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「賢治精神」の継承者松田甚次郎

2019-02-05 12:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 それではこの論文のいよいよ最後の事項「その後の羅須地人協会の継承について」である。

 名須川は、「その後の羅須地人協会の継承について考えてみたい」と前置きして、『ラスキン言行録』を引例しているが、そこにはそれほどの意味を私は見つけられなかったので、次に進むと、こう書いていた。
 松田甚次郎の言葉は象徴的である。
一、小作人たれ、一、農村劇をやれ、と賢治に言われ、そうでなければ「私の同志ではない」と。…(投稿者略)…
そう、例の『土に叫ぶ』のよく知られたエピソード<*1>を述べていたのである。そして、
 かくして最上共働村塾をひらいて賢治精神を実践していた松田から学び…(投稿者略)…
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)505p~〉           
と続けていた。
 このことからは、名須川自身も、松田甚次郎は「賢治精神を実践していた」と認識していたことがわかる。どうやら、「その後の羅須地人協会の継承について考えてみたい」と彼は前置きしているものの、
 松田甚次郎は最上共働村塾を開いて「羅須地人協会の継承」をしようとしたわけではなくて、実は「賢治精神を実践していた」と、名須川は認識していた。
ということになりそうだ。

 振り返ってみれば、賢治は羅須地人協会時代に「農民藝術概論綱要」を高らかに謳い上げたものの、その実践は松田甚次郎の実践に比べればかなり寂しいし、現実的なものでもなかった<*2>。それは、賢治が松田甚次郎には「小作人たれ、農村劇をやれ」とは強く「訓へ」たものの、賢治自身はどちらもそうしなかったことからも容易に導かれる。またそもそも、賢治の稲作指導は、『本統の賢治と本当の露』で、
 賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽一三二号を推奨することだったとなるだろう。ただし同品種は金肥(化学肥料)に対応〈註八〉して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導法だったということにならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時農家の大半を占めていた貧しい小作農や自小作農(『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)の297pによれば、当時小作をしていた農家の割合は岩手では6割前後もあった)にとってはもともとふさわしいものではなかった〈註九〉ということは当然の帰結である。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)70p〉
と私が論じたように、小作農などの貧しい農家にはもともとふさわしいものではなかった。

 一方、松田甚次郎の農法は今の言葉で言えば「持続可能な農法」だったから、前掲したような金肥を欠かせない賢治の稲作法とは根本的に違っていた。ちなみに松田甚次郎の農法については、かつて、〝166 小作人と農村劇〟において述べたように、『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)等によれば、
 しかし、6反歩の小作では、小作料と肥料代を払ったら手許に残るのは僅かである。そこで甚次郎が採った考えは、金肥を全廃して身の回りにあるものを生かして土地を肥やすことだった。
 そのために行ったのが、村の衆から「松田の息子が又ボロ臭い着物を着て、下肥汲みに行った。あんなに汲んでどうするのだ」などと笑い物にされながらの自給肥料の増産であった。具体的には
・下肥汲み(知人や親類からの)→1年間で600貫の下肥を汲んだ
・川芥を集めて堆肥の材料に→3年間で800貫近く集めた
・落葉を   〃     →250貫ほど集めた
・これらの集めたもので1400貫の堆肥を作った
等であり、同著に詳しく書いてある。
 なお、この甚次郎のリサイクルの考え方は横井時敬博士の経済原則、
「自己の労力を貨幣化することなしに、また貨幣化されたる他の労力を購入することなしに、家族的に独立経営し、農家生活の第一生活必需品の大部分と、第一生産手段の大部分とを自家生産し、それを基礎として能ふ限り多くの市場生産をあげんとするに、能ふ限りの経済的合理的ならしめんとするを以てす」
に依っているということも同著で触れている。
 そして、実際こうして作った堆肥を使った5反歩の田圃からの収穫は、初年度は平年作よりも2俵の増収、次の年はかなりの旱魃だったにもかかわらず平年作、更に次の年は反あたり6俵もとれるようになった。金肥代は要らず、5俵も増収してこんなよい方法はないということになったと、その成果の程が同著に書かれている。
 もちろん、自給肥料だけでは甚次郎の理想とする農業には近づけないので、甚次郎が行ったことは他にもまだある。
 例えば、最初に行ったことは緬羊の飼育である。それは、粗飼料でよいことと羊毛がホームスパンに出来ることなどからであった。
 その他にも、詳細は記さないが
・養蜂
・耕馬の育成
・サイロの建設と活用
・養鶏
・山岳立体農業
・麹、醤油、澱粉、味噌、水飴、缶詰作り
・ホームスパン(松田式紡毛機を発明)
なども行った。
 それは、甚次郎の
 日本の本当の農業は、家族的に勤労し、社会的に協働し、自作、自営、自給独立の過剰生産を以て、社会国家に献ずるの真意義をさとるにある。さうすれば自然と衣食が足るのである。営利主義的個人主義的経営は如何にこれを合理化した処で、直ちに行き詰まって来るのである。
という考え方に依ったものだったのであろう。
というものであった。
 まさに、今風の「持続可能な農業」をその当時甚次郎は実践していたと言える。それも、貧しい農民の智慧を生かして実態に即したが故にであり、甚次郎の農法は実際的でもあり、先見の明があったとも言えるだろう。貧しい農民にふさわしくない賢治の農法とはほぼ真逆であり、かなり違っていたようだ。

 そこで誤解を恐れずに簡潔に言えば、
 松田甚次郎は「賢治精神」を継承はしたが、基本的には賢治の農法は継承はしおらず、当時の貧しい農民の実態に即した甚次郎なりの農法であった。
と言えるのではなかろうか。
 だからこそ、松田甚次郎の許に多くの賛同者が集ったことも、彼の実践報告集『土に叫ぶ』がベストセラーになったことも、宜なるかなと私は納得するのである。

<*1:註> 『本統の賢治と本当の露』において、 
 一方で、甚次郎は周知のように昭和2年3月8日に賢治の許を訪れ、
 先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(筆者略)…
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加わる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。默って十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~〉
ということだし、同年8月8日に賢治の許を再度訪れた甚次郎は、この時のことに関して、
 何だか脚本として物足りなくて仕樣がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の處には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。餘りに有難い貴い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出來上がり、毎夜練習の日が續いた。
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)28p〉
と述べていることも周知のとおりである。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)14p~〉
とある。 
<*2:註> 吉本隆明はある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉
と論じているし、下根子桜の宮澤家別宅の隣人で、羅須地人協会員でもあった伊藤忠一も、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
というように、吉本と同様なことを語っていた。さらには、
 下根子桜の宮澤家別宅で一緒に暮らしていた千葉恭も、
    賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかった。
と語っていた、と恭の三男が言っていた(平成22年12月15日聞き取り)。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)82p〉
と証言している。

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               電話 0198-24-9813

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