6年は岩手は確かに冷害だったが、稗貫郡だけはほぼ平年作だったから、「彼は冷害といふ自然の猛威から、稲と人間との生活を守り、厳然と身を挺した」という断定の仕方には無茶があろう。しかも、前掲の大旱害の際に、全国から陸続として隣の郡紫波郡には全国から陸続として支援の手が差し伸べられたが、その時に賢治や羅須地人協会員がそうしたという証言や資料は何一つ見つからない。あの、賢治精神を実践した山形の甚次郎はその時の大旱害の際に紫波郡の赤石村を南部せんべいを配りながら慰問したというのに、である。

 なお、『農民藝術 No.5』の中には東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関しても言及は一切見つからなかった。

 したがって、そろそろ結論がぼんやりと見え始めた。
 少なくともこの頃(昭和22年頃)までは東北砕石工場技師時代の賢治も、賢治の石灰施用についてもあまりに評価されていなかった。
というような。

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