みちのくの山野草

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同じ過ちを繰り返している

2019-01-09 08:00:00 | ガリレオと賢治研究
《『コミック版 世界の伝記 ガリレオ』(能田達規著、ポプラ社)》

吉田 そのことはいずれまた。それまでしばしご猶予を。
荒木 ならば続きだ。どこどこ、こんなことなどが書かれているぞ。
 その後、ピサ大学の医学生であったガリレオは「振り子の等時性の法則を」発見し、その論文を発表、ピサが生んだ天才と褒め称えられた。
 にもかかわらず、ガリレオは1585年、21歳の時に退学し、家族のいるフィレンツェに戻った。
 そして、数学の家庭教師をしながら、実験も続けていた。
 ところが、ガリレオは1589年には、その辞めたピサ大学の今度は講師となって戻った。
というんだな。
吉田 そして今度は、ピサ大学でガリレオは先生として学生に物理を教えるようになったのだ。
荒木 そこでガリレオは学生たちに対して、
 教科書に書いてあることだとしても正しいとはかぎらない。きみたちが学んでいるアリストテレスの教えがすべて正しいとはかぎらないのではないか?
と疑問を呈したと書いてある。
鈴木 まるで、ノーベル賞受賞がわかった時の本庶佑教授の発言と同じだな。
荒木 えっ、彼は何と言ったんだ。
鈴木 例えばこう言っていた
 研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。
 自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。
吉田 つまり、ガリレオの時代でも、それから400年近く経った今でも、残念ながら人間は成長できずにいて、同じ過ちを我々は繰り返しているということだ。
荒木 ということは、逆に言えば、あの石井洋二郎氏の式辞における警鐘
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
と同じようなことを、ガリレオも本庶教授も言ったということか。
吉田 そして、それと「同じ過ち」を今まさに犯しているのではなかろうかと懸念されているのが『賢治学界』だ。実際、ガリレオと鈴木じゃそれこそ「月とすっぽん」だが、鈴木の「仮説検証型研究」という手法に拠って得られた限定付きの「真実」<*1>に対する、アンフェアなハラスメントはこの構図とほぼ同じだからだ。
鈴木 もちろんガリレオには遥か遠く及ばないが、私はスッポンかよ。
荒木 おお、たしかにお前はスッポンと同じで噛みついたら離さなず、しつこすぎるからな。
鈴木 参ったな。まあそう言われりゃ、たしかにそうかもな。
吉田 いや、スッポンは水に入れると割とすぐに離してくれるとも言われているから、そうとも限らんぞ。
荒木 そうか、スッポンは噛みついたら離さない、ということもそのうち確かめんとな。しかし、話を戻そうよ。
吉田 そうだな。
 さて、ガリレオは、まずはそれが正しいか否かを実験によって確かめようとする姿勢を持ち続けた。そしてその結果、次に、「落体の運動の法則」を発見したわけだ。
 だからこの本にはこう戒めが書かれている。
荒木 どこどこ。そうか、ガリレオは、
 つまりなにが言いたいのかというと、教科書をそのまま信じてしまうのでは進歩がないということだ。
と戒めていたわけだ。まさに、石洋二郎氏の戒め
 そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります……①
と同じだ。
鈴木 たしかにそうなんだよな。例えば、拙著の『本統の賢治と本当の露』の「㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」」で次のように、
 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。         〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。                    〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。          〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。   
〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(筆者略)…
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。         〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
というような事を述べいる。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 ところが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(g)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。   〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と述べているから、これか、この引例が「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはず。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に何一つ見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)65p~〉
と持論を展開した。
 だから、まさに、
「あやふやな情報」=「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
が「いったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと」、
「誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります」=(a)~(g)
と言えるんだな、これが。
荒木 ずいぶん長ったらしい説明で俺にはちょっとわかりにくかったのだが、要するにあそこでもまさに〝①〟が蔓延しているってことだろう。そしてお前の下心は、自分の本の宣伝をしたかっただけのことだべ。
鈴木 ……。
吉田 それではいいか、次に進むぞ。
 さて、これでガリレオは周りから認められてその後順風満帆だったのかというと逆に不幸が続いた。それは、父を失い、程なくピサ大学の職も失ったからだ。  

<*1:註> 例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』の第一章の〝2.「賢治神話」検証七点〟において、主に仮説検証型研究という手法によって検証した結果、
 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない 7
 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について 25
 ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治 43
 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」 65
 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態 69
 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」 84
 ㈦ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず 91
の7項目について限定付きの「真実」を私は実証できたので、同書でそれらのことを明らかにした。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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