みちのくの山野草

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『春と修羅 第三集』昭和3年分より

2018-06-22 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 さて、先に〝『春と修羅 第三集』大正15年分より〟において報告したように、『春と修羅 第三集』の大正15年分の日付の詩篇からは、貧しい農民たちのために賢治が東奔西走したということを窺わせるような詩が見つからなかった。では「羅須地人協会時代」の残りの年でどうだったのであろうか。

 そもそも、「羅須地人協会時代」の賢治はどれほどの詩を当時詠んでいたのだろうか。その創作数の推移をまず調べてみると下表のようになっていた。

             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
この表から直ぐに言えることは、昭和2年分の日付のものはかなり多く、昭和3年分のものは極めて少ないということだ。

 そこで、まずは『春と修羅 第三集』所収の昭和3年分の日付のついた詩篇は具体的にはどういうものかを調べてみた。すると、以下のたった3篇しかなかった。 
台地   一九二八、四、十二、
   日が白かったあひだ、
   赤渋を載せたり草の生えたりした、
   一枚一枚の田をわたり
   まがりくねった畔から水路、
   沖積の低みをめぐりあるいて、
   声もかれ眼もぼうとして
   いまこの台地にのぼってくれば
   紺青の山脈は遠く
   松の梢は夕陽にゆらぐ
   あゝ排水や鉄のゲル
   地形日照酸性度
   立地因子は青ざめて
   つかれのなかに乱れて消え
   しづかにわたくしのうしろを来る
   今日の二人の先達は
   この国の古い神々の
   その二はしらのすがたをつくる
   今日は日のなかでしばし高雅の神であり
   あしたは青い山羊となり
   あるとき歪んだ修羅となる
   しかもいま
   松は風に鳴り、
   その針は陽にそよぐとき
   その十字路のわかれの場所で
   衷心この人を礼拝する
   何がそのことをさまたげやうか

停留所にてスヰトンを喫す        一九二八、七、二〇、
   わざわざここまで追ひかけて
   せっかく君がもって来てくれた
   帆立貝入りのスイトンではあるが
   どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
   この玻璃製の停留所も
   なんだか雲のなかのやう
   そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ
   この田所の人たちが、
   苗代の前や田植の后や
   からだをいためる仕事のときに
   薬にたべる種類のもの
   除草と桑の仕事のなかで
   幾日も前から心掛けて
   きみのおっかさんが拵えた、
   雲の形の膠朧体、
   それを両手に載せながら
   ぼくはたゞもう青くくらく
   かうもはかなくふるえてゐる
   きみはぼくの隣りに座って
   ぼくがかうしてゐる間
   じっと電車の発着表を仰いでゐる、
   あの組合の倉庫のうしろ
   川岸の栗や楊も
   雲があんまりひかるので
   ほとんど黒く見えてゐるし
   いままた稲を一株もって
   その入口に来た人は
   たしかこの前金矢の方でもいっしょになった
   きみのいとこにあたる人かと思ふのだが
   その顔も手もたゞ黒く見え
   向ふもわらってゐる
   ぼくもたしかにわらってゐるけれども
   どうも何だかじぶんのことでないやうなのだ
   ああ友だちよ、
   空の雲がたべきれないやうに
   きみの好意もたべきれない
   ぼくははっきりまなこをひらき
   その稲を見てはっきりと云ひ
   あとは電車が来る間
   しづかにこゝへ倒れやう
   ぼくたちの
   何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
   しづかにこゝへ倒れて待たう

穂孕期          一九二八、七、二四、
   蜂蜜いろの夕陽のなかを
   みんな渇いて
   稲田のなかの萓の島、
   観音堂へ漂ひ着いた
   いちにちの行程は
   ただまっ青な稲の中
   眼路をかぎりの
   その水いろの葉筒の底で
   けむりのやうな一ミリの羽
   淡い稲穂の原体が
   いまこっそりと形成され
   この幾月の心労は
   ぼうぼう東の山地に消える
   青く澱んだ夕陽のなかで
   麻シャツの胸をはだけてしゃがんだり
   帽子をぬいで小さな石に腰かけたり
   みんな顔中稲で傷だらけにして
   芬って酸っぱいあんずをたべる
   みんなのことばはきれぎれで
   知らない国の原語のやう
   ぼうとまなこをめぐらせば、
   青い寒天のやうにもさやぎ
   むしろ液体のやうにもけむって
   この堂をめぐる萓むらである
              <共に『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>

