みちのくの山野草

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大正15年、隣の紫波郡は大旱害だった

2019-02-10 10:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、松田甚次郎が、
 昭和二年三月…(投稿者略)…毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた…(投稿者略)…この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。
と語っているということからは、稗貫郡(花巻町のある)の隣の郡紫波郡にある赤石村はこの時大旱魃であったということが導かれる。しかし私はそんなことはそれまで全く知らなかった。つまり、大正15年の「赤石村」の稲作がとんでもない大凶作であった、ということをである。
 そこで私は、当該年の旱害に関する当時の新聞報道等を調べてみると、たしかに、『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていたのだった<*1>。そして、12月頃に入るとその旱魃による紫波郡内の惨状がますます明らかとなる一方で、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』
   村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
◇同年12月15日付『岩手日報』
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小学校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小学校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載っており、東京の小学生を始めとしてあちこちから陸続と救援の手が「本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」へ差し伸べられていた(おそらく松田甚次郎はこの新聞報道をみて同月25日に赤石村を慰問したに違いない)ことなどがわかる。
 ただし、この年末12月25日に大正天皇が崩御したので、それ以降この旱害報道は暫し影を潜めたが、年が明けて昭和2年になると再び連日のように旱害の惨状等が報道され、特に同年1月9日付『岩手日報』などは、その一面がほぼ大旱害についての記事であり、


          【昭和2年1月9日付『岩手日報』一面抜粋】
その惨状が如実にわかるものであった。しかもそれは、紫波郡赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村も同様であったことがわかるものだった。

 ではこの年の稗貫郡の場合はどうだったのだろうか。まずは菊池信一の「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」に、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終わつた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみ待つてゐた日が酬いられた。
             <『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べられていることからは、菊池の実家のある稗貫郡石鳥谷でも旱魃が酷かったということが導かれるから、あの賢治のことだ、当然この年の旱魃は稗貫でも起こっていたということを把握していたはずだ。
 それは、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』には、
 稗和両郡 旱害反別 可成り広範囲に亘る
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模様
という報道があったから、この記事などからも賢治は稗貫郡の旱害を知っていたはずだということが窺える。
 ちなみに、大正15年の岩手県産米の作柄がどうだったのかというと、『岩手県災異年表』(昭和13年)によれば、
 大一四年 豊作  米作反当収量 二石一斗七升
 大一五年 不作
 昭和四年 不作
 昭和六年 不作   
 昭和八年 豊作  米作反当収量 二石二斗五升  
 昭和九年 凶作
ということだし、「不作」年と「凶作」年の場合の稗貫郡及びその周辺郡のデータを同年表から拾って、「当該年の前後五ヶ年の米作反当収量に対する偏差量」をグラフ化してみると次のようになる。


 つまり、赤石村や不動村そして志和村等の紫波郡内の村々は飢饉一歩手前の大旱害だったのだが、賢治が暮らしていた稗貫郡も不作だったのである。
 なお、このことを指摘している賢治研究者を私は誰一人として見つけられずにいる。逆に見つかるのは、翌年の稗貫郡等は冷たい夏が続き大凶作だったと主張している多くの賢治研究家である。しかし、これは全くの事実誤認である。どうやら、賢治学界というところは摩訶不思議な世界のようだ。

<*1:註> 当時の『岩手日報』の旱魃報道の実際については以下のようなものもある。
・ 大正15年6月8日~大正15年11月21日
 〝大正15年の紫波大旱害
・大正15年12月7日~大正15年12月22日
 〝陸続と届く義捐の手
・昭和2年1月5日~昭和2年1月9日
 〝『ヒデリに不作なし』とは言えない
・ 昭和2年1月19日
 〝当時賢治は何をしていたのか
・昭和2年1月23日~昭和2年1月26日
 〝当時の賢治の社会認識

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