みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

崩れ出した羅須地人協会のイメージ

2019-03-03 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
***************************************************************************************************

はじめに
 崩れ出した私の中のイメージ
 3年程前<*1>から私の中で崩れ始め、その後も少しずつ崩壊し続けているものがある。それは私の中の羅須地人協会に関するイメージだ。
 例えば、私が以前持っていた「羅須地人協会時代」のイメージは即「独居自炊」であったのだが、賢治が同協会の建物に住まっていた期間のうちの、少なくとも約8ヶ月間は千葉恭という若者と一緒に賢治は生活していたようだということをその後知って、どうやらその時代は「独居自炊」とは言い切れない<*2>のではなかろうかと考えるようになった。私の同協会のイメージの一端が崩れ始めた時であった。
 また、それまでの私は、「羅須地人協会時代」とは賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まいながら菩薩となって貧しい農民を救おうとした5年程の期間のことを指すと思っていた。実際、『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)を見てみると、
    「羅須地人協会時代」=大正15年3月31日~昭和5年3月………① 
となっている。たしかに5年間である。
 ところが、少しずつ賢治のことを調べ始めてみたならば、賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まっていた期間は、これを「下根子桜時代」と呼ぶことにすると、
    「下根子桜時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日 ……② 
の「2年4ヶ月余」としてよいということを知った。
 さらに、前述した千葉恭のことを調べ廻っているうちに私は、賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間を〝実質的な「羅須地人協会時代」〟と定義すると、
    実質的な「羅須地人協会時代」=大正15年11月29日~昭和2年4月10日 ……③ 
の「4ヶ月余」となるのではなかろうかと思うようになった。
 よって次の不等式、
    ①の5年間>②の2年4ヶ月余>③の4ヶ月余
が成立する。
 一方で、賢治が農民のために「羅須地人協会」で行った活動については一般に、
    ①の中身=③の中身
であると捉えられている傾向があるのではなかろうか。言い方を換えれば、
    賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=5年間  ……☆ 
であると思われているのではなかろうか。ちなみにかつての私がそうであった。だが、もちろん今の私はもうそうとは思っておらず、
    賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=4ヶ月余     
であると思っているし、もし「羅須地人協会時代」というものがあるとするならば、広義に解釈しても、
    「羅須地人協会時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日 
の2年4ヶ月余ではなかろうかと最近は考えるようになってきた。また厳密には、
    「羅須地人協会時代」<「下根子桜時代」
として扱うべきではなかろうかとも最近は考えるようになってきている。
 それにしても、なぜ私は今まで〝☆〟であるとばかり思い込んでいたのだろうか……どうやら私は羅須地人協会という言葉に幻惑され過ぎて、実態がわからなくてなおかつ魅惑的な「羅須」という言葉に翻弄されていたようだ。
 羅須地人協会の真実を知りたい
 振り返ってみれば、それまでのイメージが崩れ始めた時期というのはちょうど私が賢治のことを自分の足で調べ始めた時期だ。私はそれまでは長年花巻に住んでいながら、賢治についてはほんの僅かの知識と巷間流布しているようなイメージしか持ち合わせていなかった。
 そこで、退職した私は折角花巻に住んでいるのだから賢治のことを自分の足で調べてみようと思い立った。というのは、かつて私が学生だった頃に、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを賢治の甥の一人(私の恩師岩田純蔵先生であり、賢治の妹シゲの長男である)が語ってくれた(昭和43年頃)ことが私はずっと気になっていたからである。
 そして、賢治のことを僅かではあるが自分の目で見ることができた。その結果新たにわかったことも多少はあったが、逆にわからないことの方がどんどん増えてしまったというのが実態であった。例えばその幾つかを挙げれば、
(1) なぜ堀尾青史はこの5年間を「羅須地人協会時代」と呼んだのだろうか。そして、なぜそれが巷間流布しているのだろか。
(2) 大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に、なぜ賢治は義捐活動を行わなかったのだろうか。
(3) なぜ賢治と一緒に生活した千葉恭のことは調べられもせずに、賢治の伝記上では無視されてきたのだろうか。
(4) なぜ昭和2年11月頃からの約3ヶ月の滞京は検証もされずに、無視されているのだろうか。
(5) なぜかくも「羅須地人協会時代」や羅須地人協会に関しては不明なことが多すぎるのか。なおかつ、どうしてこれの事柄があまり調べられないままにここまで至っているのだろうか。
等が、であった。
 そしてこれらのことに関して私は、あれだけ膨大な『校本宮澤賢治全集』やさらには『新校本宮澤賢治全集』が出版されているのだから既に調べ尽くされているものとばかり思っていたが、少なくとも羅須地人協会に限って言えば、どうやらそうとばかりも言えなさそうだということを知ることとなった。
 また一方で、地元に居るせいか私に聞こえてくることの中には、どうも「現定説」とは相容れないものも少なくないということも知るようになった。そうなると、私はますます羅須地人協会の真実を知りたいという思いに駆られるようになていった。しかし、では一体どうすればいいのだろうか……。
 自分で調べる
 たどり着いた結論は、自分で調べる、それもできるかぎり自分の足で調べるしかないというものだった。実際そうしてみると、(2)については当時の『岩手日報』の連日の新聞報道を見てその惨状がまざまざと判ったし、全国からは小学生さえもが義捐金を寄こしたり、労農党支部等は街頭で義捐金の寄付を呼びかけたり、学生は木炭販売の益金を寄付したり等、それぞれがそれぞれの仕方で大旱魃によって引き起こされる大飢饉を防ごうとして様々の救援活動をしていたことも知った。
 ところが一方で、その頃羅須地人協会の建物に集っていた若者達や羅須地人協会のメンバーが義捐活動をしていたかというとそのような証言や資料はなさそうだ。また、賢治自身はそのさなか約一ヶ月間の滞京をしていたことを知った。どうやら、大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に賢治は全く義捐活動を行っていなかったということになりそうだ。だから、もしかするとこのとき賢治は「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」ていたとは言い難いかもしれない、ということを私は恐れた始めた。
 次の(3)の千葉恭に関しては、なぜ今まで彼のことが無視されてきたのかという点については未だわからない点が残っているが、その点を除けば前に拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において今まで知られていなかったことなどを可能な限り明らかにできたので、多少は羅須地人協会の真実を明らかにできたと確信している。
 そして次の(4)についてだが、この拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』はまさしくこの約3ヶ月の滞京に関わる「賢治昭和二年の上京」の真相に迫ってみようとするものである。これがこの拙著を著しかった最大の目的であり、本書の大半はこのことので占められている。
 さてその際の基本的な姿勢であるが、今回も『賢治と一緒に暮らした男』の場合と同様であり、ある仮説を立ててその検証を行うという「仮説検証型研究」という手法に依るものである。

 ではいよいよ、「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅に出立したい。

<*1:註> 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』は平成25年2月出版だから、この「3年程前」とは、その「平成25年2月」から数えてという意味である。
<*2:註> たとえば、下掲のような拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の〝2.「賢治神話」検証七点 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない〟において、
〈仮説1〉 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が検証できたことを明らかにしてある。したがって、いわゆる「羅須地人協会時代」は「独居自炊」とは言い切れない。

 続きへ
前へ 
 ”「賢治昭和2年11月から約3ヶ月滞京」の目次”に戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福寿草紀行(3/2、松倉山の裾) | トップ | マンサク(3/3、東和町軽井沢) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事