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3522 陸続と届く義捐の手

2013-09-24 08:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 さてこの大正15年、12月頃になると『岩手日報』の紙面は連日のように大干魃への義捐に関する報道が賑わうようになる。
仙台から栃木から 
【Fig.1 大正15年12月7日付 岩手日報】

  村の子供達に やつて下さい 紫波の旱害罹災地へ 人情味豊かな贈物
(花巻)5日仙台市東三番丁中村産婆学校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に添へて小包郵便が届いた文面によると
 日照りのため村の子どもさんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私が苦学してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので昼食持たぬ子供等に分配してやつた
尚栃木県から熱誠をこめた手紙をおくつて
 かん害罹災者の子弟中十四五歳の男子があつたら及ばずながら世話して上げます
と書きおくつた人もあつたいづれも人情味豊かな物語りで下河原さんは只世間の同情に対し感謝してゐた。
この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱魃の惨状は岩手内だけでなく、次第に広く知れていったであろうことである。
東京から
 そして次の
【Fig.2 大正15年12月15日付 岩手日報】

  赤石村民に同情集まる 東京の小学生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小学校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小学校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。十二日黒沢尻中学校職員一同から十四円の寄?贈あつたし同校教諭富沢義?氏から手工を指導し、製品の販路はこちらで斡旋するから指導に行つてもよい日時を教えてくれいとこれ又書簡で問ひ合せて来た。
という報道からは、この年の岩手の、とりわけ明石村等の大干魃による農民の窮状は東京方面でも知られることとなり、その惨状を知って小学生でさえも救援の手をさしのべてきたと言えそうだ。
地元では
 もちろん地元でもその義捐の輪は広がっていて、
【Fig.3 大正15年12月16日付 岩手日報】

  赤石村に同情
かねて労農党盛岡支部その他県下無産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の惨状義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締めきり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出発し悲惨な村民を慰めることなつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害惨状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販売しそのあががり高を全部、赤石小学校児童に寄附することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた。
という報道もあった。
在京岩手学生会も
【Fig.4 大正15年12月20日付 岩手日報】

  在京岩手学生会 旱害罹災者を慰問 学生先輩有志より拠金をして寄附
東京岩手学生会は紫波地方かん害罹災者慰問の計画を建てその第一案として学生より拠金をする事第二案としては先輩有志より拠金する事になり今回状況調査のため明治大学生佐々木猛夫君来県したなほ第三案として学生が県の木炭を販売してその純益金を救済に向くべく決定し同上佐々木君は本県の木炭業者に交渉する使命をもつて来たのであると佐々木君は語る
 かん害救済のことについては此のあひだ東京広瀬、田子、柏田の各先輩及び学生があつまつて相談をしましたが何れ実地調査してから積極的方法をとらふといふ事にきめました。学生の木炭販売は既に秋田学生会でも実行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の学生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
というように、在京学生も動き出し始めていた。
一関青年有志も
   紫波旱害に同情 一関青年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲惨なる状態に同情して一の関青年有志は本月十八日午後五時関?座に於て活動写真界を開催し純益金を赤石村村民救済資金として贈ることにした
という報道もあった。
岩手県の善後策
 もちろん、県としてもその善後策を検討しているということで、
【Fig.5 大正15年12月21日付 岩手日報】

  旱害善後策 協議会開かる けふ県会議事堂にて
という記事もあった。
県北川口の少年達からも
 そして、同紙面には次のような
  美しい同情 川口少年赤十字団より 赤石の生徒達へ
凶作のため困窮せる紫波郡赤石村の生徒達をあはれと思ふ一念から岩手郡川口少年赤十字団員四百名は予てかゝる際の用意にもと昨年冬玄関を冒して氷運搬作業に従事して得た金の中を割きこの寒風に泣ける同輩を慰めんと十七日四百名を代表して村山仁の名によつて贈った
義捐活動もあったとの報道があった。
明石村の惨状
 それから、年の瀬を迎えての明石村の惨状については
【Fig.6 大正15年12月22日付 岩手日報】