 さてそうすると、『春と修羅 第三集』所収の
⑴ 台地
⑵ 停留所にてスヰトンを喫す
⑶ 穂孕期
の3篇の詩によって、賢治は貧しい農民たちのために東奔西走したということが導かれるかどうかだ<*1>。

 まず⑴についてである。『新校本年譜』によれば、
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
という。そこで、
   日が白かったあひだ、
   赤渋を載せたり草の生えたりした、
   一枚一枚の田をわたり
   まがりくねった畔から水路、
   沖積の低みをめぐりあるいて、
   声もかれ眼もぼうとして
   いまこの台地にのぼってくれば
を字面どおりに解釈すれば、賢治は朝方からあちこちの田圃等を巡って農民たちを指導してきてすっかり「声もかれ眼もぼうと」疲労困憊して下根子桜の台地に戻ったということになりそうだが、そもそもこの詩が「四、十二、」に実際に詠まれたものであるとすれば、一体賢治はこの時期何を指導したというのだろうか。
 私からすれば考えられることはただ一つあり、賢治がそれぞれの田圃の持ち主に代わって肥料を撒布して廻ったならばそのような疲労困憊もあろうが、農作業のプロでもない賢治(実技が下手だったといわれている)に対して、そのプロでもある農民がそんなことを賢治にさせるはずがないと普通は判断できるだろう。しかも、農民でもない藤原嘉藤治、菊池武雄がついて廻りながら賢治がそのようなことをしていたということもまたあまりにも不自然だ。そしてそれ以上に、この当時貧しい農民は肥料を買えなかった時代だから、少なくともこの一篇の詩をそのまま還元したところで、賢治は貧しい農民たちのために東奔西走したということはほぼ言えないと判断できる。

 では次に⑵の<停留所にてスヰトンを喫す>についてである。この詩には地名の「金矢」とあり、「電車の発着表を仰いでゐる」とあるから、「せっかく君がもって来てくれた」の「」とはおそらく小瀬川に住んでいた教え子の平來作のことであろう。ということで、賢治は実際に農民のために稲作指導をしていたことがこの字面からは裏付けられれそうだ。さりながら、この⑵によって、賢治が貧しい農民たちのために東奔西走したということまでが保証されるということはない、ということもほぼ自明だ。しかも、実はこの詩は「10番稿」の一つであるということだからなおさらにである。
 なお、その「10番稿」とは何かというと、賢治が『この篇みな/疲労時及病中の心ここになき手記なり/発表すべからず』と記して封印した詩稿群であり、この「10番稿」のリストは以下の、
・第二集          506 〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕
・第二集          383 鬼言(幻聴)
・第三集 春と修羅  715   〔道べの粗朶に〕
・第三集 春と修羅  735   饗宴
・第三集 春と修羅  738   はるかな作業
・第三集 春と修羅  740   秋
・第三集 春と修羅  1015   〔バケツがのぼって〕
・第三集 春と修羅  1022   〔一昨年四月来たときは〕
・第三集 詩稿補遺  おぢいさんの顔は
・第三集 春と修羅  1025   〔燕麦の種子をこぼせば〕
・第三集 春と修羅  1033   悪意
・第三集 春と修羅  1036   燕麦播き
・第三集 春と修羅   午
・第三集 春と修羅  1048   〔レアカーを引きナイフをもって〕
・第三集 春と修羅  1066   〔今日こそわたくしは〕
・第三集 詩稿補遺  〔みんなは酸っぱい胡瓜を噛んで〕
・第三集 春と修羅  1077   金策
・第三集 春と修羅  1079   僚友
・第三集 春と修羅  1082   〔あすこの田はねえ〕
・第三集 春と修羅  730ノ2  増水
・第三集 春と修羅  1020   野の師父
・第三集 春と修羅  1021   和風は河谷いっぱいに吹く
・第三集 春と修羅  1088   〔もうはたらくな〕
・第三集 詩稿補遺  〔降る雨はふるし〕
・第三集 春と修羅   台地
・第三集 春と修羅   停留所にてスヰトンを喫す
・第三集 詩稿補遺  心象スケッチ 林中乱思
・第三集 詩稿補遺  〔鉛いろした月光のなかに〕
・文語詩未定稿    〔月光の鉛のなかに〕
・第三集 詩稿補遺  〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕
・第三集 詩稿補遺  毘沙門天の宝庫
・第三集 詩稿補遺  霰
・第三集 詩稿補遺  三月
・第三集 詩稿補遺  会見
・第三集 詩稿補遺  〔あしたはどうなるかわからないなんて〕
・第三集 詩稿補遺  保線工夫
・第三集 詩稿補遺  会食
・第三集 詩稿補遺  〔まあこのそらの雲の量と〕
・第三集 詩稿補遺  〔湯本の方の人たちも〕
・文語詩未定稿    〔馬行き人行き自転車行きて〕
・第三集 詩稿補遺  春曇吉日
・第三集 詩稿補遺  冗語
・第三集 詩稿補遺  〔もう二三べん〕
・第三集 詩稿補遺  〔馬が一疋〕
・文語詩未定稿    スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説
・補遺詩篇Ⅱ      〔十いくつかの夜とひる〕
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)補遺・資料 草稿通観篇』(筑摩書房)662p~>
であり(『春と修羅 第三集』所収の詩篇は全部で69篇あり、そのうちの21篇(1/3 弱)が封印されていたことになる)、「疲労時及病中の心ここになき手記」というような賢治の詩の内容をそのまま還元して歴史的事実であるとは言えない、ということは当たり前だろう。少なくとも裏付けがとれたり、検証できたりせぬ段階ではこれ等の詩を安易に考察の際の資料としては使えないということである。ちなみに、実は⑴の台地も「10番稿」であり、同じような論理で前述の⑴についての「判断」は妥当だったと言えるのではなかろうか。

