みちのくの山野草

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昭和3年「陸軍大演習」の際に作られた地図

2019-01-09 12:00:00 | 賢師と賢治
《大型の『花巻町の地図』(制作者等不明)》

 かなり以前にある人から預かった、いくつかの書き込みのある上掲の大型(76㎝×60㎝)の『花巻町の地図』だが、いつ頃何のために作られたものかわからずにいた。
 ところがその方から最近になって、これは岩手県で初めて行われたあの昭和3年の「陸軍大演習(陸軍特別大演習)」にあたって作られた物であるということを教えてもらった。
 するとあることに気付いた。それは、地図に塗りつぶされている赤い正方形の付いている一つの場所(投稿者が描き加えた赤丸の中の)があそこではなかろうかということにである。

            《大型の『花巻町の地図』(制作者等不明)一部より抜粋》
 というのは、昭和3年10月4日付『岩手日報』に、
 諸星續々來花
   演習氣分濃くなる
大演習南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将の統率の将校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花歩兵両町内、機関銃隊は八(ママ)澤村、騎兵は八幡村に宿営した。…(略)…
第三旅団長市(ママ)川金蔵少将は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という記事が載っているので、昭和3年10月に行われた「陸軍大演習」の際に、賢治の母の実家である宮澤善治宅に第三旅団長が宿泊していたということになる。そして、この赤い正方形が付いている場所はちょうど宮澤善治宅のあった場所と一致する。よって、上掲の大地図は昭和3年の「陸軍大演習」の際に作られた物であるということの傍証が、この昭和3年10月4日付『岩手日報』の記事によって得られる。

 なお、黄色い○の場所が八重樫麩屋、つまり八重樫賢師の生家である。したがって、賢治の母の実家に第三旅団長が泊まっていた時期に、直ぐ近くの八重樫麩屋の息子の賢師は、この「大演習」を前にして吹き荒れた凄まじいアカ狩りによって、函館に所払いにされていた。一方、青い○の場所が賢治が当時病臥していた宮澤政次郎の家である。しかし、この時に賢治は病気で家に戻っていたというのはあくまでも表向きであり、その真相は拙著『本統の賢治と本当の露』の〝2.「賢治神話」検証七点 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」 〟で検証できたように、次のようなものであったということになるはずだ。
 それは、私はまず次の仮説、
〈仮説6〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。…(投稿者略)…そしてもちろん、この仮説の反例は一つも見つかっていないから検証がなされたということになる。
 よって今後この反例が見つからない限り、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからということよりは、本当のところは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。これでまた一つ、隠されていた真実が明らかになったと言える。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)87p~〉
 なおこの件に関しては、大内秀明氏も次のようなことを論じておられる。
 昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていました。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐の通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
             <『宮沢賢治「羅須地人協会」 賢治とモリスの館開館十周年を迎えて』(代表・大内秀明)32pより>

 この賢師と賢治の付き合いは一部に知られているところでもある(その詳細については後ほど、名須川溢男の論文「近代史と宮沢賢治の活動」を元にして述べてゆきたい)。そのような2人ではあったのだが、一方は函館に奔って2年後に客死、もう一方はいわば自宅謹慎していたことになるが再びと下根子桜に戻ることはなく、その5年後に逝ったということになる。

 なお蛇足だが、この書き込みのされた元々の地図を誰が作ったのかは今のところ私にはわからぬが、次の地図はあの高瀬露の父高瀬大五郎が作った地図であり、

これらの地図に書き込まれた地名の筆跡と、上掲大地図のそれとが似ていると感ずるのは、私だけであろうか。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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