《創られた賢治から愛すべき賢治に》
そして一方、どうして賢治その時何もしなかったのだろうかとず~っと不思議に思っていたことがある。それは大正15年の紫波等における大旱害の時に、賢治はなぜ一切義捐活動をしなかったのだろうかという疑問や不安である。忍び寄る大旱害
まずは当時の『岩手日報』の新聞報道のいくつかを挙げてみる。
【Fig.01 大正15年6月8日付岩手日報】
【Fig.02 大正15年6月9日付岩手日報】
【Fig.03 大正15年6月10日付岩手日報】
【Fig.04 大正15年6月13日付岩手日報】
【Fig.06 大正15年6月19日付 岩手日報】
【Fig.07 大正15年6月23日付 岩手日報】
【Fig.08 大正15年7月13日付 岩手日報】
【Fig.09 大正15年7月15日付 岩手日報】
【Fig.10 大正15年7月15日付 岩手日報】
【Fig.11 大正15年7月16日付 岩手日報】
【Fig.12 大正15年7月17日付 岩手日報】
【Fig.13 大正15年7月20日付 岩手日報】
【Fig.14 大正15年8月22日付 岩手日報】
【Fig.15 大正15年9月26日付 岩手日報】
【Fig.16 大正15年10月27日付 岩手日報】
【Fig.17 大正15年11月9日付 岩手日報】
縣米作第二回 収穫豫予想高 昨年より大減収
本縣米作第二回収穫豫想高に就いては十月末日現在にて各町村より報告を取纏めつつあるが右報告に依れば大体昨年の百十四万石に比し二割二分二十五万石の著しい減少となり実収高九十万石と見られている之は第一回予想通り本年は旱害ため出穂が遅れたに加えて強霜が例年より早く降り第一回予想九十六万石に比し更に約七分の減少を見たは稲熱病が予想外の蔓延を来たした為である殊に本年は最も大切な収穫期に於て雨量が多く未熟米も相当の数にのぼる見込みで、量の減少に加へて質に於ても夥しい影響を来し三四等米のみの生産で八九割を占めるものと見られてゐる…
【Fig.18 大正15年11月14日付 岩手日報】本縣米作第二回収穫豫想高に就いては十月末日現在にて各町村より報告を取纏めつつあるが右報告に依れば大体昨年の百十四万石に比し二割二分二十五万石の著しい減少となり実収高九十万石と見られている之は第一回予想通り本年は旱害ため出穂が遅れたに加えて強霜が例年より早く降り第一回予想九十六万石に比し更に約七分の減少を見たは稲熱病が予想外の蔓延を来たした為である殊に本年は最も大切な収穫期に於て雨量が多く未熟米も相当の数にのぼる見込みで、量の減少に加へて質に於ても夥しい影響を来し三四等米のみの生産で八九割を占めるものと見られてゐる…
【Fig.19 大正15年11月21日付 岩手日報】
移出米検査に 半分は不合格 品質がごく悪い 花巻支所の成績
(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻付近から産出する俵米の如きは移出検査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ有様だ…
というようなわけで、この年は夏までは日照りが続いていたのだが、稗貫では逆に刈り入れ時には雨が多かったので、米の収穫高が激減するということだけではなく、その品質もかなり悪いものとのなるであろうことがことがほぼたしかだったようだ。泣きっ面に蜂の状態であったであろう。(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻付近から産出する俵米の如きは移出検査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ有様だ…
かくして、大正15年の稗貫郡には、まして紫波郡には大旱害が確実に忍び寄っていることは明らかだった。
一方、賢治はこの直後の12月2日に上京し、約1ヶ月弱の例の滞京をすることになる。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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