みちのくの山野草

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『農民藝術 No.3』(農民藝術社、昭和22年4月)

2021-05-15 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 このシリーズ〝7 資料・東北砕石工場技師時代の評価〟に関連して、『農民藝術 No.3』(農民藝術社、昭和22年4月)を調べていたならば、それまでは気付いていなかったのだが、高村光太郎の寄稿「玄米四合の問題」の中に「独居自炊」という四文字を見つけたので、横道に逸れるがこの件について投稿する。

 ご承知のように、巷間「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」といわれている。しかし少しく調べてみると、同時代は昔からそう呼ばれていたわけではなかったことは既に〝一体いつから「独居自炊」に〟で、

 こうして並べてみると幾つか気が付くことがある。それは次のような事柄がである。
・関連図書を発行年順に並べてみると、早い段階では今では決まり文句になっている「独居自炊」というキャッチフレーズが使われていないことにまず気が付く。当初は殆ど〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
・一方、年代が下って昭和50年代以降からはほぼこのフレーズ「独居自炊」が「下根子桜時代」を修辞する決まり文句として定着してしまった、の感がある。
・このリストの中での「独居自炊」の初出は昭和28年である。ただしその後もしばらくは殆どの著書においては〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
 そこで思うことが二つある。
 まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はないから、実は「下根子桜時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識はなかったのではないかということである。つまり、〝独居〟ではなかったと思われていた可能性がやはりあるのではないこということであり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から下根子桜で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことはもしかすると周知の事実だったのではなかろうか、ということである。ところが時の流れは事実を風化させたり変えたりすることがある。誰かが、それも大きな影響力を持つ誰かが事実と違うことを言い出したりすれば…。その典型的な一つ事例なのではなかろうかと。
 そして二つ目は、少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだということである。

と投稿したところである。では、この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだという疑問を私は抱いた。

 そこでこのことに関しては、〝高村光太郎の随筆集『獨居自炊』〟において私は次のようなことを述べた。

 一方、一般に「独居自炊」が話題になる詩人や作家といえば、私は宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しか知らない。そこで、光太郎の周辺を探ればそのヒントがあるかもしれないと直感したので彷徨いてみたならば、光太郎のある著書が目に留まった。それはずばり、高村光太郎の随筆集『随筆 獨居自炊』

     〈『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)〉
である。そしてその発行は昭和26年6月であった。昭和26年といえば、昭和20年花巻(太田村山口)に「自己流謫」してから7年目となるから、花巻に疎開していた時の出版となる。
 因みにこの随筆集の巻頭を飾るのが次の随筆で、それこそ題が「獨居自炊」であり、
    獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ為ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
 私の臺所で利休は火を焚き、
 私の書齋で臨濟は打坐し、
 私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
 六十年は夢にあらず事象にあらず、
 手に觸るるに隨って歳月は離れ、
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―

             <『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)>
というものであった。
 この随筆集の発行は昭和26年だから、この随筆『獨居自炊』も太田村山口に疎開している頃に書かれたものかと最初は思った。ところが、実はこれは昭和17年4月13日にしたためたもののようだから光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。実際調べてみるとたしかに光太郎は昭和14年からアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。
 もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口でまさしく「独居自炊」生活をしていたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推理した、
    この昭和26年の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』がこの変化の切っ掛だったのではなかろうか。
と。出版の時期昭和26年というタイミングも、そのタイトルもちょうどピッタリであるからである。
 当初は賢治の「下根子桜時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても「独居自炊」というキャッチフレーズが冠されるようになっていったのではないかと推測した。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。
 そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて次のように使い始めてからではなかろうか。
 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。
            <『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』の小倉豐文「解説」>
 ただししばらくはこのキャッチフレーズは定着しなかった。ところがいつの間にか、おそらく昭和50年代に入った頃からは次第に定着していったのではなかろうか、と推理してみたのだが…。

と述べたのだった。つまり、昭和26年に光太郎が『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版したことが変化の切っ掛けだったのではなかろうか、と私は推論していた。

 そこで私は、これを訂正せねばならないことになった。それは、この光太郎の寄稿「玄米四合の問題」の中に、
 その頃の農家といへば、殊に小自作農、小作農の人等は殆と無法なほどの取扱を政府や地主などから受けて、窮乏のどん底にうごめき、身を粉にして働いて、しかも言語道斷の粗食に甘んじ、都會人から土百姓とか炭焼きとか罵られて生きてゐたのである。その不公正を見るに見かねて宮澤賢治は猛然と起つて農家の爲に身を献じた。彼自身は裕福な家に生まれて、實家の兩親の膝下にさへゐれば何不自由のない生活を營める身分でありながら、農家の人達の理不盡な困り方を眼の前に見てはさういふ安樂生活にひたつてゐるに忍びず、彼等と同じやうな生活をやらうとして、斷然獨居自炊の生活をはじめたものに違ひない。
            〈『農民藝術 No.3』(農民藝術社、昭和22年4月)11p~〉
という記述があったからだ。「斷然獨居自炊の生活をはじめたものに違ひない」とあったからである。
 つまり、
 賢治の「羅須地人協会時代」を「独居自炊」と修辞するようになった嚆矢は、昭和22年4月発行の『農民藝術 No.3』において、光太郎自身でによってであった。
ということになりそうだからである。もともと、光太郎は昭和14年から独居自炊していたし、花巻に疎開したのは昭和20年5月なので、それ以前の出来事であった、千葉恭が賢治と一緒に暮らしていた(つまり、厳密には「羅須地人協会時代」は厳密には「独居自炊」とは言い切れない)ということは知り得なかった可能性が大だから、賢治の羅須地人協会時代を「独居自炊」と修辞することに光太郎は何の躊躇いもなかっただろうし、後に(昭和26年に)『随筆 獨居自炊』を出版したくらいだから、賢治の羅須地人協会時代もそれにふさわしい修辞だと思ったに違いない。それは逆に言えば、そういう光太郎だからこそ「独居自炊」と言い得たのであり、賢治の実態を知っていた人達にはそうは言えなかったということにもなりそうだ。

 なお、『農民藝術 No.3』(農民藝術社、昭和22年4月)の中には、東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関しても言及は一切見つけられなかった。

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