不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

甚次郎は深慮遠謀の人であった

2019-02-14 10:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、では「農村劇をやれ」と「訓へ」られた甚次郎のその後はどうであったであろうか。
 このことに関しては、『土に叫ぶ』の「三 村芝居」という章に次のようなことが先ず書かれている。
 團結へ 宮澤先生に誓つた「芝居をやる」の一言は愈歸鄕して、實現となると容易なことではない。先づ第一に同志を得ることだと考へたが、同級生も下級生も下級生も六年の間ろくに會はない<*1>ので、お互いに遠慮勝ちとなつて居た。だがこの變に氣まづい思ひを押切つて「話があるから集まつてもらひたい」と、ふれを廻したら、十五六名が來てくれた。そこで「休日に色々と話し合つたり、そこいらを見物したりする、たのしい會を作らうではないか」と皆んなの顏を見廻したら、幸ひ賛成を得、四月二十五日を期して鳥越倶樂部と呼ぶ會費も會則もない左の綱領のみの會が誕生した。
 一 天皇陛下の御光の下に、鳥越彌榮に全力を盡さん
 一 我等は鄕土文化の確立、農村藝術の振興に努めん
 一 我等は農民精神を鍛錬し、以て農民の本領を果さん
 …(投稿者略)…その後休日には寺の本堂を借りて、富田文雄氏著の『農民讀本』について硏究したり、好天氣のに日は獨逸のワンダー・フォーゲル式に、山を、谷を、近隣のをと盛んに歩いたものだ。さうして居るうちに、次第に團結も強くなり、目標もはつきりして來たので、益々その熱が加つて來た。
             〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)26p~〉
 ここを読んで私は甚次郎を見直しかつ反省した。というのは、甚次郎は賢治に「煽られて」よく考えもせずに小作人となり、その流れで農村劇もやり、そのことを書いた実践記録『土に叫ぶ』がたまたまベストセラーになったのかもしれない、と私は多少思っていたことを否定しきれない。ところが、上掲引用部分の中身を知って、いやいや甚次郎ってなかなか深慮遠謀に長けていた人だったのだということを私は覚ったからだ。しかも、それこそ甚次郎の師・宮澤賢治の花巻農学校の辞職の真相をある程度知ったしまっていたから、なおさらにであった。

 つまりこういうことである。甚次郎は、盛岡高等農林を昭和2年3月に卒業して故里山形の稲舟村に帰り、時を措かず、同年4月25日に集まった仲間と「鳥越倶楽部」を結成したわけだが、それは、ゆくゆくは「農村劇を上演」したいがためにまずは仲間を作り、その団結を高めようとしたのだと私には理解できたからである。
 ところが一方の賢治は、
 賢治は生徒たちに対しては「農民になれ」と言いながらも、自分自身は俸給生活をしているということには当然矛盾があるので、実際に農民になって生徒たちに範を垂れようとして賢治は花巻農学校を辞めた。
と一般には受け止められているようだが、〝唐突な花巻農学校辞職〟等でも論じたように、
 周到な準備も綿密な計画もあったわけではなく、まして将来的な展望があって辞めたということではなかった。
というのが、現時点での私の実証結果だ。
 そしてまた、この辞職の際に賢治は記者からの取材に対して、「幸同志の方が二十名ばかりありますので」(大正15年4月1日付『岩手日報』)と答えていたことになるのだが、3月末に唐突に辞めた賢治が、翌月4月1日付の紙上でこう記者に答えた「同志」ではそれほどの団結は実際問題上あり得なかろう。しかも、その「同志」とは、賢治より一回り年下の、農学校の教え子や近隣のの若者たちが殆どだったのである。
 となれば容易に想像がつくことが、このような二人の心構えの違いが、それぞれの塾である「最上共働村塾」と「羅須地人協会」の爾後の実践内容と活動期間を当初から暗示していたということである。

<*1:註> 『「賢治精神」の実践 松田甚次郎の最上共働村塾』所収の「松田甚次郎年譜」によれば、
 大正一二年 一五歳。三月日新小学校高等科卒業
          四月五日、 楯岡町県立村上農学校入学
 大正一三年 一六歳。稲舟村如法寺田宮真龍とともに日曜学校を開く
 大正一五年 一八歳。村上農学校卒業
          四月、盛岡高等農林学校農業別科入学。
           〈『「賢治精神」の実践 松田甚次郎の最上共働村塾』(安藤玉治著、農文協)242p~〉
ということだから、大正12年4月以降甚次郎は学生だったので、稲舟村鳥越にはしばらくの間住んでいなかったということになるのだろう。

 続きへ
前へ 
 ”「甚次郎と賢治の違いは何、何故」の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「粗雑な推定」はどの部分か? | トップ | たしかに小倉には「粗雑な推定... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

甚次郎と賢治」カテゴリの最新記事