みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治三回目の「家出」>(前編)

2019-02-05 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

荒木 ところで、前に吉田が言っていた「ある伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
吉田 ご免、そのためにはもう少し準備運動が必要なんだ。まずは、当時のことを時間的な流れで以下に確認したい。
・大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に露出入り(菊池映一氏の証言より)。
・昭和2年秋   :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤治宛書簡より)。
・昭和3年6月  :賢治伊豆大島行。
・同時期帰花後  :賢治、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と嘉藤治に語った。
・昭和3年8月~ :賢治実家に戻り、病臥。
・昭和6年2月21日:「東北砕石工場花巻出張所」開設正式決定。賢治同工場嘱託。
・昭和6年7月7日:ちゑとの結婚話がまた持ち上がっていることを賢治自身が森に語った。
・昭和6年9月19日 :40㌔あまりのトランクを持って上京。
・昭和6年9月20日 :着京。以降滞京。発熱。
・昭和6年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
・〔昭和6年〕10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
・〔昭和6年〕10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
・昭和6年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの
・推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して
・昭和6年11月3日:〔雨ニモマケズ
そして、この中のポイントは
・昭和6年7月7日に賢治が森に対して語ったというところの、また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話
だと思っているんだ。つまり、この「また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話」が「伏線」となって〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれたのではなかろうかと僕は考えている。
荒木 もう少し具体的に説明してくれ。
吉田 これはあくまでも僕の推測であり、これから述べることは一つの思考実験だがそれでもいいか?
荒木 中身によりけりだがな。さあ、どうぞ。
吉田 僕も以前から、「聖女のさましてちかづけるもの」とは果たして露なのか? どうもそうとばかりは言い切れないと考えていた。
 二人もそう訝っていると思うが、昭和2年の夏以降になると賢治は露を拒絶するようになったと言われているのに、その頃から約4年もの時を経てしまった昭和6年の10月に、例のこのようななまなましい憤怒の文字はどこにもないような詩を露に当て付けて詠むか。
荒木 そりゃあ確かに常識的にはあり得ねえべ…。あっ、わがった、そういうことか。「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことであり、ちゑとの結婚にまんざらでもないということが推察される「昭和六年七月七日の日記」に出てくるような賢治の想いが「伏線」となって、賢治をして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠ましめた、ってわけな。
吉田 そう、実は「聖女のさましてちかづけるもの」とは巷間言われている露ではなくて、伊藤ちゑのことなのだ。
 以前引用したように、昭和6年頃になると賢治自身が私も随分かわつたでしょう、変節したでしよう――。と言っていたというくらいだから、かつての賢治とはすっかり様変わりしてしまった。独身主義ももうやめた。ちなみに、
「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104pより>
と森が証言している。
 このように独身主義からはおさらばした賢治は、前々からちゑとならば結婚してもよいと思っていたがゆえに、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と昭和6年7月に森に喋った。そして、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京した。
荒木 おっと、それはまさかの展開だな。そんな話今まであったっけかな?
鈴木 そっか、昭和6年の上京は東北砕石工場の製品売込みのためだったとばかり私は思い込んでいたが、それだけではなくて、ちゑと会ってその結婚話を進めるためでもあったということな。だけど、その時の上京の際に賢治が伊豆大島まで行ったという証言や記述はどこにもないはずだが。
吉田 いやぁ、違うんだなそれが。その頃ちゑは東京に戻っていたようだし、僕はこの時の上京はまたぞろ賢治が「家出」をするためでもあったと推測している。
荒木 昭和6年の上京の一つの目的はちゑと会って結婚の話を具体的に進めるためだったはとりあえず了としても、もう一つは「家出」のためだったというのか。おいおい、思考実験とはいえそれはあまりにも荒唐無稽だべ。
吉田 まあまあ、これはあくまでも実験だ。まずは前者、ちゑとの結婚について。
 澤村修治氏がこう述べている。
 これでは学校の経営もままならない。そうした不如意のあげく、同年八月一三日、七雄は遂に逝去する。…(筆者略)…兄の逝去とともにチヱは東京に戻る。休職していた二葉保育園に保母として復帰。
           <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)182pより>
そしてここでいう「同年八月一三日」とは昭和6年8月13日のことだということが、同書から判る。
荒木 そっか、昭和6年9月の賢治の上京時には既に七雄は亡くなっており、ちゑは東京に戻って住んでいたのか。
鈴木 となれば伊豆大島の場合とは違って、上京した賢治ならば会おうと思えば比較的容易に伊藤ちゑに会えたことになるな。上京の前々月、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と森に喋っていた賢治のことだ、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京したということは確かにあり得る。
吉田 では次、後者について。
 堀尾の『年譜 宮澤賢治伝』には、賢治が熱を出して寝ているという八幡館から電話連絡が入った菊池武雄が駆けつけて、
「花巻のおうちへ知らせよう」
といった。すると賢治はつよく、
「いやそれは絶対困ります。絶対帰りません。しらせないでください」
という。…(筆者略)…
 それに賢治は、
「なあに風邪です、すぐよくなります」
と、いかにも病気のことは専門だといわぬばかりに自分でうけあい、
「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」
と妙なことをいう。
           <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)424p~より>
とある。
 そこで、どうも賢治は花巻に帰りたくないらしいと判断した菊池は、武蔵野に小さい貸家を見つけ出して賢治にそのことを知らせた、というような貸屋探しのことが具体的にそこに続けて述べられている。
鈴木 つまり賢治はこの時花巻に戻るつもりは毛頭なく、このまま東京に居て托鉢などもして回りたい。ついては住む家を探している、というようなことなどを言ったものだから菊池は貸家を見つけてやったという次第か。なんだか、大正10年の「家出」の時と似たにおいがしてきた。
荒木 そうか、賢治は実質的に「家出」を目論んで上京したと吉田は言いたいわけだ。
鈴木 しかし賢治はこの上京の折り直ぐに、9月21日に「遺書」を書いていたわけで、着京即重態に陥り死を覚悟したと思うのだが。
吉田 確かに通説ではそうなっているが、そこには「遺書」というタイトルが書かれているわけでもない。ちなみに、
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日
                       賢治
父上様
母上様
             <『校本全集第十三巻』(筑摩書房)379pより>
というのがその中身の全てだ。
荒木 あっ、そうそう奇しくも賢治の命日ってやつな。
吉田 だからなおさら「遺書」と思いたくもなるが、月日の一致はそれとは無関係なこと。それよりは、この文面からは、花巻から離れての「家出」、決して花巻の実家に戻ることはないという自分自身に向けた決意表明だったととれなくもない。
鈴木 確かに、着京したと思われるのが9月20日、ところがその翌日に突如賢治は重篤となったので死を覚悟してこの「遺書」を書いた、ということは言われてみれば確かに奇妙だし不自然なことだ。

 続きへ
前へ 
 “〝高瀬露は決っして〈悪女〉ではない〟の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「賢治精神」の継承者松田甚次郎 | トップ | 裏山の春はまだまだ先 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事