  米の御飯を くはぬ赤石の小学生 大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同労働組合吉田耕三岩手学生会佐々木猛夫両氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張したが、その要領左の如し
 一、役場
(イ)植付け反別は四百一反歩でかん害総面積は三百十五町歩、その中収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸数は百六十戸である(同村の総戸数は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出来る)このうち小作人の戸数は六十戸である。
(ハ)大豆は半作でその他の陸物収穫あったけれども一家の口を糊するにたらず
(ニ)同村の平年作は一万四千二百九十四石であるが今年度は八千百八十石減を見た。毎年七千石の移出米を出す処であるから村で食ふだけの米がないといふ事が出来る。以上の如くして六十戸の小作人は非常に苦しい生活を続けて居る。今度応急の救済方法として製筵機五十台をすえつけ生産に当たらしめてゐるのが一日の同収入僅かに三十銭に充たざるを以て衣食を凌ぐにたらず
 二、学校
全然昼飯を持参せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は昼飯を持参されぬ事を申出でゝ役場の救済をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又学用品を給与した者は十六人であるが、昼飯の内に麦粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
 罹災者二戸に就いて調べた処に依れば今年田八反歩を仕つけたが収穫はたゞ三俵である。その内一俵を小作米としてをさめた、ほかはもう食い尽くした。収入の途は炭俵を作って売るも萱代縄代を差ひけば一つ三銭五厘位のものだから一日八ッを編んでも手に取る処幾ばくもない。しかも家族は七人ある。生活の惨憺たる事は想像以上である。他の一軒を見まはつたが同様全然収入なし、職業もないので炭俵を作って居た。シウトの家から縄をもらって居ると云ってゐたが、どんな御飯をくつて居るのかとのぞいて見たら大根六分砕けた米二分粟二分位なものであった。麦買ふ金もないのである。
 三、出稼
血気の若い衆は酒つくりに出稼ぎしたが、その送金を得ていくらか助かるのであらふが、これとても一月十円を送れば関の山で罹災者の窮状は日を追うて劇しくなるだらう。
ということで、特に、この記事の中の
  同村三分の一は米一粒も取れなかつた。
という旱害被害の酷さに吃驚してしまうし、学校にお弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。あの松田甚次郎はこの直後の12月25日に明石村を訪れて慰問しているが、おそらく彼はこの12月22日の上掲記事を見てそうしたに違いない。
 ところで、
 六十戸の小作人は非常に苦しい生活を続けて居る。
ということだが、この小作農家60戸は収穫がなかったとはいえおそらく小作料は払わねばならなっかと思う、一体どう対応したのだろうか。
在京学生木炭販売の続報
 また、同紙面にはこの記事に引き続き次のような報道もあった。
  旱害救済のために 学生が炭売り 県山林課で 木炭を提供する
在京岩手学生会が木炭を販売してその純益を旱害救済に向くべく木炭提供の交渉のため代表者佐々木猛夫君が来県したが二十日県山林課を訪ひ交渉する処あつたが山林課でも之を快諾しさし当たり県の倉庫に十車池袋組合倉庫にも相当あるので、之を提供する事となつたと来る二十六日ころ県出身者三十名の学生が車を引いて炭売りに歩くであらう
これは、先の在京岩手学生会の記事
   佐々木猛夫君来県したなほ第三案として学生が県の木炭を販売
のその後を報道したものである。在京学生の社会正義に溢れる行為が清々しいし。

 というように、連日のように義捐の手が陸続として差しのべられていることなどの報道がなされていた。
 さて、この頃上京していた賢治は、地元のこの窮状と義捐のあり様をどのように捉え、どう認識していたのだろうか。

 なお、この大正15年12月25日に大正天皇の崩御があり、その後はしばしその関連報道が紙面の殆どを占めることになる。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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