みちのくの山野草

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昭和3年の「ヒデリノトキニハ涙ヲ流」す必然性などなし

2019-08-21 10:00:00 | 子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉

 ところで、「羅須地人協会時代」にヒデリの夏だった年は大正15年だけではなく、周知のように昭和3年もそうであり、同年の夏の花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。そしてこのことは次のようなことなどから裏付けられる。
 例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』には次のような記事、
 四十日以上打ち續く日照りに陸稻始め野菜類全滅!! 大根などは全然發芽しない 悲慘な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帶の地方の陸稻は生育殆と停止の狀態にあり兩三日中に雨を見なければ陸稻作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
が載っている。また、昭和3年の『阿部晁の家政日誌』には、
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ
 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ
 稲作モ畑作モ大弱リ
という記述があり、さらには、『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)の20pには、
 昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴
という記録がある。
 よって、昭和3年は7月半ば頃から約40日以上もの間、少なくとも稗貫郡ではヒデリが続いたことはまず間違いだろうし、盛岡だけでなく、花巻一帯も同様に「陸稻始め野菜類全滅!!」であったであろうことはほぼ自明だ。そしてもちろん、これだけ雨が降らなけば水稲が心配だと思う人もあるかもしれないが、この時期のそれであれば、田植時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はあまり心配なかったであろう。それどころか逆に、この地方の言い伝えにあるように「日照りに不作なし」ということで農民はひとまず安堵し、稔りの秋を楽しみにしていたと言えよう(大正15年の大干魃被害というのはこの年と違って、梅雨時に、本来ならば降るはずの雨が全く降らなかったから田植ができなかったことや、田植をしたものの田圃に用水が確保できなくて干からびてしまったことによるものだ)。そして実際に、この昭和3年にヒデリによって稗貫郡の水稲が不作だったという資料も証言も共に見つからない。

 ちなみに昭和3年の稗貫郡内の米の予想収穫高については、同年10月3日付『岩手日報』に、
      県の第一回予想収穫高
    稗貫郡 作付け反別 収穫予想高  前年比較
    水稲  6,326町   113,267石   2,130石
    陸稲   195町    1,117石  △1,169石
    合計  6,521町   114,384石    961石(0.8%)

というデータが載っている。懸念されていたように陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減であり、予想収穫高は前年の半分以下ということで確かに激減しているが、当時の稗貫郡の稲作における陸稲の作付け面積はほんの僅かにすぎない。具体的には、195÷6,521=0.03=3% だから、同郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかるし、水稲と陸稲をトータルすればその予想収穫高は前年の昭和2年よりも961石(0.8%)の増だった。したがって、水稲と陸稲を併せて考えれば稗貫郡内の米は不作だったというわけではやはりなさそうだ(なお県全体としては、同紙によれば「昭和3年は、水稲と陸稲を合わせて、前年比35,951石の減収予想である」ということであった)。
 それから、この年に賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」と時に云われているようだが、この病気は「低温・多湿・日照不足」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病に罹った稲があったにしても、この年の夏の稗貫郡内は約40日間ほども雨が一切降らなかったということだから「多湿・日照不足」であったとは言えないので、稲熱病が蔓延する条件は成立しない。したがって、理屈としては昭和3年に稲熱病による不作ということは稗貫郡では起こり得ないはずだ。すると、このことと先の新聞報道から、
    昭和3年の夏に稗貫郡は確かにヒデリではあったが、米の作柄は平年作以上であった。………◎
と推測<*1>できる。

 では、実際には昭和3年の米の出来はどうであったのであろうか。昭和4年1月23日付『岩手日報』によれば、
      昭和3年岩手県米実収高
    水稲の反当収量は1.988石で前年比3.6%増収
    陸稲の反当収量は0.984石  〃 13.7(?)%減収
    全体の反当収量は1.970石  〃  3.3%増収

ということであった。さらには、
   岩手県産米の実収高は、最近五ヶ年平均収穫高(平年作)比 43,474石(4.1%) の増収である。
ということも報じていた。そして、同記事の中には昭和3年の岩手県の天気概況等について、
 …七月中旬に及び天候一時囘復し氣溫漸次上昂して生育著しく促進し、分けつ數も相當多きを加へたり、然るに七月下旬に至り気溫再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し結實□(?)合に完全に行はれ豫想以上の収穫を見又陸稻は生育期に於いて縣下各地に旱害をこほむり、作況一般に不良にして作附段別の增加に反し前述の如き著しき減収を見るに至つた、今郡市別に米實収成績を示せば左の如し
  岩手県米實収穫高
  前五ヶ年平均  一、〇五二、九四〇石
  昭和二年   一、〇六一、五七八石
  大正十五年     九四七、四七二石
ということも報じられていた(なお、このデータから昭和2年も平年作以上だったことも分かる)。

 ということは、「縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し……豫想以上の収穫を見」と記事にあるので、稗貫郡は「縣南」に位置していることと、そしてまた、「豫想以上の収穫を見」たということから、当初「豫想せられた」稲熱病は稗貫郡でも猖獗しなかったということもこれでわかった。よって、先に私は、
 この年の夏の稗貫郡内は約40日間ほども雨が一切降らなかったということだから「多湿・日照不足」であったとは言えないので、稲熱病が蔓延する条件は成立しない。したがって、理屈としては昭和3年に稲熱病による不作ということは稗貫郡では起こり得ない。
というようなことを推測したわけだが、その推測どおりだったということが導かれる。当然、この年に賢治が「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」というようなことは現実的にはあり得なかったとなる。
 なお、前掲の昭和4年1月23日付『岩手日報』は、「郡市別に米實収成績を示せば左の如し」と述べておきながら、実はその記載がなかったので残念ながら稗貫郡の詳細はわからなかった。とはいえ、前述したように、昭和3年の岩手県全体としての予想収穫高は当初、前年比35,951石もの減だったのだが、実際の収穫高は「減収」の予想とは逆に、何と
 昭和3年の岩手県産米の実収高は平年作比43,474石(4.1%) 増(反収でも3.3%増、作柄はやや良)。
という「増収」であったことを同紙は報道していた。実際の作柄はやや良、平年作以上だったのだ。
 となれば、稗貫郡以外がとてつもなく予想収穫高よりも増えたということは考えられない(実際、そのような報道も見つからない)から、まず間違いなく稗貫郡も予想より増えたであろう。仮に百歩譲ったとしても、前掲の「昭和3年の稗貫郡の米の予想収穫高は前年比961石増」と「岩手県は昭和2年も平年作以上だった」ということから、少なくとも前掲の推測〝◎〟、すなわち、「昭和3年の夏に稗貫郡は確かにヒデリではあったが、米の作柄は平年作以上であった」の「平年作以上」を下回ることはないと推断できるから、このことは単なる推測ではなくて、事実だったと断定しても構わないだろう。つまり、
     昭和3年はヒデリによって稗貫郡の稲作が不作であったということはなく、平年作以上だった。
と、である。
 おのずから、
 客観的には、昭和3年の場合、稲作の心配や米の出来を心配して賢治が「ヒデリノトキニ涙ヲ流」す必然性などなかった。
ということになる。同年の稗貫地方では稲熱病は猖獗しなかったし、不作でもなかったからである。

<*1:註> この推測と、先の検証された〈仮説3〉から、次のような新たな仮説が定立できるということに気付く。
  〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。

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