みちのくの山野草

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壁材料製造・販売に活路を

2014-07-07 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
関心は壁材料へ
 さて、搗粉の販売計画のもくろみは残念ながら惨憺たる結果に終わったので、別の新たな製品の販売計画を立てねばならないことになった賢治であるが、その新たなる製品とは「壁材料」だった。このことに関して佐藤竜一氏は次のように述べている。
 搗粉の販売が不調に終わり、新たな活路を見いだす必要があった。
 注目したのは、建築用壁材料である。…(略)…
 七月一四日付東蔵宛の手紙にはこう書かれている。

拝啓 御送附の青石早速左官及コンクリー職の人々に照会候処壁砂及人造石材料として矢張相当見込あるべきも価格は紫に及ばざるべき由略々貴方の御見込位らしく御座候 但し何分にも之等の品は大問屋よりも思ひ切って小口に各使用者へ送り候方当方としても割に合ふらしく候 出来得べくば前便八噸中へ右青石及黄黒は見本として十貫宛にてもお入れ願ひ度然らば直(着)次第例の標本作成にかゝり、その上東京関西需要者へ思っ切って宣伝致し見度存候 尚搗粉の方は肥料用炭酸石灰の如く一時に大量は出でざるも冬期は断えず相当の需要あること充分確信有之工場も色々御不白由の場合と存候へ共何卒折角の御取計奉願候
                       敬具
 この手紙にあるように、賢治は建築用壁材料の標本づくりにとりかかっている。セールスのために東京に行く準備もはじめている。
              <『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)153p~より>
 この書簡内容からは、東藏にはまだ搗粉の見通しについては「尚搗粉の方は肥料用炭酸石灰の如く一時に大量は出でざるも冬期は断えず相当の需要あること充分確信有之」と言い添えながらも、何しろ賢治は熱しやすく冷めやすいという性向があるから、もはや東北砕石工場花巻営業所所長としての賢治の専らの関心は「壁材料」の方に移っていったようだ。7月1日と2日の二日間で22軒も営業して回ったのに搗粉は一件の注文も取れずに意気消沈していたのではなかろうかと私は思っていた賢治だが、そんなに落ち込んでいるわけでもなかったように見えるからだ。

着々と準備
 そのことは、それ以降の以下のような東藏宛等の書簡からもうかがえる。
372 七月十九日 鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝復 一昨夕は何の風情もなく寔に失礼仕候 昨日湯本方面へ参り石灰施用地区巡覧致候処此の悪天候乍ら孰れも相当の成績を示し居り殊に椚の目にて施用区不施用区比較したるもの分蘖にて約三-五本位の相違を示し居り候。但し何分の苗不足と冷気に対し色々の原因にて不良なる成績を示したるもの之を石灰の害に帰するもの有之右説明には一寸骨折り候。
次に本日御送附の見本褐と云ふよりは矢張「緒」又は「岱賭」として売り込み度之にて
  赤間  赤
  仝   緒
  仝   黄
  仝   青
  仝   紫
  大理石 灰 を得たる次第に有之何分にも見本各一貫位宛の処殊に赭黄青御調製御送被成下候はゞ早速サムプル調整の上確実なる注文を得度存居候。次に水沢御発送と共に仕切書御発便願上候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)364p~より>
373 七月二十日 鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝復 蛇紋岩砕石拝見仕、あれならば何とも申分無之と存候間何卒右見本共昨日お願通御取計奉願候
次に本日漸く青森市より一通照会参り文面に見るに相当大量の需要らしく候間今回は特に慎重を期し別紙回答御一閲の上価格御加筆見本別便として御発信奉願候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)365pより>
374 七月二十五日 鈴木東藏あて  封書〔封筒ナシ〕
拝啓 …(略)…次に昨日御送附の緑青色標品見事なる色彩に有之一見は第三紀頃のプロピライト系統のものと存ぜられ候へ共産地は西方に有之候や。いづれにせよ充分見込有之と存候。先は何ともお気の毒乍ら右御報迄申上候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)366pより>
376 七月三十日 鈴木東藏あて  封書〔封筒ナシ〕
拝復 水沢及一ノ関よりの貴簡拝誦 中林氏今更売行なきを以て廻送を乞ふなど云はれても誠に困る次第今一応掛合申すべく候間暫時お待ちを願上候 洗ひ出し等の見本着々製作致し居候処只今迄の所にては青鼠の混合、紫鼠の混合の洗ひ出し仲々面々く殊に鼠(石灰岩)に黄が原石より点々に入れるも亦宜しき様に有之次には仰せの如く壁標本及セメントヘ粉を加へたる標本にて即ち総計三十六種(洗ひ出し十二種研ぎ出し十二種セメント加用六種壁六種)を製作し各十通り宛と思ひ居候間何卒右成績亦今少しくお待ち願上候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)367pより>
377 八月十三日 澤里武治あて 封書
やっと暑くありました。お変りはありませんか。この休みにはいっしょに音楽でもやる筈の処をまるで忙がしく歩いてばかりゐて最早残りも少なくなりましたしこのあとも東京、名古屋仙台と出て行かなければなりません。たゞ一ぺん例の軽鉄沿線の人造石原料の調査に出る訳ですがあなたはいまそちらにお出でてすか。また細越近辺乃至沓掛あたり半日ぐらゐご一諸できるでせうか。ご都合お知らせ下されば幸甚です。
「童話文学」といふものへ毎月三十枚から六十枚書く約束しました。あなたの辺にも二三編取材をしたいと思ひます。もしご都合よければ私の方は明日にも出掛けたいと思ひます。  まづは。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)368pより>
378 八月十三日 鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝復仙台よりの御手紙拝誦 合資の件思はしからずとの事孰れにせよ標本は昨日迄に全部仕上り居候間今明日中旅費算段つき次第出京、建築材料にて打開の道を得度存居候…(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)368p~より>
 賢治は建築壁材料、あるいはよく言われているところの「化粧煉瓦」などの見本「サムプル」をつくったり、セールス先のリストをつくったりし、さらにはその宣伝のために8月半ばには上京することを決意していたということになりそうだ。しかも、澤里武治宛の書簡〔377〕には「東京、名古屋仙台」とあるから、この昭和6年の上京の際には仙台に立ち寄ったことは知っていたし、東京にもちろん行ったからそのことについては何ら不思議はないが、「名古屋」もそこに含まれていたことにはびっくりする。最愛の愛弟子である武治に伝えていることだからそれは賢治の本音だったであろう。また同日に、武治と東藏の二人に対して賢治は東京に行くと伝えているのだから、その意志は硬かったであろうし、「今明日中旅費算段つき次第出京」という文言などからは、それを急いでいたとも感じられる。
 そこで私は違和感を感じてしまう。これほどまでに賢治が急いで上京する理由は壁材料の宣伝のためばかりだったとは思えないからである。一つには、以前の羅須地人協会の活動の場合もその期間は7ヶ月前後、今回の東北砕石工場技師についてもそろそろ7ヶ月ほど経ったからである。賢治は一つのことをどうも長続きできないという性向があり、ある一定期間を過ぎるとさっさと諦めて次へ進むという淡泊さがある。岩手県人特有の良さ「粘り強さ」に欠けている。昭和3年の上京は、農繁期に行われた「逃避行」という人もいるものであったが、この昭和6年の上京もそれと酷似しているような気が私にはしてならない。そしてもう一つは、先に挙げた昭和6年7月7日の賢治に関する森荘已池の証言が引っかかるからだ。

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