 となれば、『春と修羅 第三集』所収の昭和3年に賢治が読んだであろう詩について、賢治が貧しい農民たちのために東奔西走したということを窺わせることができる詩としては「⑶ 穂孕期」しかなくなった。そこでこの詩「穂孕期」についてだが、このまま仮に還元してみたところで、賢治が農民たちを指導していたであろうことは間違いなかろうが、このただ一篇の詩によって、「羅須地人協会時代」の賢治は貧しい農民たちのために東奔西走したと言うには、あまりにも根拠薄弱であろう。
 しかも、例えば
   みんなのことばはきれぎれで
   知らない国の原語のやう
   ぼうとまなこをめぐらせば、
   青い寒天のやうにもさやぎ
   むしろ液体のやうにもけむって
   この堂をめぐる萓むらである
という連からは、賢治はまさに「心ここにあらず」ということが言えそうで、賢治がこの時喜び勇んで「みんな」のために指導してあちこち廻っている様子は窺いにくい。逆に、そこからは最早賢治には農民たちへの指導そのものに気力は萎えつつあったということが私には読み取れる。ご承知のように、賢治はこの20日弱後の8月10日に下根子桜を撤退したわけだが、それは
 「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)88p〉
ということを検証してしまった私からすれば、詮方無いことだからなおさらにだ。
 これはあくまで私の妄想だが、賢治のこの時の「いちにちの行程は」、いよいよ下根子桜から撤退するということを前にしての贖罪の意味のそれだったのかもしれない。

 とまれ、こうなってしまったならば、「羅須地人協会時代」の賢治が貧しい農民たちのために東奔西走したということを、『春と修羅 第三集』の残された昭和2年分の日付の詩篇を拠り所として言えるかどうかだ。

<*1:註> 上掲表の昭和3年分については、賢治は6月に7篇の詩を詠んでいるわけだが、これは『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)によれば、
六月一〇日(日)<高架線>
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部>
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象>
六月一九日(火) <神田の夜>
六月二〇日(水)?<自働車群夜となる>
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>
のことであり、いずれも『春と修羅 第三集』所収のものではないし、<〔澱った光の澱の底〕以外の詩については稲作指導に関するものでもない。
 ちなみにそれは次のような詩である。
〔澱った光の澱の底〕
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
   こゝではいつも
   電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き
   雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし
   麦もざくざく黄いろにみのり
   雲がしづかな虹彩をつくって
   山脉の上にわたってゐる
   これがわたくしのシャツであり
   これらがわたくしのたべたものである
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~より>
 しかしこの詩については、かつて〝「しばらくぼんやりして居た」帰花後の賢治〟で論じたように、賢治がこの詩に
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んでいるようなことが実際行われたのかというと、それは限りなくゼロに近い。言い換えればこれは「詩」に過ぎないと判断せざるを得ない。つまり、この詩〔澱った光の澱の底〕の内容を根拠として賢治はこの頃農民のために東奔西走したということなどはできないだろう。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、宮沢賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

〈鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
をこの度出版した。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付された。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題の本である。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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