みちのくの山野草

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思考実験<賢治三回目の「家出」>(中編)

2019-02-06 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

荒木 そういえば、今さっき名前が挙がった菊池武雄とは、この上京の折りに賢治が「春本」をプレゼントしたという人のことだよな。そうすると、賢治は何時どこでそれを菊池に渡したのべ。即重篤になったというのならばその機会がなかっただろうに。
吉田 そのことについては菊池自身が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう語っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したいし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもして上げられませんでした。
            <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~より>
荒木 あれっ、ここには「春本」ではなくて、プレゼントしたのは「○本」とあるけど? あっそっか、この「○本」は「和とぢ」の本つまり「春本」を憚った表現か。
鈴木 でも変だな。さっき吉田が教えてくれた堀尾の記述内容だと菊池は結構賢治の世話を焼いているのに、こちらの菊池の証言によれば菊池は何もしてやれなかったいうことだから矛盾がある。
吉田 矛盾ということで言えば、このことに関しては深沢紅子の証言とも矛盾している。というのは、深沢は随筆「一ぱいの水-賢治との出会い」の中で、昭和6年当時吉祥寺に住んでいた深沢の家に賢治がやって来て、
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これをあずかってください」
新聞紙にくるんで細いひもを十文字にかけた平たい包みを二箇、さし出されました。
            <『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
と述べている。
荒木 えっ! 深沢紅子は菊池武雄と隣同士だったのか。
吉田 そうだよ。たしか、「菊池さんとは、私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいた」というようなこともそこで述べていたはずだ。
鈴木 じぇじぇじぇ、菊池と深沢夫婦はそんなに懇意だったのか。確かに、言われてみれば三人とも同じ岩手出身の画家だからな。こうなったのではっきり言ってしまうけど、実は前に私が紹介した「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」だが、このようにちゑが漏らしたその相手こそ深沢紅子だったのだ。
吉田 そうだったのか、なるほどな。
鈴木 もちろん菊池は見合いの世話をしたくらいだからちゑとは何らかの繋がりはあっのだろうとは思っていたが、今までなぜ紅子にちゑがこんなことを、しかもざっくばらんに言ったのかその背景がいまひとつわからずにいた。それが、深沢と菊池は隣同士で住む程に親しくて
    深沢紅子⇔菊池武雄⇔伊藤ちゑ
という繋がりができていたのか。これで腑に落ちた。
吉田 しかも、伊藤ちゑは1921年盛岡高等女学校卒(『宮澤賢治の幻の恋人』165p より)、一方の深沢(四戸)紅子も同じく盛岡高等女学校1919年卒 (『追憶の詩人たち』巻末より )だからちゑは2年後輩の同窓生、高等女学校の就学期間は5年間なのでちゑと深沢は3年間同時期に盛岡高女に通っていたと考えられる。だから、
    菊池武雄⇔画家⇔深沢紅子⇔同窓生⇔伊藤ちゑ
という繋がりもあった。
鈴木 なるほど、そうなると菊池がちゑのお見合いをお膳立てしたということもなんとなく頷ける。
吉田 そこで先程の荒木の質問の「どこで」に対する答にもなると思うのだが、深沢はこんなことも続けて証言している。
 さて、夕方帰宅された菊池さんは、残念がりながら、いったい何をおいて行ったんだろうと、早速二つの包みを開いてみる事になりました。小さい方の包みからは、江戸時代の絵草紙の本が出て来ました
           <『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
荒木 そうか、深沢は奥ゆかしく「江戸時代の絵草紙の本」と言っているが、実はこれが例の「春本」のことか、なるほど。
鈴木 となれば、確かに菊池と深沢の証言の間には矛盾があるが、両者を比較すればこの件に関してはどうやら深沢の証言の方が信憑性が高いな。さっきの矛盾、今度の矛盾共に菊池絡みだからな。ここは信頼度が高いのは深沢の方とならざるを得ないだろうから、答は「吉祥寺で」となるのか。もしかすると、菊池は何かを庇っているのかもしれないな。
荒木 つまり、「賢治はどこでそれを渡したか」の答は駿河台の八幡館でではなくて吉祥寺でだろう、ということか。
吉田 そしてほら、この時の鈴木東藏宛書簡〔395〕にこんなことが書いてある。
 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之
             <『校本全集第十三巻』(筑摩書房)380p~より>
荒木 となれば、「廿日夜烈しく発熱致し」ということだから賢治は9月20日の夜からひどい熱発、その後は床に就いていたようだから、その前に吉祥寺を訪れていたことになり、それはやはり9月20日しかあり得ないな。
鈴木 それに9月20日付鈴木東藏宛書簡〔392〕の方も見てみると「午后当地に着」とあるから、20日の午後に着京してその足で吉祥寺へ行ったかもしれないな。
吉田 実はこの件に関して、賢治はあの『雨ニモマケズ手帳』の二頁目にも次のように、
    昭和六年九月廿日/再び/東京にて發熱。
と書き込んでいるから、賢治はやはり9月20日に突如「熱発」したとするしかない、と以前の僕は考えていた。
荒木 だが、実はそうとも言えないというのか?

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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